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概要
旧道々橋村鎮守の八幡さま
東京都大田区久が原に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧道々橋村の鎮守。
道々橋村は池上村から分村した歴史を持つ。
境内にはおおたの名木選のムクノキがある他、児童公園も併設され憩いの場として親しまれている。
現在は神職の常駐はなく「雪ヶ谷八幡神社」の兼務社となっている。
神社情報
道々橋八幡神社(どどばしはちまんじんじゃ)
御祭神:誉田別命・宇迦之御魂命・大歳御祖神
社格等:村社
例大祭:9月上旬の土・日曜
所在地:東京都大田区久が原1-7-9
最寄駅:久が原駅・御嶽山駅・西馬込駅
公式サイト:https://yukigaya.info/dodobashi/
御由緒
当社の村の鎮守として正保年間(1644~47)に創建され、現在の社殿は昭和35年(1960)に建造されました。
道々橋という名称、道々橋村は江戸寛政以前に独立した村となりました。池上町史によると、池上より来る途中の呑川に架かる橋の修繕負担の事から、独立して一村を作り、道々橋と名付けたといいます。
ドドの詰まり、ドド橋、何時からか道々橋となったといいます。
神社前の道は、かなりの古道(「鵜ノ木・新田道」「丸子道」と言われていました)で、左に行くと「筏道」と合流して丸子の渡しに行き着きます。右に行くと急な坂を下り、呑川の「道々橋」を渡り二股道に出ます。左は嶺道で九品仏に行く嶺道で、右は「猿坂」を登り夫婦坂を越えて荏原町、中原街道に行ける「目黒道(池上道)」です。江戸時代の幕府領で、東海道品川宿の助郷(すけごう)や品川東海寺の火消し人足を負担していました。(公式サイトより)
歴史考察
道々橋(どどばし)村の成立と村名由来
社伝によると、正保年間(1645年-1648年)に創建と云う。
道々橋村と呼ばれた当地一帯の鎮守とされた。
元々は池上村の一画だったが、江戸時代以前に分村する形で成立。
独立した理由は、池上村との紛争によるものと伝えられている。
呑川(のみかわ)に架かる橋の修繕負担から、一部地域の村民が対立。
結果的に道々橋村として独立したと云う。
『池上町史』によると、道々橋の地名の由来は「ドドの詰まり(とどのつまり)」と云う言葉が由来となっていて、そこから「ドド橋」と呼ばれ、それがいつからか「道々橋」となったと云う旨が記されている。
「とどのつまり」とは「結局、行き着く所」といった意味の言葉であるため、池上村との対立の結果、行き着いた橋と云う意味合いであろう。
池上村から分村する際に、村民が所有する土地を飛地として差配。
村内には三カ所の飛地があった事が『新編武蔵風土記稿』に記されている。
それだけ独立心の強い村民が多く、対立が根深かった事が窺える。
道々橋村は東海道品川宿の助郷や品川「東海寺」の火消し人足を負担。
当社はそうした道々橋村の鎮守として地域から崇敬を集めた。
新編武蔵風土記稿に記されている当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(道々橋村)
八幡社
除地三畝二十三歩。村の南の方にあり。本社九尺四方拝殿九尺に二間。稲荷七面の二神を相殿とす。村の鎮守なり古は下に載たる八幡を鎮守とせしが、其地の隔たりて便あしければ後年當社を鎮守とすと云。祭禮毎年九月十五日。村内樹林寺の持。
八幡社
除地一段三畝十五歩。池上本門寺の後の方なる耕地にあり。九尺に二間の社なり。祭禮は八月十五日。本門寺持。
道々橋村には「八幡社」が2社あり、先に記されているのが当社。
「稲荷七面の二神を相殿とす」とあり、八幡神の他に稲荷神も祀っていたようだ。
「村の鎮守なり古は下に載たる八幡を鎮守とせしが、其地の隔たりて便あしければ後年當社を鎮守とすと云。」と記載があるように、かつての村の鎮守は、もう1社の「八幡社」だった事が分かる。
その八幡社が「池上本門寺」の裏の「道々女木」と云われた飛地にあった「八幡社」で、こちらが元々は鎮守であったが、飛地で遠く不便だったため、後年当社を鎮守としたと云う。
現在も近くにある「樹林寺」(大田区久が原2)が別当寺であった。
道々橋の袂にある日蓮宗の寺院。
寛永年間(1624年-1645年)に開山したと伝わる。
道々橋村内に寺がなかったため、村民の熱意によって寺院を建立したいと考えたものの資金もなく困り果てていたところ、道々橋村出身の女性が江戸城大奥の腰元になっていたため、彼女の協力が得られたことで寺院の建立できたと云う伝承が残っている。
明治以降の歩み・道々橋の地名保全
明治に入り神仏分離。
明治九年(1876)、村社に列した。
明治二十二年(1889)、道々橋村・下池上村・桐ヶ谷村・久ヶ原村・徳持村・堤方村・市野原村・雪ヶ谷村・池上村・石川村の10村が合併し、池上村が成立。
当社は荏原郡池上村大字道々橋の鎮守となった。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社で、当時も現在も鎮座地は変わらない。
田畑の多い農地であったが当社から南にかけては町家が形成されていた事が窺える。
池上村や道々橋といった地名を見る事もできる。
昭和七年(1932)、東京市大森区が成立。
旧道々橋村地区は大部分が大森区道々橋町という表記に変更。
昭和二十年(1945)、戦時中の戦火によって社殿を焼失。
暫くは仮殿での再建を余儀なくされる。
昭和二十二年(1947)、大森区と蒲田区が合併し大田区が成立。
当地は大田区道々橋町となる。
昭和三十五年(1960)、社殿を再建。
これが現在の社殿となっている。
昭和四十三年(1968)、順次行われていた住居表示によって道々橋町が廃止。
仲池上1、東雪谷5、久が原1・2、南雪谷5、北嶺町といった住居表示となる。
昭和四十三年(1968)の住居表示によって公式地名からは「道々橋」は消失。
呑川に架かる橋の名前「道々橋」、バスの停留所、一部店舗に名を残すのみとなっている。
そうした中、旧道々橋村の鎮守であった当社が、「道々橋八幡神社」として旧地名の保全に一役買っているのは、素敵な事であろう。
当社は仲池上1丁目の大部分と、久が原1・2丁目の一部区域、東雪谷5丁目の一部区域の氏神様として、現在に至っている。
境内案内
青年館通り沿いに鎮座・獅子の吐水口
最寄駅は久が原駅か御嶽山駅で、いずれも徒歩15分程とやや距離がある。
社前に道々橋八幡前と云うバス停があるのでバスを利用するのもよいだろう。
青年館通り沿いに鎮座。
この通りはかつて「鵜ノ木・新田道」「丸子道」と呼ばれた古道であったと云う。
鳥居を潜ると左手に手水舎。
獅子の形をした吐水口があり、近くに寄ると自動で水が出る仕組み。
規模の小さな兼務社ながら、こうした手水舎の整備がされているのは素晴らしい。
戦後に再建された朱色の社殿
参道の正面に朱色の社殿。
社殿は昭和三十五年(1960)に造営されたもの。
朱色が綺麗な社殿。
状態も大変よく整備が行き届いている事が伝わる。
木鼻には龍。
彫刻も各部に施され、氏子崇敬者からの崇敬の篤さが伝わる。
子抱きの狛犬・おおたの名木選のムクノキ
拝殿前には一対の狛犬
ややずんぐりとした体型が特徴的な狛犬は、明治三十年(1897)奉納。
阿吽ともに子を抱きかかえた狛犬で注連縄が巻かれている。
特に吽形は子が乳飲みをしているようにも見え可愛らしい。
拝殿前の左手には1本の大木。
この大木はムクノキ。
おおたの名木選に指定された名木で当社の御神木となっている。
児童公園が併設・地域の憩いの場
境内の一画は「道々橋まほらば児童公園」として整備。
まさに地域の鎮守といった趣で、地域の憩いの場になっている。
地域の消防団による消火機具置場。
公衆電話ボックスという風に、当社が憩いの場であり防災も担っていて、氏子地域の繋がりを感じさせてくれる。
御朱印は本務社の雪ヶ谷八幡神社にて
境内右手には立派な社務所。
こちらは普段は無人で、氏子の集会などに使われている。
社務所の窓にも掲示されているが御朱印は本務社である「雪ヶ谷八幡神社」の社務所にて。
御朱印は「道々橋八幡神社」の朱印と、三つ巴紋。
当社のシンボルにもなっているムクノキの印も押印される。
2023年正月に頂いた干支のうさぎ入り御朱印。
所感
旧道々橋村の鎮守として崇敬を集める当社。
道々橋村は池上村から独立して3つの飛地を有していたりと、独立心の強い村民たちによって維持されていたと思われ、そうした村の氏神様として崇敬され続けたのだろう。
明治維新後、さらに戦後と移り変わりによって、現在は公式地名に道々橋という名を見る事ができないのだが、こうして鎮守である当社が「道々橋八幡神社」を称する事で、旧地名を留めているのが素晴らしい。
地域の小さな鎮守であり、神職の常駐もない兼務社ではあるが、境内は綺麗に整備されている事からも、地域からの崇敬の篤さを感じさせてくれる。
児童公園がある鎮守というのは、個人的には良い風景であると思う。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
「雪ヶ谷八幡神社」社務所にて。
※御朱印は本務社「雪ヶ谷八幡神社」にて頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2023/01/15(御朱印拝受)
参拝日:2020/06/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/09/14(御朱印拝受)
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