素盞雄神社 / 東京都荒川区

素盞雄神社(すさのおじんじゃ)

御祭神:素盞雄大神・飛鳥大神
社格等:郷社
例大祭:6月3日(天王祭)・9月15日
所在地:東京都荒川区南千住6-60-1
最寄駅:南千住駅・三ノ輪橋駅・千住大橋駅
公式サイト:http://www.susanoo.or.jp/

御由緒

小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で、「てんのうさま」とも呼ばれる。
石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をしたニ神(素戔雄命、事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
宝暦年間頃(1751-64)まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳時記」にその雄壮な様が描かれている。

(※境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2015/11/15

御朱印

初穂料:お気持ち(片面300円・見開きの場合は600円が相場)
参集殿の授与所にて。

※片面のみのものと見開きのものがあり選ぶ事ができる。

(見開き版)


歴史考察

瑞光石伝説の天王様

荒川区南千住に鎮座する神社。
旧社格では郷社に列し、南千住、三ノ輪、三河島、町屋など61町にも及ぶ区域(荒川区最大)の総鎮守。
祇園信仰系の神社であり氏子衆からは「天王様(てんのうさま)」と呼ばれる事が多い。

瑞光石の伝説

社伝によると、延暦十四年(795)に役小角(修験道の開祖とされる人物)の弟子である黒珍が、瑞光のあった石をお祀りして創建したとされている。
その石は光を放ち、光のうちに翁の姿をした牛頭天王・飛鳥権現が現れて神託を告げたという。
そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、牛頭天王・飛鳥権現の二柱をお祀りする事が当社の起源となった。

牛頭天王・飛鳥権現が別々の社殿に

創建以来、牛頭天王・飛鳥権現の二柱を別々の社殿にお祀りしていたという。
享保三年(1718)に火災によって焼失。
享保十二年(1727)に再建された際に合祀する形となったと伝えられている。
この頃には千住大橋綱曳という、その年の吉凶を占う当社の神事が行われており、「東都歳時記」にその様子が描かれている。
宝暦年間頃(1751年-1764年)まで行われていたとの事。

江戸時代に二柱が合祀

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

飛鳥権現牛頭天王合社
小塚原町、箕輪町、通新町、三河島村、町屋村等の鎮守なり。延暦年中に神石上に出現せしを黒珍法印此所に勧請せりと云。祭礼6月3日より9日迄なり。縄引と云祭事ありしか今は絶たり。飛鳥権現は毎年9月15日に湯立あり。
神宝。諏訪面一枚。背に天文10年6月3日降と彫る。
末社。稲荷二、三峯、天神、地蔵堂。
塚。本社に向て右の方にあり。高1丈径3間許。塚上に榎樹三株坐し、其中に瑞光石と称する獅子の鼻に似たる石あち。小笹生茂りて石僅に出。降るへ此塚上の牛頭天王飛鳥権現出現せしゆへ、瑞光の名あり。又此塚を小塚と号せしより地名にも推及びしと云。
御手洗。社地の向にあり広さ1段1畝1歩。

当時は「飛鳥権現牛頭天王合社」と書かれており、御祭神やご由緒をそのまま表した社名だろう。
この頃には上述した千住大橋綱曳の神事が絶たれているとの記載が残っている。
また当社の創建のきっかけになった「瑞光石」のエピソードも記載されている。

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』には当時の様子が描かれている。

素盞雄神社

「飛鳥社小塚原天王宮」とされているのが当社。
こちらも御祭神である牛頭天王・飛鳥権現の二柱が残った名前になっており、小塚原は当時の地名。
当時も中々の規模で賑わっていた事が伝わる。
しっかりと「瑞光石」も描かれており、「ちそう(地蔵)」と描かれているのは現在も残る地蔵堂。
神仏習合時代の名残を思わせてくれる。

古くから疫病除けで知られ、安政五年(1858)江戸にコレラが流行した際は疫除守を求めて参詣者が集まったという逸話も残っている。
当時からこの地域にとって重要な信仰拠点だったのだろう。

飛鳥様と富士塚

現在は「天王様(てんのうさま)」として親しまれている当社だが、江戸時代の文人などは「飛鳥様(あすかさま)」を好んで使ったという。
境内は御祭神から「飛鳥の杜(あすかのもり)」として案内されていた。

元治元年(1864)には、御祭神が降臨した「瑞光石」に、浅間神社をお祀りし、富士塚としている。
この頃、江戸の庶民の間には富士山を対象とした民間信仰がブームとなっており、江戸の人々は富士講を作り、富士山に登頂したほか、身近な所に富士山を模した富士塚を築き祠を作っており、江戸の各地に富士塚が作られていた。
当社もそういった氏子や庶民の声を受けて、御祭神が降臨したという瑞光石を富士塚として開放したのだろう。
この瑞光石も富士塚も現存しており、貴重な姿を今も見る事ができる。

当時は門前の茶店で疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わったという。

神仏分離で社名の改称

明治になり神仏分離によって御祭神の名も変更が生じる。
祇園信仰系によくあるように牛頭天王は素盞雄大神(素盞鳴尊)へ改められ、飛鳥権現は飛鳥大神とされた。
それと共に社名も現在の「素盞雄神社」へ改称している。
旧社格では郷社に列した。

立派な社殿・奥の細道記念碑

第二次世界大戦により拝殿が焼失。
現在の拝殿は昭和三十年(1955)に再建されたもの。
大変立派な造りになっており、屋根は権現造で正面向拝屋根は千鳥破風付の流れ造り。
鉄筋コンクリート造になっており、当時の技術の粋を感じさせてくれる。

なお、本殿は戦火を逃れたといい、現在も立派な拝殿の後ろに現存している。

社殿は南側を向いており表参道も南側。
日光街道は東側を通っているので、そちらにも参道があり、そちらからも社殿の横側が綺麗に見える。

社殿や上述の富士塚の他にも、当社は他にも見どころが多数存在。
境内社の数も多い。

社殿横には松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ちの記念碑が存在。

この千住の地が「奥の細道」の出発地点だったといい、文政三年(1820)十月十二日の芭蕉忌に際し、江戸随一の儒学者で書家としても高名だった亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられたものだという。

御朱印は参集殿の授与所にて。
神社印と神社名の墨書による通常のものと、それに松尾芭蕉のスタンプが追加された見開きのものがあり、選ぶことができる。
初穂料はお気持ちとの事だが、片面あたり300円の相場なので、見開きの場合はその倍を納めるのがよいだろう。

所感

荒川区最大の氏子地域を抱える当社。
現在も中々の規模を維持しており崇敬篤いのが伺える。
6月の例大祭である「天王祭」は、都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをして大変賑わう。
この日は参拝日が七五三の時期だったため、多くのご家族が訪れていた。
見どころも多く、大変心地よさを感じる境内は、都内の神社でもかなり良いものだと思う。
古くからこの地の信仰を集めるオススメの良社。

神社画像

[ 表参道・鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 日光街道側・鳥居 ]
[ 伊勢太太講・台座 ]
[ 東側参道からの拝殿 ]
[ 浅間神社・富士塚・端光石 ]
[ 富士塚 ]
[ 端光石案内板 ]
[ 富士塚案内板 ]
[ 境内社(福徳稲荷・菅原神社・稲荷神社) ]
[ 神楽殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 神池・芭蕉碑 ]
[ 神池 ]
[ 芭蕉碑 ]
[ 御神木 ]
[ 参集殿・授与所 ]
[ 井戸 ]
[ 地蔵堂・庚申塔 ]
[ 記念碑 ]
[ 案内板 ]
[ 七五三・碁盤の儀 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
スポンサーリンク
御朱印ブログランキング
投票する

にほんブログ村 コレクションブログ 御朱印へ

フォローする

オススメ記事 by Google