銀杏岡八幡神社 / 東京都台東区

台東区

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概要

銀杏にまつわる御由緒を有する八幡さま

東京都台東区浅草橋に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧浅草福井町の鎮守。
源頼義・義家(八幡太郎)父子が銀杏の枝を丘の上に立て祈願し、凱旋すると銀杏が繁茂していた事を縁として創建された伝承を有する。
そのため社号の通り「銀杏と岡(丘)」にまつわる御由緒を持つ八幡さま。
当時の銀杏は江戸時代に大火で焼失してしまったが、現在も境内には銀杏の木が植えられていて、浅草橋周辺から崇敬を集めている。

神社情報

銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)

御祭神:誉田別命(応神天皇)・武内宿祢命
社格等:村社
例大祭:6月第1土・日曜日
所在地:東京都台東区浅草橋1-29-11
最寄駅:浅草橋駅
公式サイト(Facebook):https://www.facebook.com/ichogaoka.hachimanjinja/

御由緒

後冷泉天皇の御代、源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和四年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保十年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり同十五年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享二年(1745)九月十四日台風のため中程より折れましたが、高さ六メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化三年(1806)江戸大火の折焼失しました。
御祭礼は、江戸時代八月十五日に執り行われていましたが、明治の中頃より六月十五日にかわり、現在は原則として六月第一土曜、日曜に執り行っています。(境内の掲示より)

歴史考察

源義家(八幡太郎)による創建・銀杏伝説

社伝によると、康平五年(1062)の創建と伝わる。
創建には源義家と銀杏の伝説が御由緒に記されている。

源義家(みなもとのよしいえ)
源頼義(みなもとのよりよし)の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。

永承年間(1046年-1052年)、源頼義・義家父子が「前九年の役」鎮圧のために奥州へ向かう。
その途中、当地に立ち寄り休憩のため陣を張ったと云う。

前九年の役(ぜんくねんのえき)
奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦い。

当時の当地は隅田川の流れを一望できる小高い丘で、隅田川の上流から銀杏の枝が流れてきた。
義家はその枝を手に取り、丘の上に立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願した。

康平五年(1062)、奥州で安倍氏を平定した義家が再び当地を通ると銀杏の枝が大きく繁茂。
義家は御神恩に感謝し太刀一振を奉納。
源氏の氏神である八幡大神を勧請して当社を創建したと云う。

この銀杏の木は大樹となり隅田川を行き交う船や街道を行き交う人々の目印となっていたと伝わる。

江戸時代には福井藩主・越前松平家の邸内社となる

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
江戸の再開発が進む。

元和四年(1618)、当地一帯は福井藩主越前松平家の下屋敷となる。
当社も越前松平家の邸内社として祀られる事となった。

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)
越前国(現・福井県)にあった福井藩(越前藩)の藩主。
家格は親藩・御家門、徳川氏の支流で名門とされた。
下屋敷(しもやしき)
江戸に設けられた大名屋敷(江戸藩邸)のこと。
本邸である上屋敷に対して、当該屋敷の用途と江戸城からの距離により中屋敷、下屋敷などが設けられた。

江戸時代のしばらくは越前松平家の邸内社として存続した。

町屋となり浅草福井町の産土神へ

享保十年(1725)、当地が収公(領地を幕府が取り上げること)される。
享保十一年(1726)、下屋敷跡地には町屋が開かれた。

収公された当初は町名がなかったと云う。

享保十五年(1730)、当地周辺を福井町(浅草福井町)と命名。
当社は福井町の産土神として崇敬を集めた。

文政十二年(1829)に編纂された地誌『御府内備考』では以下の記述がある。

右地所町銘無之、中場所・北場所・西場所と唱来候処、追々繁昌仕、町銘無之候ニ付同十五戌年十一月中、町年寄奈良屋市右衛門方之相伺、丸岡町・銀杏町・福井町と申立候処、福井町と町銘御付被下候(御府内備考)

町名がなく中場所・北場所・西場所と呼ばれていたため、丸岡町・銀杏町・福井町の何れかを名付けたいと申し立てして福井町と命名された事が記されている。

名奉行・大岡越前守による命名
当時の町奉行は名奉行・大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)として知られる大岡忠相(おおおかただすけ)。
3つの町名を申し立てられ大岡忠相によって福井町と命名されたとも云える。
福井町はその名の通り福井藩の下屋敷跡に開かれた事に由来。

人々の目印となっていた大銀杏の焼失

延享二年(1745)、創建由来となり人々の目印となっていた大銀杏が台風のため折れてしまう。
しかし、高さ6m位を残して繁茂していたと云う。

文化三年(1806)、文化の大火が発生。
当社も類焼し大銀杏が焼失。

文化の大火(ぶんかのたいか)
明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つと云われる。
出火元は芝・車町(現・港区高輪2)付近で、薩摩藩上屋敷・増上寺五重塔などを全焼させ、木挽町・数寄屋橋に飛び火、更に京橋・日本橋の殆どを焼失。
火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がり、延焼面積は下町を中心に530町、焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと云う。

江戸切絵図から見る杏八マン

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(浅草御蔵前辺図)

こちらは江戸後期の浅草や蔵前周辺の切絵図。
右が北の地図で当社は左付近に描かれている。

(浅草御蔵前辺図)

当社周辺を拡大し反時計回りに90度回転させ北を上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に「杏八マン」と記されているのが当社。
文字数的に省略されているようだが当時から「銀杏八幡」などと称されていた事が窺える。
当社の周辺に福井町が1丁目から3丁目まで記されていて、当社は福井町(浅草福井町)の鎮守であった。

別当寺は「覚吽院」(現・廃寺)が担った。

覚吽院(かくうんじ)の僧・行智
当社の別当寺を担った「覚吽院」には江戸後期の修行僧・行智(ぎょうち)が知られる。
江戸時代に伝わった子守唄やわらべ歌を集成した『童謡集』は、「寝かせ唄」「見覚め唄」「遊ばせ唄」など細かく分類し、子供の暮らしの背景がよく解るように書き残すなどして、その伝承に努めた。
当社にはその記念碑(案内板)が残る。

明治以降の歩み・浅草橋へ町名変更

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列する。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
福井町の地名を見ることができ、当社は浅草福井町の鎮守として崇敬を集めた。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
昭和九年(1934)、関東大震災後の復興にあたり浅草福井町1-2丁目は浅草橋へ町名変更。

当時は浅草福井町3丁目は変更されず、浅草福井町は3丁目のみ残ると云う変則的な形となった。但し戦後の住居表示にあたって浅草橋と変更されている。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

境内案内

浅草橋路地裏の下町らしい一画に鎮座

最寄駅の浅草橋から徒歩すぐの距離に鎮座。
浅草橋人形問屋街、最近はハンドメイドのパーツ屋などが立ち並ぶ浅草橋周辺の路地裏に鎮座。
下町らしさのある商店と家屋が立ち並ぶ一画にこぢんまりとした境内で、扁額や社号碑には「銀杏岡八幡神社」の文字。

鳥居を潜ると一対の狛犬。
平成四年(1992)奉納の新しめな狛犬。
造形がどことなくアニメテイストにデフォルメされていて現代の狛犬ならでは。

江戸時代に奉納された1体のみの狛犬

手水舎の手前にも狛犬。
阿形の狛犬だが対となる吽形の狛犬は現存しておらず1体のみ置かれている。
文化十一年(1814)奉納と古い。
見事な彫刻と頭に穴が空いていたと見られる造形が特徴的。

1体のみの現存だがとてもよい出来なので今後も保存して欲しい狛犬。

その先に参道が続く。
参道の左手に手水舎。
水が流れ身を清めることができる。

白を基調とした鉄筋コンクリート造社殿

参道の奥、右手に社殿。
社殿の正面にはあまりスペースがないためやや手狭に感じる。
東向きの参道に対して南向きの社殿。
鉄筋コンクリート造で白を基調としているのが特徴的。
適度に整備されているのが窺える。

境内社の此葉稲荷神社

境内社は参道途中の右手に1社。
朱色の鳥居と社殿。
御由緒は不明ながら古くから当社の境内に祀られていたと云うお稲荷様。
お稲荷様の一画に小さい社殿も置かれているがこちらも御由緒など不詳。

境内には社号にもある銀杏の木。
源義家(八幡太郎)が植えたと云う大銀杏は江戸時代の大火で焼失してしまっているが、現在も境内には銀杏があちこちに植えられている。
手狭な境内ながら駅近くの喧騒の中でも比較的静かな境内なのが印象的。

銀杏が色付く黄葉の境内

11月下旬から12月上旬にかけては境内の銀杏が黄葉に。
画像は2023年11月下旬の様子で黄葉しかけ。
銀杏岡の社号を有する当社にとっては黄葉の季節は特別なように思う。
浅草橋エリアで聳え立つ銀杏。
黄葉の季節に合わせて「錦秋詣」の御朱印も授与される。(詳細は後述)

季節に応じた限定御朱印・錦秋詣御朱印も

御朱印は社務所にて。
社務所に新しく整備された綺麗な授与所。

御朱印は中央に「銀杏岡八幡神社之印」の朱印、丸に三つ銀杏の社紋が押されている。
左が2016年、右が2019年に頂いたもので現在は銀杏の葉のスタンプが押されていた。

銀杏の葉のスタンプは季節によって色が変わる。

季節や祭事に応じて限定御朱印も用意。
こちらは2022年の「銀杏岡八幡神社」と境内社「此葉稲荷神社」の夏詣御朱印。

令和四年(2022)は御鎮座960年にあたる年。
そのため2022年内は特別な「御鎮座960年記念特別御朱印」を授与。

「御鎮座960年記念特別御朱印」に使用しているのは越前和紙。当社は江戸時代の一定期間、越前松平家の邸内社となっていた歴史も伝える。

2023年11月下旬に頂いた「錦秋詣特別御朱印」。
銀杏の切り絵が施された御朱印で見開きでも閉じても楽しめる仕様。
閉じると金の銀杏が御朱印にかかる美しい仕様。

オリジナルの御朱印帳も用意。
令和四年(2022)に御鎮座960年を迎えるのを記念して頒布の大サイズ御朱印帳。

黄緑色の御朱印帳には2022年末の頒布分まで「御鎮座九百六十年記念」の刺繍入り。

所感

源義家と銀杏の伝承が残る当社。
かつては隅田川や街道を行き交う人々の目印になるような大銀杏が立っていたと云う。
御由緒や社号にあるように丘の上に大銀杏があり、当社もその傍らに鎮座していたのだろう。
現在は商店や家屋がびっしりと立ち並びその面影はないが、下町の路地裏にこうして鎮座し崇敬されている姿は、まさに地域の氏神様という言葉がしっくりくる。
こぢんまりとした境内ではあるが、手入れは行き届きよい空間。
かつて浅草福井町と呼ばれた当地の歴史を伝える良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※通常御朱印の銀杏の葉の色は季節に応じて変わる。
※境内社「此葉稲荷神社」の御朱印もあり。
※夏詣など祭事や季節に応じて限定御朱印あり。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。

最新の御朱印情報
11月12日-12月15日まで「錦秋詣特別御朱印」
11月7日-2025年2月2日まで「四季の御朱印・冬」
※限定は書き置きのみ。通常御朱印は基本的に帳面に頂ける。詳細は公式X(Twitter)にて。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。

令和四年(2022)に御鎮座960年を迎えるのを記念して頒布の御朱印帳。
黄緑色と紺色を基調として銀杏が刺繍で施された2種類。
黄緑色の御朱印帳には2022年末の頒布分まで「御鎮座九百六十年記念」の刺繍入り。
サイズは大サイズ。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

参拝情報

参拝日:2023/11/28(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/08/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/09/19(御朱印拝受)
参拝日:2016/04/06(御朱印拝受)

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