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概要
出世の石段で知られる芝の愛宕神社
東京都港区愛宕に鎮座する神社。
旧社格は村社で、芝愛宕町など(現・愛宕・西新橋・新橋の一部)の鎮守。
標高26mの自然に形成された山である芝の愛宕山山頂に鎮座。
防火の神様として信仰を集める愛宕信仰の一社。
幕末には勝海舟と西郷隆盛が愛宕山に登り、眼下の江戸の風景を見せ「江戸城無血開城会談の地」ともされる他、江戸時代より「出世の石段」と呼ばれる男坂で有名で知られる。
また6月23日-24日に斎行される千日詣り・ほおづき縁日はほおづき市の発祥として知られる。
神社情報
愛宕神社(あたごじんじゃ)
御祭神:火産霊命
相殿神:罔象女命・大山祇命・日本武尊・将軍地蔵尊・普賢大菩薩
社格等:村社
例大祭:6月23日-24日(千日詣り・ほおづき縁日)・9月24日(大祭式)・9月22日-24日(隔年/出世の石段祭)
所在地:東京都港区愛宕1-5-3
最寄駅:虎ノ門駅・虎ノ門ヒルズ駅・神谷町駅・御成門駅
公式サイト:https://www.atago-jinja.com/
御由緒
当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の崇敬篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝受を得ておりました。また徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。寛永十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ、「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。(ご社殿内に額縁寄贈)
海抜二十六メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にてその名残りをとどめています。(境内の掲示より)
歴史考察
徳川家康によって防火の神様として創建
社伝によると、慶長八年(1603)に創建と伝わる。
徳川家康の命によって江戸の「防火の神様」として創建。
家康が信仰した愛宕権現を勧請し、当社の本地仏として勝軍地蔵菩薩を別当寺「円福寺」(現・廃寺)に祀ったと云う。
「愛宕神社」(京都府京都市右京区)が総本社。
京都の愛宕山の山頂に鎮座し、火伏せ・防火に霊験のある神社と知られ信仰を集めた。
当時は神仏習合の時代であり、愛宕信仰も神仏習合の色合いが濃い信仰で、愛宕権現(あたごごんげん)とは愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、地蔵菩薩を本地仏として祀った。
日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えの中で、神の正体とされる仏を本地仏と呼んだ。
以後、徳川将軍家より江戸の防火の神様として庇護を受け、江戸町民からも火伏せ・防火に霊験のある神社として信仰を集めた。
200石もの朱印地を賜る・愛宕山は東京23区内の最高峰
慶長十五年(1610)、本社・仁王門・坂下総門等などを造営。
二代将軍・徳川秀忠は朱印地200石を寄進した。
幕府などから寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。
当社を由来として「愛宕山」と称された一帯を社領とし、別当寺「円福寺」(現・廃寺)と共に多いに崇敬を集めた。
古くから名勝として名高い当社が鎮座する愛宕山。
標高26mの自然に形成されたいわゆる天然の山である。
現在の東京23区内では最も高い天然の山(最高峰)として知られる。
曲垣平九郎と「出世の石段」の伝説
当社のシンボルともなっている参道正面にある男坂の「出世の石段」。
これは寛永十一年(1634)に残る伝説が由来となっている。
寛永十一年(1634)、三代将軍・徳川家光が二代将軍・徳川秀忠の三回忌として「増上寺」へ参拝。
その帰りに愛宕山山頂に梅が咲いているのを見て「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と発言。
正面の男坂の急勾配に多くのものが怯む中、讃岐国丸亀藩の家臣・曲垣平九郎盛澄(まがきへいくろうもりすみ)が男坂(八十六段)を駆け上り、当社に国家安寧の祈願をした上で、境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上。
この事により曲垣平九郎は「日本一の馬術の名人」として名を馳せるようになった。
この男坂を駆け上りその名を天下に轟かせた事から、当社の男坂は「出世の石段」と呼ばれ全国に広まる事となった。
当社のシンボルとなっているのが男坂。
この石段を馬で駆け上がったというのだから凄まじいエピソード。
家光に献上したとされる梅は現在も「将軍梅」として境内に残っている。
この梅を手折り献上したとされている。
境内には記念撮影できる顔ハメ看板も。
江戸切絵図から見る当社と愛宕山・天下取りの神
江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。
こちらは江戸後期の愛宕下周辺の切絵図。
当社は中央付近に描かれている。
赤円で囲ったのが当社で、「愛宕山」と記され鳥居と社殿も描かれている。
地域の殆どが大名屋敷になっているのも分かる。
当社は上述した「出世の石段」の逸話、徳川家康による創建や徳川将軍家に庇護された事から「天下取りの神」「勝利の神」としても信仰を集めた。
そのため周囲に大名屋敷や立ち並んでいた事もあり、各藩の者たちも当社を信仰し、さらには地元へ分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀ったと云う。
江戸名所図会に描かれた当社と愛宕山
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「愛宕山総門」として見開きで描かれているのが、愛宕山の山下。
当社の参道にあたる。
急な勾配の男坂(出世の石段)、緩やかな勾配の女坂があるのが分かる。
絵で見ても相当な角度になっているのが伝わってきて、当時から名所の1つだったのが分かる。
さらに愛宕山を登った境内は別ページにて描かれている。
「山上 愛宕山権現 本社図」として見開きで描かれている。
社地は現在とあまり変わっていないのだが、江戸期にあった大火や関東大震災、空襲などで社殿は何度も焼失しているため、現在と当時では配置なども結構変わっているのが分かる。
男坂(出世の石段)を上った先、現在は二之鳥居がある位置には仁王門。
さらに境内には鐘楼も設けられていて、神仏習合の元で信仰を集めたのが窺える。
境内を取り囲むように「茶屋」の文字を見ることもできる。
ここからも江戸の中にある観光名所になっていたのが伝わってくる。
江戸屈指の名勝・多くの浮世絵の題材に・奇祭の強飯式
徳川将軍家や諸大名からの崇敬も篤く、江戸庶民からの人気も高かった当社。
江戸屈指の名勝であり、庶民にとっては人気の観光名所でもあった。
そのため、浮世絵・錦絵の題材としてよく取り上げられている。
当時の当社の素晴らしい造りがよく分かる一枚となっている。
社殿や当時の仁王門などの造りがとても素晴らしく、実に立派な境内であった事が分かる。
また愛宕山から江戸市中を一望できるように茶屋が多く設置されているのが見て取れる。
江戸時代後期の浮世絵師で、世界的にも著名な画家。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、生涯に3万点を超える作品を発表。
化政文化を代表する一人。
愛宕山から芝浦の海(江戸湾)まで見えた事が分かり、素晴らしい絶景であったのだろう。
より細かい描写となっており江戸市中の町並み、そして海が描かれている。
出世の石段である男坂ではなく、女坂を使って行き来する女性や老人、子供の姿も分かる。
広重は他にも数点当社を描いている。
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。
当社の男坂である「出世の石段」をおそるおそる下りる女性を描いている。
奥には江戸の町並みと海を見る事ができ、実に風光明媚な名勝であった。
初代・歌川豊国の門人で、後に三代目・歌川豊国を名乗る。
美人画を得意としていて、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。
その作品数は1万点以上に及ぶと云われる。
こちらでは「愛宕山毘沙門ノ使」として出世の石段が描かれている。
石段を下りてくる人の姿が見えるが、これは毎年1月3日に行われた奇祭「強飯式(ごうはんしき)」によるもの。
歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。
同じく毎年1月3日に行われた当社の奇祭「強飯式」を描いたもの。
現在は別当寺が廃寺になっている事もあり行われていないが、江戸時代では大変有名な奇祭であった。
毎年1月3日に愛宕山山頂で行われた奇祭。
大きな杓文字を杖として持ち、2mを超す太刀と擂粉木(すりこぎ)を帯びた「毘沙門の使い」と呼ばれる人物が、鐘の音を合図に3人の徒者を従え、男坂を下って別当寺「円福寺」に入る。
「円福寺」で宴を催している僧達の前で、約2mの大まな板を杓文字で突き鳴らした後、飯を食べることを強い、問答を終えると当社へ帰ると云う不思議な儀式。
なお、「毘沙門の使い」は女坂の上にある水茶屋の主人が務めたと云う。
他にも数多くの浮世絵が残っており、当社が江戸の中でも屈指の名勝であった証拠とも云える。
桜田門外の変の集合場所・江戸城無血開城の逸話
江戸屈指の名勝でもあった当社・愛宕山は、幕末においても様々な逸話を残している。
中でも激動の幕末を象徴する「桜田門外の変」や「江戸城無血開城」の話が伝わる。
万延元年(1860)、水戸の浪士たちが当社に集合。
「天下取りの神」「勝利の神」としても信仰された当社で祈念した後、桜田門へ出向き、大老・井伊直弼を暗殺すると云う「桜田門外の変」が発生。
当社が集合場所であったとされている。
「桜田門外の変」の襲撃者を「桜田十八烈士」と呼ぶ。
集合場所であった当社の境内には「櫻田烈士」の碑が残る。
明治元年(1868)の戊辰戦争の際、江戸市中での武力衝突の緊張が高まる中、幕府側の勝海舟と明治政府側の西郷隆盛が、愛宕山頂で江戸市中を見渡したとされる。
その後正式に会談して、江戸城無血開城へ繋がったと云う。
西郷隆盛も愛宕山から江戸市中を見渡す事ができて色々思う事があったのであろう。
境内には記念撮影ができるように顔ハメ看板も。
明治以降の当社の歩み・関東大震災や戦災からの再建
明治になり神仏分離。
明治三年(1870)、愛宕山周辺の武家地・寺社地が芝愛宕町となる。
当社は一帯の鎮守とされ、村社に列した。
「Stone-steps of Atagosan.」として、当社の男坂が紹介されている。
鳥居の先に急勾配の男坂は、今も変わらない姿を残している。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
「愛宕山」と記してあり、愛宕町などの町名も見る事ができる。
特徴的なのは道や地形であり、現在とほぼ変わっていない事が分かる。
これは江戸時代より町家として整備された区画であったため、今もそうした当時の区画を残したまま再整備されたことを表している。
石鳥居の先の男坂(出世の石段)の様子を写している。
関東大震災前の大正時代の参道の様子も分かり貴重な1枚。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も震災により社殿が焼失、その後再建されている。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって再び社殿が焼失。
昭和三十三年(1958)、現在の社殿が再建。
その後も境内整備が進む。
令和元年(2019)、鳥居や丹塗りの門などの境内工事が行われる。
令和二年(2020)、境内社の修繕移設工事が行われた。
令和六年(2024)、御創建420年記念境内整備で境内を大規模改修。
特に神池などは大規模な改修が行われている。
その後も境内整備が行われ現在に至る。
境内案内
当社のシンボル・出世の石段
標高26mと低いながらも、23区内では最高峰の愛宕山。
そうした愛宕山の山頂に鎮座する。
標高26mの自然に形成されたいわゆる天然の山。
現在の東京23区内では最も高い天然の山(最高峰)として知られる。
通りに面して「愛宕神社」の社号碑。
参道の正面に朱色の鳥居。
令和元年(2019)に朱色に塗り替えられた大鳥居。
大鳥居の先には、当社のシンボルでもある「出世の石段」。
英語では「Success Steps」と記してあり海外からの参拝者も多い。
急勾配な男坂がいわゆる「出世の石段」。
写真で見るよりも実際に参拝すると怯むくらいの急勾配となっている。
寛永十一年(1634)、三代将軍・徳川家光が「増上寺」へ参拝。
その帰りに愛宕山山頂に梅が咲いているのを見て「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と発言。
正面の男坂の急勾配に多くのものが怯む中、讃岐国丸亀藩の家臣・曲垣平九郎盛澄(まがきへいくろうもりすみ)が男坂(八十六段)を駆け上り、当社に国家安寧の祈願をした上で、境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上。
この事により曲垣平九郎は「日本一の馬術の名人」として名を馳せるようになった。
この男坂を駆け上りその名を天下に轟かせた事から、当社の男坂は「出世の石段」と呼ばれ全国に広まる事となった。
「出世の石段」の前に一対の狛犬。
昭和八年(1933)奉納の青銅狛犬。
鋳金家・今村久兵衛による作。
男坂の右手には女坂。
こちらは緩やかな石段となっているので、好きなほうを上るのがよいだろう。
出世の石段を馬で上った事例・出世の石段祭
実際に当社を訪れた人は男坂の急すぎる勾配の石段に驚き、ここを馬で駆け上がったという逸話を作り話だと思う人もいるかもしれない。
こうして上から見るとその勾配に恐怖すら覚える。
しかし、その後も実際に男坂を馬で登った事例が存在し、知られているだけで3つ存在。
旧仙台藩で馬術指南役を務めていた事がある石川清馬という人物。
師の四戸三平が挑んだ過去があったが果たせず、師の果たせなかった「出世の石段」登頂を明治十五年(1882)に成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。
参謀本部馬丁の岩木利夫という人物。
大正十四年(1925)愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。
上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要したと云う。
この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続ける事となった。
馬術のスタントマン、渡辺隆馬という人物。
昭和五十七年(1982)、日本テレビの特別番組「史実に挑戦」において、安全網や命綱などの安全策を施した上ではあったが32秒で登頂した映像が残っている。
この事からも「出世の石段」の起源となった、曲垣平九郎盛澄(まがきへいくろうもりすみ)の伝説は実話と見ることもできるだろう。
当社の例大祭である「出世の石段祭」は隔年で斎行される。
この「出世の石段祭」は男坂を使った大変勇壮なお祭りになっている。
この急勾配な出世の石段を提灯を付けた御神輿が登っていく姿は圧倒されるので、機会がある時は訪れるとよいだろう。
隔年で9月22日-24日に斎行。
西暦の場合は偶数年に開催、次回は令和六年(2024)。
愛宕山山頂の境内・丹塗りの門
男坂を上ったところに二之鳥居。
愛宕山の山頂の一画が当社の境内となる。
二之鳥居を潜って左手に手水舎。
水が出て身を清める事ができる。
参道の正面に丹塗りの門。
江戸時代の頃には男坂を上ってすぐ(現在の鳥居)の位置に見事な仁王門があった。
仁王門は既に焼失しており、その代わりにこうして社殿前に門がある。
以前より朱色が映える門であったが令和元年(2019)に塗り直されたためかなり綺麗。
戦後に再建された社殿・撫でて福を頂く招き石
丹塗りの門を潜るとその先に社殿。
震災や戦災など度重なる焼失と再建を繰り返した当社の社殿。
現在の社殿は昭和三十三年(1958)に再建されたもの。
賽銭箱には徳川家の葵紋があるように、当社は葵紋の使用を許可されていて徳川将軍家に庇護された当社の歴史を伝える。
本殿も綺麗に改修。
拝殿の左手前に「招き石」と呼ばれる石。
この石をなでると福が身につくとされている。
何とも不思議な形をした石で多くの方に撫でられて色がつやつや。
鯉が泳ぐ美しい神池と弁財天社
境内の右手には見事な神池。
令和六年(2024)に改修されたばかりの美しい神池。
神池の近くには弁財天社が鎮座。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を御祭神とする末社。
弁天橋。
弁財天社の社殿も新しくなった。
鯉が泳ぐ神池。
社殿の右手には多くの境内社
更に社殿の右手に境内社。
令和二年(2020)に移設工事が行われ後ろへ移動。
左から太郎坊神社。
福寿稲荷社・恵比寿大黒社。
2024年7月参拝時はその前の月にほおずき市があったので多くの鬼灯も。
将軍梅・櫻田烈士の碑・カフェなど
丹塗り門の外側左手には将軍梅が植えられている。
「出世の石段」伝説に伝わる(まがきへいくろう)が徳川家光へ献上した梅とされる。
参道の右手に「櫻田烈士愛宕山遺蹟碑」。
「桜田門外の変」で井伊直弼を暗殺した水戸藩の浪士達は、当社で集合し成功を祈願してから江戸城へ向かった。
殉皇十二烈士女之碑、こちらは終戦直後におきた愛宕山事件の碑。
また参拝中には神社で愛されているネコちゃんの姿もよく見る事ができる。
日向ぼっこをする人懐っこい老猫のシズちゃん。
2024年参拝時も境内で寝ていて可愛らしい。
呼ぶとスリスリと近寄ってくれるとても愛らしいティナちゃん。(2022年1月に虹の橋を渡った)
6月23日-24日は千日詣り・ほおづき縁日
当社の例大祭は9月に行われるが毎年6月23日-24日の「千日詣り・ほおづき縁日」もよく知られる。
浅草など各地で「ほおづき市」が知られるが、当社がその発祥。
毎年6月23日-24日の2日間開催。
古くから社殿前の茅の輪をくぐりお参りすれば千日分の御利益があると信仰される。
また境内で自生していたほおづきを飲めば子供の癇・婦人病に効くと云われていた。
現在はお祓い済みのほおづきが頒布され、頂いた方のみ社殿の中に入りお祓いを受ける事ができる。
当日は丹塗りの門の前に茅の輪を設置。
両日に茅の輪をくぐり参拝すると千日分の御利益があると伝えられる。
ほおづきの頒布。
ほおづきを頂くと社殿内でお祓いを受ける事ができた。
御朱印は帳面にて・書き置きなし
御朱印は「愛宕神社」の朱印と、「芝愛宕山」の印判のシンプルなもの。
墨書きで「伏火之総本社」と記されている。
「愛宕神社」(京都府京都市右京区)が総本社。
京都の愛宕山の山頂に鎮座し、火伏せ・防火に霊験のある神社と知られ信仰を集めた。
但し、家康によって創建された当社は、徳川将軍家から手厚い庇護を受け京都の「愛宕神社」と同格とする通達を受けたとも伝わるため「伏火之総本社」と記してある。
出世の石段がデザインされた御朱印帳
オリジナルの御朱印帳も用意。
紺を基調として出世の石段がデザインされたもの。
裏面は徳川将軍家より庇護されたのが伝わる葵紋に社号。
所感
徳川家康により創建され、徳川将軍家に庇護された当社。
江戸の防火の神様として創建されただけでなく、諸大名からの信仰も篤く「天下取りの神」「勝利の神」としても信仰を集めた。
天然の山である愛宕山山頂にある事で当初から名勝として知られたため、江戸町民からも人気の名所となっており、多くの浮世絵の題材になっている事からも、その人気が分かるというもの。
現在も語り継がれる男坂「出世の石段」は、いま見ても凄さを感じる。
周囲に高い建物も立ち、愛宕山から江戸市中を見渡すといった事はできなくなったが、現在も虎ノ門などビジネス街にあり、多くの方の憩いの場として崇敬篤いのが伝わってくる。
いつ参拝しても参拝者が多く、崇敬の篤い都内屈指の良社であろう。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※御朱印帳に直書きのみ対応。(書き置きは対応不可)
御朱印帳
オリジナル御朱印帳
初穂料:1,700円(御朱印代込)
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
紺を基調として表面には出世の石段をデザイン。
裏面は紅葉と徳川将軍家に庇護された事を伝える葵紋に社号。
御朱印代込。
授与品・頒布品
交通安全祈願ステッカー
初穂料:700円
社務所にて。
千日詣災難除之護符
初穂料:600円
社務所にて。
千日詣り・ほおづき縁日(6月23日-24日)当日限定の護符。
参拝情報
参拝日:2024/07/10(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/06/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/02/28(御朱印拝受)
参拝日:2015/05/18(御朱印拝受)
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