深見神社 / 神奈川県大和市

大和市

深見神社(ふかみじんじゃ)

御祭神:闇龗神・武甕槌神・建御名方神
社格等:延喜式内社(小社)・郷社
例大祭:9月敬老の日の前日
所在地:神奈川県大和市深見3367
最寄駅:大和駅・瀬谷駅
公式サイト:─

御由緒

 深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第二十一代雄略天皇二十二年三月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龗神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総國風土記による)。
年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。
明治六年十二月、太政官布告によって郷社に列せられたが同八年、隣地仏導寺の出火に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳となった。明治四十二年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和十五年九月三日炎上以来、実に五十五ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇敬者の熱情は逐に昭和十六年十一月十五日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同十七年三月二十五日、改めて郷社に列格した。
平成二十四年三月本殿再建七十年の節目を迎え社号標石建立と共に延喜式神名帳登載の御祭神闇龗神を御倉稲荷神社から本殿へ合祀した。
尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和二十六年四月七日、鎮座祭を執行し摂社とした。

(深見神社奉賛会謹誌)
(※頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/01/11

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。
深見神社


歴史考察

式内社としての歴史ある古社

神奈川県大和市深見に鎮座する神社。
延喜式神名帳に記載された相模国十三社のうちの一社。
旧社格は郷社で、長らく「鹿島社」とされていたため、現在も「鹿島さま」と呼ばれる事がある。

御祭神の闇龗神の謎

当社の創建年代は、明治九年(1876)の火災により、古文書などが全て消失しているため不詳。
「総国風土記」によると、雄略天皇二十二年(478)に創祭、とあり、朝廷より奉幣の事が記されている。
さらにお祀りしているのは、闇龗神、とも記載されており、創建当初の祭神は闇龗神であったとされる。

闇龗神(くらおかみ)は水神・雨神ともされる神。
雨や水は農耕とも密接な関係もあるため、この地に暮らすの人々により、土着の信仰でお祀りされていたものと推測できる。

当社の縁起ではこう伝わる。
東国鎮撫のため武甕槌神が舟師を率いて常陸鹿島よりこの地に進軍した際、倉稲魂神と闇龗神によりこの地が治められ、雨神である闇龗神はこの地に美田を拓き土民による郷を開き、これが深見の始まりとされる。
但し、これは後世に作られた縁起の可能性が高いように思う。(詳しくは後述)
いずれにせよ、元々は「闇龗神」がお祀りされていたと考えるのが有力だろう。

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では小社として記載。
相模国で式内社に記載されたのは十三社であったため、延喜式内相模国十三社の一社ともされる。
この頃には朝廷にも伝わる規模を誇っていた事が分かり、やはり御祭神は闇龗神である。

その後も、源頼朝・渋谷庄司重国・太田道灌・武田信玄・後北条氏(小田原北条氏)といった時代の権力者達に信仰されたとある。

鹿島社となった御祭神変遷の謎

「闇龗神」をお祀りしていた当社が、「鹿島社」に変わるのは、江戸時代以降と見られている。
きっかけは江戸時代に深見の領主であった坂本氏によるものと思われる。
旗本の坂本小左衛門重安というこの地の領主は、大阪の陣の際も当社で武運長久を祈願していたり、田の寄進もしていたりと、当社を大変崇敬したようだ。

そんな坂本小左衛門重安だが、当社に常陸国一之宮の「鹿島神宮」より武甕槌神を勧請している。
これにより御祭神が闇龗神から武甕槌神に取って代わり、「鹿島社」と称されるようになる。
この際にこれまでの祭神であった闇龗神は境内社の「御倉稲荷神社」に合祀されたと思われ、以来、武甕槌神のみが当社の御祭神とされてしまう。
上述の当社に伝わる縁起もこの時代以降に作られたものだろう。

何故このような御祭神の変更が起きてしまったのか。
それには坂本氏という領主を見ると、何となく答えが見えてくる。

坂本氏は武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕えた武田氏の家臣であった。
しかし、織田信長の武田攻めで武田氏が滅亡すると、徳川家康の家臣となる。
家康による小田原征伐後は、家康から370石の知行を与えられた。
その坂本氏が与えられた領地が常陸国鹿島と相模国深見なのだ。

この事から分かるように、常陸国鹿島の領主でもあった坂本小左衛門重安が、一之宮であり古来より格式高い「鹿島神宮」を崇敬するのは当然の事であり、この深見の地にも勧請したのは当然の事とも言えるだろう。
そして当社を「鹿島社」としてしまったものと思われる。

その後、坂本小左衛門重安の養子で寺社奉行となった坂本内記重治は、天和二年(1682)に1万石の大名として深見藩を立藩している。
但し、寺社奉行の怠慢があったとされお咎めを受け、5年足らずの短期間で終焉している大変短命な藩で、坂本氏は大名から旗本に戻っている。

深見の領主として、かつての領地の一之宮であった「鹿島神宮」から勧請した当社を、「鹿島社」として崇敬したのも致し方無い事なのかもしれない。

そんな坂本内記重治は、当社を度々参拝しながら社殿の造営も行っており、さらに現存する「相模國十三座之内深見神社」と記す社号標を建てたと伝えられている。

しかし、彼の生存時期は、寛永七年(1630)-元禄六年(1693)であり、社号標に記された年号は寛政三年(1791)であるため、年代が全く合わないため、その辺は眉唾ものだろう。
なお、この社号標には武甕槌神の文字も彫られてあり、やはり江戸時代は「鹿島社」であったのが分かる。

天保十二年(1841)に編纂され成立した「新編相模国風土記稿」には当社についてこう書かれている。

(深見村)鹿島社
村の鎮守なり、鳥居の傍に石標あり、相模国十三座之内、深見神社と彫る、式内郡中小社五座の一なり。神名帳曰、高座郡小五座、深見神社云々。祭神は武甕槌尊なり。鹿島と号するは常州鹿島神社と祭神同じきのみにあらず、彼社世に著名なればかく呼習せり。祭礼村内諏訪神社と隔年十一月月日を卜して執行す。当日瀬谷村(鎌倉郡属)寶蔵寺の僧来りて法楽をなす。村持。
末社、稲荷。
神木、松一株囲三丈程、此余社地に老松樹数株あり。

やはり「鹿島社」と記載されている。
御祭神も武甕槌神とある。
上述の社号標についても触れられており現在同様に「深見神社」とも呼ばれていたようだ。

明治以降の荒廃からの復興

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)に郷社に列している。

しかしながら、明治九年(1876)に隣の「仏導寺」にて火災が発生。
その延焼により、社殿から古文書に至るまで尽く焼失。
その後、社殿も再建されず荒廃した期間が続いたようだ。

明治四十二年(1909)、政府が推し進めていた神社合祀の影響を受け、村内の「諏訪神社」を合祀。
「諏訪神社」の御祭神である建御名方神を相殿で合祀している。
この時点ではまだ社殿の再建はされておらず、仮殿のみの荒廃した状況が続いていた。

再建がされるのは焼失から66年後の昭和十六年(1941)の事。

無事、再建となったため、昭和十七年(1942)には再び郷社に列している。
現在の社殿はこの時のものが現存。

江戸時代の領主坂本氏により「鹿島社」とされ、御祭神が長らく武甕槌神のみであった当社。
明治四十二年(1909)に「諏訪神社」を合祀し、建御名方神を相殿としたが、創建当時の御祭神である闇龗神が本殿に合祀され復帰したのは、ごく最近の出来事。

平成二十四年(2012)に、再建70周年を記念して新しい社号標を建立。

その際に創建当時の御祭神である「闇龗神」が境内社の「御倉稲荷神社」より本殿に合祀された。
よって、現在の当社の祭神は闇龗神、武甕槌神、建御名方神の三柱となっている。

境内社や御神木ハルニレも注目

社殿は上述の通り昭和十六年(1941)に再建されたもの。
境内社には上述の闇龗神と倉稲魂神がお祀りされていた御倉稲荷神社。

現在は闇龗神が本殿へ合祀されたため、倉稲魂神のみがお祀りされている。
当社の古社地と云われ、かつてはこの辺りに当社の拝殿が東向きにあったとされる。

そのお隣には靖國社。

元は、厚木海軍飛行場の敷地内で昭和十九年(1944)に「厚木空神社」として創祀された神社。
太平洋戦争による厚木航空隊(第三〇二海軍航空隊)の戦死者をお祀りしている。
終戦後に廃祀(取除き)が命じられたため、昭和二十六年(1951)に深見集落の戦没者を合祀して当社地に遷座した。

御神木に樹齢500年のハルニレ。
大和市指定天然記念物となっている。

ハルニレは基本的に山地に自生するため、低地で育つのは全国的にも珍しいとの事だ。
現在はハルニレと判明しているが、古くは何の木か不明であったことから、古くより「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていたとある。
中々に見事な御神木で遠くからもよく目立つ。

御朱印は社務所にて。
拝殿の扁額もそうであったが、崩した字が印象的。

所感

古くからの歴史を持つ当社。
延喜式内社として、古くはかなりの規模を誇っていたように思う。
御祭神の変遷も、この地の歴史を感じさせてくれる。
創建、そして「鹿島社」と呼ばれるに至った理由は、調べるほどに興味深い事実が分かってくる。
その後、衰退をし、明治以降も火事の消失も相まって、かなり荒廃した時期が続いたようだが、現在は再建が行われ綺麗に維持されており、神職や多くの崇敬者による尽力によるものなのだろう。
この日も多くの方が参拝されており、地域の方に崇敬され続ける良社に思う。

神社画像

[ 一の鳥居 ]
[ 社号碑(寛政三年) ]
[ 狛犬 ]
[ 二の鳥居・参道 ]
[ 三の鳥居・社号碑 ]
[ 境内 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 御倉稲荷神社]
[ 靖國社 ]
[ 御神木(ハルニレ) ]
[ 神楽殿 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]

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