子守神社 / 千葉県千葉市

子守神社(こまもりじんじゃ)

御祭神:建速素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命)
社格等:村社
例大祭:9月15日-17日
所在地:千葉県千葉市花見川区幕張町2-990
最寄駅:幕張駅・京成幕張駅・幕張本郷駅
公式サイト:─

御由緒

 当神社の創設については不明であるが、最古の記録には次のように書かれている。千葉介平常胤の四男、大須賀四郎平胤信が、父よりこの幕張の地を譲り受けて城を築いた。建久四年(1194)五月、源頼朝の命により富士の御狩場に赴く際に当社へ祈願し、良い成果が得られた。その御礼として社殿を造営し、胤信の次男、中須加神太夫平正胤をその社司神家とし、武運長久、五穀豊穣、郷中家内安全並びに氏子家内安全諸祈願をさせた。
当所、馬加城近くの本郷須賀の元社逢坂に鎮座していたが、氏子が浜辺へ移住すると共に、永正五年(1508)現在の地に遷宮した。
当社名は建速素盞嗚命(=素加湯山主弥那佐呂彦八嶋篠尊)の名から「素加天王神社」とされていた。その後、磯出神事の際に祭馬が数多く集まったことから「馬加神社」、磯出神事の役割から「子守神社」となったようである。

(※境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/02/02

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。
子守神社


歴史考察

祇園信仰と幕張総鎮守

千葉県千葉市花見川区に鎮座する神社。
旧社格は村社で、幕張の総鎮守とされている。
「こもりじんじゃ」と読んでしまう人も多いようだが「こまもりじんじゃ」が正しい読み方。
船橋市の「二宮神社」を中心とする式年連合大祭(通称:下総三山の七年祭り)という祭事で、子守りの役割を担っている。

祇園信仰の歴史

創建については不詳とされている。
その昔、この周辺が素加といった頃は「素加天王神社」と称していたようだ。
現在の御祭神である素盞嗚命は、かつて牛頭天王と神仏習合されており、天王社という呼び名から元は祇園信仰であったのだろう。

幕張は中世の頃まで素加もしくは須賀と表記されており、現に大須賀山、須賀原などの地名が現在も残っている。
この須賀というと「須賀神社」という全国に存在する祇園信仰の神社がある。
この辺との関係も見えてくるように思う。

千葉氏一族による社殿造営

その後、千葉氏中興の祖とされる千葉常胤がこの周辺を支配。

常胤の四男に大須賀四朗胤信という人物がおり、父よりこの幕張の地を譲り受けて治承四年(1180)に馬加城を築いたとされている。
大須賀という姓も素加(須賀)との関連を推測させてくれる。

建久四年(1193)に、源頼朝の命により富士御狩場に赴く際に当社へ祈願し、良い成果が得られたため、その御礼として社殿を造営し、胤信の二男を当社の社司神家としたと伝わる。
これが当社についての最も古い記録とされており、千葉氏の流れを汲む神社なのが分かる。

その証拠に、当社の神紋は九曜紋と月星紋が合わさった九曜月星。

九曜紋系の多曜紋の紋は千葉氏が関連した神社に多く残る。
これは千葉氏が妙見信仰であったため、妙見と繋がりがある九曜紋を用いたため。
代表的なのが「千葉神社」であろう。
(他に同じく妙見信仰だったといい千葉氏と同様の桓武平氏の流れである平将門関連の神社にも見られる。)

馬加城と幕張の地名由来

元は、馬加城近くの本郷須賀の元社逢坂に鎮座していたそうだ。
氏子が浜辺へ移住すると共に、永正五年(1508)現在の地に遷座した。

この「馬加城」は「まくわりじょう」とも読む事ができる。
素加(須賀)と呼ばれていたこの周辺だが、馬加城が築城後は近世まで「馬加」と呼ばれるようになる。
この名の由来だが、千葉に多くみられる源頼朝伝説のひとつとして、源頼朝が幕張の地に立ち寄った際に馬を乗り換えた(馬を加えた)ので「馬加」になったと云われている。
なお、当社では磯出神事の際に祭馬が多く集まった事が由来としているようだ。
この頃には当社は「素加天王神社」から「馬加神社」に改称されたようである。

ちなみに「幕張」の地名の由来は諸説あるのだが、その中にこの馬加(まくわり)が転じて「まくはり」になったという説が存在している。
個人的には中世などの地名を掘り下げてみた歴史的にも、この馬加が転じたという説を推したい。

下総三山の七年祭り

室町時代には、現在も行われている「下総三山の七年祭り」の神事が行われたとされている。
文安二年(1445)、馬加の城主千葉康胤の奥方が懐妊11ヶ月になっても、出産の模様がなく、康胤は心配して「二宮神社」「子安神社」「子守神社」「三代王神社」の神職に、馬加の磯辺において安産祈願を命じた。
執行後間もなく無事出産されたことにより、康胤は御礼の祭典を近郷の総社「二宮神社」において盛大に斎行し、これが七年大祭の起源とされている。
現在の7年に1度に行われるようになったのは、享保十二年(1727)であると伝えられている。

いつの頃からか、「時平神社」「八王子神社」「高津比咩神社」「菊田神社」「大原大宮神社」の5社が新たに加わり合計で9社による式年連合大祭となる。
そして以下の通り、それぞれの役割を持った現在の形になった。

二宮神社(父親)」「 子安神社(母親)」「 子守神社(子守り)」「 三代王神社(産婆)」
「 時平神社(息子)」「八王子神社(息子)」「高津比咩神社(娘)」「菊田神社(伯父)」「大原大宮神社(伯母)」

このように当社は「子守り」としての役割を担っている。
そのため、「素加天王神社」後に「馬加神社」と呼ばれていた当社も、自然とこの神事の役割から「子守神社」との名で呼ばれるようになっていき、現在に至っている。

ちなみに「下総三山の七年祭り」は平成二十七年(2015)に斎行されたばかり。
次回は七年後の2022年になる。

珍しいガラス張りの本殿覆屋

社殿は比較的新しい。
平成十六年(2004)に再建されたもの。

拝殿と本殿覆屋が一体になっているもので、本殿覆屋はガラス張りとなっている。
ガラス張りになっている覆屋のため、中にある古い本殿を見る事ができ珍しい。

覆屋を造り古い本殿を保護しつつ、参拝者が見る事もできるように配慮されているのが嬉しい。

社殿左手には境内社の厳島神社。

厳島神社らしく池で囲まれており(この日は水が張られていなかったが)、綺麗に整備されているのが伝わる。

御神木は雄の大銀杏。

樹齢は200-250年との事で、大変大きく雄大である。

御朱印は社務所にて。
宮司様は書がお好きらしく達筆。
社務所にも色々と直筆のものが飾られていた。

所感

幕張の総鎮守として崇敬を集める当社。
祇園信仰であったと推測できる歴史、そして馬加の地名と幕張の由来。
そして「二宮神社」を中心とする、「下総三山の七年祭り」での役割。
当社を調べる事で、色々と幕張の歴史を紐解く事ができるのが興味深い。
境内は全体的に整備が整っており綺麗でさっぱりとした印象で、社殿の再建など整備が行き届いている事からも、地域の方の崇敬が篤い事が伝わってくる。
御朱印は力強く勢いのあるもので、御朱印を集印している方には目を引くものではないだろうか。
当社と共に地域の歴史を知る事ができる、良い神社だと思う。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿(覆屋) ]


[ 厳島神社 ]


[ 錨 ]

[ 天神社 ]


[ 御神木 ]

[ 神輿庫 ]

[ 社務所 ]

[ 稲荷社 ]

[ 石碑 ]

[ 由緒書 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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