調神社 / 埼玉県さいたま市

さいたま市

概要

幸運を授かる調宮(つきのみや)

埼玉県さいたま市浦和区岸町に鎮座する神社。
延喜式内社の小社とされる古社で、旧社格は県社。
「調神社(つきじんじゃ)」と読み、地元からは「調宮様(つきのみやさま)」とも称される。
「つき」と読む事により古くから月待信仰と結びつき信仰を集めた。
月神の使いとされる兎とも結びつき、当社の神使は兎とされているため、社殿には兎の彫刻、境内にも狛犬ならぬ狛兎や、手水舎の吐水口が兎だったりと兎の石造物が置かれている。
「調神社の七不思議」など数多くの伝説を持つ古社。
運否天賦の「ツキはツキを呼ぶ」とのいわれから「幸運を授かる神社」として信仰を集めている。

神社情報

調神社(つきじんじゃ)

御祭神:天照皇大神・豊宇気姫命・素戔嗚尊
社格等:延喜式内社(小社)・県社
例大祭:7月20日
所在地:埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25
最寄駅:浦和駅
公式サイト:─

御由緒

浦和駅の南西約500m、旧中山道東側に鎮座。
旧県社で御祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祀る。社名を調(つき)神社。地元では「つきのみやさま」と愛称されている。
『調宮縁起』によれば、第10代崇神天皇の勅命により創建。調とは『租・庸・調』の調のようなもので、伊勢神宮へ納める調(貢)物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わる。(鳥居無きはその為と伝わる)平安時代に編纂された『延喜式』に記載される武藏國44座のうちの1社である。
中世、調が月と同じ読みから、月待信仰に結びつき江戸時代には月讀社とも呼ばれ、月神の使いとされる卯の彫刻が旧本殿や現在の社殿に、狛犬の代わりに卯の石像が境内入口両側にある。
神域は約12,000㎡。欅、銀杏の大樹が鬱蒼と茂る鎮守の杜と、江戸時代末に建立の権現造の社殿が、悠久の歴史を今に伝えている。
毎年12月12日には『十二日まち』が開催。神社では『かっこめ』を頒布、境内を中心に縁起物の熊手をはじめ様々な露店が立ち並び、近在からの人出で賑う。
※調神社の七不思議・鳥居がない、境内に松の木がない、御手洗池にすむ片目の魚、祭神の使い姫は卯、日蓮上人駒つなぎの欅、蠅がいない、蚊がいないの七つ。鳥居が無いのは、伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるから。また、日蓮上人駒つなぎの欅には、文永8年(1271)上人が佐渡へ流される途中、難産に苦しむ土地の女性を救うため、駒をつないで祈ったといういわれがある。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2020/10/26(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/05/14(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
授与所にて。

※書き置き(別紙)での対応は不可。
※寺院の御朱印帳や神社と寺院の御朱印が混合している御朱印帳への対応は不可。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:2,000円(御朱印代込)
授与所にて。

オリジナル御朱印帳を用意。
白と銀を基調とした御朱印帳で社紋の刺繍入り。
表面に神使である兎、裏面に社殿をデザイン。
最初のページの右側には「調神社神璽」の御札が貼られている。
神社専用の御朱印帳としてお使い下さいとの事。

歴史考察

崇神天皇の勅命によって創建された古社

社伝では、創建年代は不詳。
崇神天皇の勅命によって創建されたと伝わる。

崇神天皇(すじんてんのう)
第10代天皇。
軍事・内政・祭祀においてヤマト王権の基盤を整えたとされる天皇。
『日本長暦』に基づき西暦に無理やり当てはめるのならば在位はBC97年-BC30年。
実在した可能性のある最初の天皇とも云われ、実在ならば治世時期は3世紀後半と推測。
寛文八年(1668)編纂の『調宮縁起』では第9代開化天皇の御代に創建とも記されている。

武蔵国において屈指の古社として崇敬を集めた。

伊勢神宮へ納める御倉が起源・調の由来は貢物

当社の創建にあたり、崇神天皇の勅命で「伊勢神宮」斎主の倭姫命が参向。

倭姫命(やまとひめのみこと)
『日本書紀』『古事記』に記されている古代日本の皇族。
第11代垂仁天皇の第4皇女。
神託により天照皇大神の神魂(八咫鏡)を鎮座させる場所を求めて旅をし、伊勢の地に辿り着き「皇大神宮(伊勢神宮内宮)」を創建し、天照皇大神を伊勢に祀った人物とされる。
後に東征へ向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙剣を与えている。

倭姫命は清らかな当地を選び「伊勢神宮」に献上する調物(貢物)を納める御倉を建てた。
武総野(関東一円)の初穂米・調の集積所と定めたと云う。

この御倉に造営されたのが当社の起源と伝わる。
調神社の調は貢物の意味
古代日本や中国の租税制度「租庸調(そようちょう)」の調のようなもの。
調(ちょう)とは基本的には繊維製品を納入した税のこと。
当社は「伊勢神宮」へ初穂米などを納めるための関東一円の倉庫群があった地とされ、調物(貢物)から「調神社」の社号が付いたと伝わる。
「調神社の七不思議」の1つに「鳥居がない」と云うのがあり、それは倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると云う。

宝亀二年(771)、勅使・藤原朝臣常恣が奉幣を行う。
これが例大祭の起源になったとされる。

この時期に「伊勢神宮」へ調物(貢物)を運搬する街道が東海道へ変更されたため、御倉が役割を終え、当社が神社として奉斎されるとうになったとも推測されている。

式内社としての格式・朝廷に名が知れた古社

延長五年(927)に編纂の『延喜式神名帳』では、小社に列格する「武蔵国足立郡 調神社」と記載。

読みは「ツキノ」で当時から「調」と書いて「つき」と読んでいた事が分かる。

これにより当社は延喜式内社(式内社)とされる。

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。
武蔵国足立郡には4座(4つの神社)が式内社として記載。当社はその一社の古社である。

古くから朝廷にも名が知られた一社であった。
現在も社号碑には「延喜式内」の文字が残る。

中世には月待信仰と結びつく・社殿の再建や焼失

中世以降は、当社の社号を「調(つき)」と読む事から月待信仰と結びつくようになっていく。

月待信仰(つきまちしんこう)
月に対する民間信仰。
月待行事と呼ばれる行事が知られ、十三夜・十五夜・十六夜・十九夜・二十二夜・二十三夜などの特定の月齢の夜に講中で集まり、月を拝み悪霊を追い払うと云う行事。

月待信仰と結びつき、月神の使いとされる兎が当社の神使とされた。
現在も兎の石造物などが多く残るのは、こうした月待信仰との結びつきによる。

伊勢信仰を起源とする当社であるが、中世は暫くの間は荒廃した状態が続いていたと見られる。月待信仰との結びつきを経て武家によって再興を果たす。

延元二年(1337)、足利尊氏の命で広木吉原城(埼玉県児玉郡)の城主・一色範行が社殿を再建。
神田五ヵ村を寄進したと云う。

その後、足利政権(室町幕府)の内紛によって行われた「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」(1350年-1352年)によって兵火にかかり社殿を焼失。

康暦二年(1380)、武蔵国足立郡の武将・佐々木近江守源持清は佐々木氏の氏神「沙々木大明神(現・沙沙貴神社)」(滋賀県近江八幡市)が当社と同体であるとして社殿を再建。
神田二ヵ村を寄進したと云う。

いずれも伊勢信仰ではなく月待信仰と結びついた事で再建されたものと思われる。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に伴う兵火で社殿を焼失。

この際に神宝や古文書なども焼失している。

江戸時代の再興・徳川家光より朱印地を賜る

天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
その後、江戸時代初期にかけて当社は次第に再建されていく。

慶安二年(1649)、三代将軍・徳川家光より7石の朱印地を賜る。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。

朱印状には「月読社」と記してあり、以後は「月読社」の名で朱印状が発行された。

当社は伊勢信仰を起源とする神社であるが、「調」を「つき」と読む事で月待信仰と結びついていたため、幕府からの朱印状も「月読社」(『調宮縁起』ではこの社号は誤りと記載)と記された。当社と月待信仰の結びつきがとても深く「月読社」と勘違いされていた事が窺えるエピソード。

別当寺は古くは「福寿寺」が担っていたが、その後「月山寺(現・廃寺)」が担った。
「月山寺」には二十三夜堂が設けられ、本地仏として勢至菩薩が祀られた。

本地仏(ほんじぶつ)
日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えの中で、神の正体とされる仏を本地仏と呼んだ。
勢至菩薩像は月天子の本尊であるから共に月待信仰の対象とされたと考えられる。

既にこの頃には伊勢信仰よりも月待信仰の神社として崇敬を集めていた。

享保十八年(1733)、社殿を再建。
当時の本殿が現在は境内社・稲荷神社の社殿として移され現存。

中山道の宿場として栄えた浦和宿

江戸時代に入ると、江戸幕府によって五街道が整備される。

五街道とは、東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道の5つ。

慶長六年(1601)、中山道が整備。

中山道(なかせんどう)
江戸の日本橋と京都の三条大橋を繋ぐ街道。
南回り太平洋沿岸経由で江戸と京都を結ぶ東海道に対して、北回り内陸経由で江戸と京都を結んだのが中山道で、宿場は中山道六十九次と称された。

中山道の整備によって街道沿いの浦和周辺は浦和宿として整備。

浦和宿(うらわしゅく)
中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場。
江戸後期の記録では宿内家数273軒で旅籠も15軒記されていて栄えていたものの、江戸から近かったため通行者は休憩が主で宿泊するには至らず、規模としても小さな宿場であった。

(支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望)

天保年間(1831年-1845年)に渓斎英泉が描いた支蘇路ノ驛より。

江戸・日本橋から数えて2番目の宿場・蕨宿から3番目の宿場・浦和宿へ向かう途中の様子。
途中には名物でった焼き米を食べれる立場茶屋であった。
その奥に太鼓橋が見え、更に遠くの家々が連なる箇所が浦和宿の。
左手遠方には噴煙を棚引かせた浅間山が描かれている。

浦和宿が整備される前の浦和は、当社の前が門前町として避けていた程度であった。

宿場の整備によって人の往来も盛んになり、当社への参拝者が増えた事が推測される。
そうした事で更に月待信仰との結びつきを強めていったのだろう。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(岸村)
調神社
社領七石を賜ふ。當社は「延喜式」神名帳に足立郡調神社と載る所なりと云。されど祭神等すべて傳ふる處詳ならず。按に「武蔵風土記」にも足立郡大調郷、或は大都幾調神社、神田六十束、二字田雅日本根子彦大日天皇、乙酉三月所祭瀬織津比咩也、有神部巫戸と載たるもの全く當社の事と見ゆ。されど此風土記は後人の擬書なる由言傳れば正しとも言がたし。又土人の此邊の事跡を記せしものに當社は日の神倉稲荷玉命の二座を祭る所にして、延元二年二月五日那賀郡廣木村吉原の城主、色大興寺入道範行と云し人再興して、神田五邑を附せしなど載たれど、此一色範行と云もの他に所見なし。ことに延元の頃再興せしと云るも、式社のことをわきまへざる書ぶりなりがたがたうけがたし。又云其後貞和観應の頃兵火にかかりて社頭破壊せしを康暦年中佐々木近江守持清又再造せしが、それも両上杉戦争の地となり。次第に衰廃せしを小田原北條分国の時に再興ありしと記す。されどみな左證とすべきものなし。たとへ證すべきことありとも是を以て式社の興廃を知るには足べからず。殊に別當寺にては近き頃まで月輪を祀りし社とのみ傳へたれば、古を知らざるもの附会せしなるべし。調の字の訓月に同じければ、後世月待の宮として又愚民の信を得んがためにかく唱へしなるべし。今を以て考ふるに當社の外此郡中調神社の名残と覚しきもの更になし。目撃する所を以て古へを推には足らざれど社地のさまいかにも神さび数囲の樹木枯株などのとこせるを見れば古社なる事は論なかるべし。今は社人も調の社といへば恐らくは古へに復せしなるべし。
末社。
石神社。稲荷を合祀せし。
蔵王社。是も熊野を合殿とす。
稲荷社。
第六天社。
別當月山寺
新義真言宗浦和玉蔵院末也。本尊愛染を安ず。開山詳ならず。昔は福壽寺にて當社を兼帯し爰には庵を置て守らしめしを後年一寺となして月山寺と號すと云り。

岸村の「調神社」と記されているのが当社。
式内社についてや上述したような御由緒について幾つか記されている。

但し『新編武蔵風土記稿』ではこれらの事は全て定かではないと中々に厳しい事を書いている。但し「古社なる事は論なかるべし」とあり、当時から見ても古社の佇まいであったようだ。

「祭神等すべて傳ふる處詳ならず」とあり、当時は御祭神が不詳。
社伝によると伊勢信仰の神社として創建しているが、月待信仰によって「月読社」とも呼ばれた事もあり、「後世月待の宮として」とあるように、民間信仰などと結びついて御祭神もよく分からなくなっていたように思われる。

いずれにせよ江戸時代には伊勢信仰ではなく月待信仰の神社として崇敬を集めていた。

江戸名所図会に描かれた当社・月読宮二十三夜

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「調神社(つきのじんじゃ)」として描かれているのが当社。
人通りも多く店などが並んでいた事が窺える。

誤って月讀二十三夜と称される
興味深いのは文章で「延喜式内の神社なり今誤って月讀廿三夜と称したり」と記載。
幕府からの朱印状にも「月読社」と記されているように、江戸時代には「調宮(つきのみや)」を「月読宮」と充てている事が殆どだが、これは誤りと記されている。

(江戸名所図会)

『江戸名所図会』の別ページに記された「調神社」の項目。
注目すべきは「月讀宮二十三夜」とあり、当社がこの当時は完全に月待信仰の神社と見られていた事が分かる。

月待信仰の神社としての影響
祭神:月読尊(つくよみのみこと)
本地:勢至菩薩(せいしぼさつ)
このように『江戸名所図会』では月読尊を祀る神社と記されている。
別当寺の「月山寺」が二十三夜待の本尊・勢至菩薩を安置していた事に影響。
月待信仰と合わさりこの頃には月読尊を祀る神社と勘違いされ(もしくは別当寺が意図的にそうして流行らせた)ものと思われる。

(江戸名所図会)

当社の社殿を中心に拡大したのが上図。

立派な社殿と鬱蒼な木々に囲まれた境内。
描かれている本殿は現在は稲荷神社の社殿として移され境内に現存している。
表参道に鳥居が設けられていないのは現在も変わらず。(裏参道には描かれている)

当社の起源とされる「伊勢神宮」へ納める御倉があった際、調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門が取り払われたと云う伝承が当時から続いている事が分かる。

安政六年(1859)、総欅の権現造社殿を造営。
これが現在の社殿として現存。

明治の神仏分離・県社に昇格

明治になり神仏分離。
別当寺であった「月山寺」は廃寺。

神仏分離を機に民間信仰であり神仏習合の要素も強かった月待信仰の色合いを薄め、誤って広まってしまった「月読社」も改め、当社の起源でもある伊勢信仰をベースにした現在の御祭神(天照皇大神・豊宇気姫命・素戔嗚尊)にはっきりとさせたものと思われる。

明治六年(1873)、郷社に列する。

明治七年(1874)、浦和宿に岸村(当社が鎮座)が合併。
明治二十二年(1889)、市制町村制によって浦和宿は浦和町となる。
当社は浦和一帯の鎮守として崇敬を集めた。

明治三十一年(1898)、県社に昇格。
社号碑には「縣社」の文字が残る。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
「調(ツキ)神社」とフリガナ付きで記されていて地図上の目印になる神社であった。
既に浦和駅も開業していて街道沿い(旧中山道)は浦和宿からの流れで大変栄えていた事が窺える。

(浦和案内)

大正四年(1915)にやまと新聞浦和支局より出版された『浦和案内』より。

注目すべきは「祭神は天照大神にして豊受大神、素盞鳴尊を合祀す」と記されている点だろう。
江戸時代の史料では祭神不詳や、月待信仰の影響で月読尊と記される事もあった当社であるが、この時には現在の御祭神と一致しているのが分かる。

やはり神仏分離後に起源である「伊勢神宮」の御倉から御祭神を明確に設定したものと思われる。

昭和九年(1934)、浦和町が市制施行し浦和市が成立。
当社は浦和市を代表する神社として崇敬を集めた。

戦後になり境内整備が進む。

平成十三年(2001)に浦和市・大宮市・与野市が合併しさいたま市が成立。
平成十五年(2003)、政令指定都市に移行して現在はさいたま市浦和区となる。

当社は浦和区の中核神社として現在に至る。

境内案内

旧中山道沿いに鎮座・鳥居のない表参道

最寄駅の浦和駅からは徒歩10分程の距離、旧中山道沿いに鎮座。
中山道の宿場・浦和宿として栄えた浦和であるが、それまでは当社の前が門前町として栄えていた。
旧中山道に面した表参道には立派な境内でいながら鳥居が設置されていない。
鳥居の代わりに注連柱が置かれ結界としている。

鳥居がない理由
「伊勢神宮」への関東一円からの貢物を納める御倉であった当社。
貢物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったと伝わっている。
脇参道など表参道以外には鳥居は設けられている。

注連柱の前には大正五年(1916)に建立された社号碑。
「縣社 延喜式内 調神社」とあり、当社が旧県社であったことと式内社である事を伝える。

月待信仰により神使は兎・狛うさぎや兎の手水舎

当社の表参道で何より目を引くのは狛うさぎの存在。
狛犬ならぬ狛うさぎ。
子を優しく撫でるような兎。
当社の「調神社(つきじんじゃ)」を「つき」と読むことで月待信仰と結びつき、いつしか月神の使いとされる兎が当社の神使となった。

中世以降に月待信仰と結びついたが、江戸時代には「月讀宮二十三夜」と称された程で、月待信仰の神社として栄えたため、当時から兎の奉納物が多かった。

参道の右手に手水舎。
手水舎にも兎の姿。
吐水口が兎になっていてチョロチョロと水が出るのが可愛らしい。
月待信仰と云う民間信仰は現代はほぼ行われることはなくなったが、現在も神使を兎として信仰を集めているのが伝わる。

手水舎の裏手側にも狛うさぎ。
こちらはかつて表参道に置かれていた狛うさぎであるが現在の位置に移され保管されている。
蔓延二年(1861)奉納の狛うさぎ。
こうして先代の狛うさぎを見る事ができるのは嬉しい。

真っ直ぐの参道。
そこからほぼ左手直角に参道が続き、その先が社殿となる。

江戸時代の頃から参道の位置や社殿の位置は大差なく、表参道の先、左に直角に参道が続いていた。

江戸時代の社殿が現存・彫刻には兎の姿

表参道を進んだ先に社殿。
安政六年(1859)に造営された社殿が現存。
総欅の権現造社殿。
実に立派で現存していることが有り難い。
龍や獅子など細かい彫刻。
赤円で囲った箇所には小さく兎の彫刻も施されているのが分かり、当時から神使として兎が大切にされていた事が窺える。

兎が水を注ぐ神池・旧本殿を利用した稲荷神社

社殿の右手に綺麗に整備された神池。
緑溢れる境内に水を彩る。
当社らしさは兎像が水を注いでいること。
かなりの勢いで注いでいるため見た目がちょっと面白い。

神池の間に神橋。
その先に朱色の両部鳥居。
両部鳥居の先に鎮座するのが境内社の稲荷神社。

稲荷神社の社殿は当社の旧本殿を利用したもの。
石造りの鳥居の先に覆殿となって保護されている。
享保十八年(1733)に造営された本殿が稲荷神社の社殿として現存。
黒色の社殿に極彩色の彫刻。
こちらにも兎の姿があり、江戸時代の当社が月待信仰の神社として信仰を集めた事が分かる。
さいたま市の有形文化財に指定。

文化財紹介 調神社旧本殿
市指定有形文化財(建造物)昭和53年3月29日指定調神社旧本殿一棟付木札享保十八年の銘がある一枚つきじんじゃきゅうほんでん浦和区岸町3-17-25調神社江戸時代中頃、享保18年(1733年)。

神楽殿・調宮天神社や金毘羅社などの境内社

瓢箪池側に立派な神楽殿。
大絵馬や熊手などが掛けられた神楽殿。
熊手は毎年12月12日に開かれる大歳市、通称「十二日まち(じゅうにんちまち)」の大熊手。

表参道の右手に境内社が並ぶ。
左手は調宮天神社。
学問の神様として信仰を集める。
其の右手に金毘羅神社。
境内社向けの苔むした水盤。

調神社の七不思議

当社には「調神社の七不思議」と云う伝説が伝わる。

  1. 鳥居がない
    「伊勢神宮」への関東一円からの貢物を納める御倉であった当社には、倭姫命の命で貢物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったと伝わっている。
  2. 境内に松の木がない
    当地には姉神と弟神がいたが、弟神は大宮に行ってしまい(「武蔵一宮氷川神社)」、姉神が待っても帰ってこなかったので、姉神がもう「待つことは嫌い」と言ったことに由来すると伝わる。
  3. 御手洗池にすむ片目の魚
    現在はないもののかつて御手洗池と云う池があり、そこに魚を放つと片目になると伝わる。
  4. 祭神の使い姫は卯
    月待信仰と結びついた当社は神使が兎として信仰を集め狛兎や社殿の兎彫刻など今もその姿を多く見かける。
  5. 日蓮上人駒つなぎの欅
    文永八年(1271)日蓮が佐渡へ流される途中、難産に苦しむ土地の女性を救うため、駒をつないで祈ったと伝わる。
  6. 蠅がいない
    由来は不明。
  7. 蚊がいない
    由来は不明。(現在は普通に境内で蚊に刺される。)

屈指の古社として信仰を集めた当社。
月待信仰との結びつきもあり多くの参拝者が訪れ、こうした伝説が今も「七不思議」として残されているのが面白い。

アニメ『浦和の調ちゃん』の舞台と由来にも

浦和地区を代表する神社として古くから信仰を集めた当社。
地元を舞台とした『浦和の調ちゃん』と云うテレビアニメの由来にもなっている。

浦和の調ちゃん(うらわのうさぎちゃん)
2015年4月-6月まで、テレビ埼玉で放送された5分枠の短編アニメ。
調は当社を由来としている。
地域活性化につながる「さいたま市ニュービジネス大賞2014」で、コミュニティビジネス賞を受賞し制作され、埼玉県警察のテロ防止ポスターにも起用された。
その後『むさしの!』のタイトルで第2期を放送予定であったが、現在のところ放送未定(おそらく制作中止)となっている。
http://urawa-usagi.net/top/
TVアニメ放映後は当社前にあったミニストップがキャラクター装飾されていたが、残念ながら2019年にミニストップは閉店。

兎の印入りの御朱印・御朱印は神社専用の御朱印帳で

御朱印は授与所にて。
丁寧に対応して下さった。

御朱印は「調神社之印」の朱印で、2020年の頂いた左と2015年に頂いた右で朱印の書体が違う。
神使である兎に「延喜式内社」の印が押印される。

神社専用の御朱印帳で頂くこと
当社は昔から御朱印のルールがやや厳しいので頂く際は注意が必要。
寺院の御朱印帳や神社と寺院の御朱印が混合している御朱印帳への対応は不可。
そのため神社専用の御朱印帳で御朱印を頂くこと。
※書き置き(別紙)での対応は不可。

兎がデザインされた御朱印帳は御札付き

オリジナルの御朱印帳も用意。
白と銀を基調とした御朱印帳で社紋の刺繍入り、表面に神使である兎、裏面に社殿をデザイン。
最初のページの右側には「調神社神璽」の御札が貼られている。

当社の御朱印帳は神社専用の御朱印帳としてお使い下さいとの事。

所感

延喜式内社としての歴史を有する当社。
「伊勢神宮」への調物(貢物)を納める御倉が当社の起源とされ、古くは伊勢信仰の神社だったと思われるが、「調神社」が「つき」と読む事から中世以降は月待信仰と結びついていく事となった。
特に江戸時代に入ると月待信仰との結びつきがより濃くなっていったのが窺える。
おそらく別当寺が「月山寺」になってからその傾向が強まったと思われ、神仏習合の中でいつしか月待信仰の神社として信仰を集めるようになり、幕府からの朱印状にも「月読社」と記されていたのがその証拠であろう。
『江戸名所図会』には「月讀宮二十三夜」と称される旨を記載していて、この頃には別当寺の影響もあり完全に月待信仰の神社として知られていたと思われるが、注釈として「誤り」とあり社伝としては伊勢信仰の起源を残しておきたかったように思う。
結果的に現在も狛犬ならぬ狛うさぎなど個性溢れる神社として残る事となったのは面白い。
旧社格は県社だったことも分かるように、浦和地区を代表する神社であり、現在も多くの参拝者で賑わう。
現在は「ツキはツキを呼ぶ」として幸運を授かる神社と信仰され、浦和や月待信仰などの歴史を伝え個性的な魅力溢れる良い神社である。

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