元町嚴島神社(元町厳島神社) / 神奈川県横浜市

横浜市

神社情報

元町嚴島神社/元町厳島神社(もとまちいつくしまじんじゃ)

御祭神:市杵島姫命・多紀理姫命・多岐都姫命・木花開耶毘賣命
社格等:村社
例大祭:6月2日(例大祭)・8月第1土・日曜(夏祭り/隔年)
所在地:神奈川県横浜市中区元町5ー208
最寄駅:元町中華街駅・石川町駅
公式サイト:─

御由緒

 当社の起源は古く、鎌倉時代初期に遡ると言われています。治承四年(1180)、源頼朝は、挙兵にあたり、西伊豆土肥の杉山に鎮座していた弁財天に戦勝を祈願しました。願いが成就した後、頼朝は、茗荷島劔ヶ淵に神殿を造営し、伊豆より弁財天を勧請したと伝えられています。
 この地は、後に横濱村(現在の関内周辺)となり、清水の湧水があったところから清水弁天、また洲干弁天と呼ばれるようになりました。その名は、今でも桜木町から関内へと渡る弁天橋に名残りを留めています。
 元禄年間(1680-1703)になって増徳院(今の外国人墓地元町側、薬師堂のみ現存)境内に仮殿を作り、上之宮杉山弁天と称しました。御神体は、平日は上之宮に、祭日は下之宮清水弁天にお祀りすることになりました。
 幕末・開港期には、この弁天社は横濱湊惣鎮守として多くの方々の崇敬を集めるようになります。万延元年(1860)、横濱村の住民は、居留地確保のため幕府が出した命令により、堀川東岸へ移転することになりましたが、移転先を横浜元村と名乗り、元町の礎を築きます。この時、今の山下町にあった浅間神社も元町百段上(現百段公園)へ移り、明治四十二年には合祀されることになります。
 明治元年(1868)、清水弁天は羽衣町へと遷座。明治二年、杉山弁天は神仏分離令により増徳院から分離・独立し、嚴島神社として祀られることになりました。
 大正十二年(1923)、関東大震災により、社殿は倒壊焼失。現在の社地へ移転、復興することになり、昭和八年(1933)の竣工を待って、正式遷座となりました。
しかし、昭和二十年(1945)五月の横浜大空襲で再び焼失。昭和二十六年に本殿を、三十六年になって拝殿を再建し、現在に至っています。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2019/08/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/09/11(御朱印拝受)
参拝日:2016/07/12(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※旧御朱印もお願いすれば頂けるとの事。

御朱印受付時間
平日10時-16時まで。(土日祝日はお休み)

[2019/08/29拝受]
(現御朱印)

[2018/09/11拝受]
(現御朱印)

[2016/07/12拝受]
(旧御朱印)

歴史考察

横浜元町鎮守の弁天様

神奈川県横浜市中区元町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、横浜元町の鎮守。
かつては「杉山弁天」と称され、関内の「清水弁天」と対になる存在であった。
元町発展の守護神とされ、今も商業地・元町商店街の一画に鎮座。
正式には「嚴島神社」であるが、他との区別のため「元町嚴島神社」とさせて頂く。
旧字体の「嚴島神社」が正式であるが、新字体の「厳島神社」で表記される事も多い。

源頼朝が創建したと伝わる関内厳島神社が起源

当社の創建起源は、治承年間(1177年-1181年)と伝わる。

当社と対の存在であった「関内厳島神社」(中区羽衣町2丁目)が創建起源となっているため、そちらの御由緒を記させて頂く。

治承四年(1180)、源頼朝が平氏追討のため挙兵。
挙兵にあたり、伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)に鎮座していた弁財天に戦勝祈願。
願いが成就した後、頼朝は茗荷島劔ヶ淵(現・横浜関内付近)と呼ばれた地に社殿を造営し、伊豆より弁財天を勧請し創建。

これが現在の「関内厳島神社」である。(当社の起源)

入江があり洲干弁天社と称された
かつての関内エリアは石川郷に属していて、洲干湊(しゅうかんみなと)と呼ばれた入江があり、洲干湊に面した洲干島とも呼ばれる入江の砂州上の村の先端に鎮座。
そのため、当時は「洲干弁天社」と称されていた。

横濱村の鎮守であった清水弁天(横濱弁天社)

慶長二年(1597)、石川郷が横濱村・堀之内村・中村に分村。
その後、「関内厳島神社」は、横濱村の鎮守として崇敬を集める。

境内から清水が湧き出たため「清水弁天」、また横浜村鎮守である事から「横濱弁天社」と呼ばれた。

江戸時代に入ると洲干湊の埋め立てが開始。
吉田新田という現在の横浜の基礎を作った埋立工事が行われる。

吉田新田(よしだしんでん)
江戸時代前期に江戸の材木商・吉田勘兵衛によって開墾された新田。
現在の横浜関内地区の外側(関外)、南西側に伸びる低地の市街地の殆どが、吉田新田の開発によって開墾された埋立地であるため、横浜の基礎を築いた新田と云える。

慶安二年(1649)、江戸幕府より社領6石1斗の朱印地を賜る。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。

江戸名所図会に描かれた清水弁天(横濱弁天社)

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』にも当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「横濱弁財天社」として描かれているのが「関内厳島神社」。
横浜を中心として遠景を描いている。

(江戸名所図会)

上図は弁天社と横濱村周辺を拡大したもの。

まだ開港前の横浜周辺を描いており、当時はまだ海に囲まれた一帯であった。
大変のどかな漁村だった事が窺える。

創建時は「秀閑寺」が別当寺を担っていたものの廃寺となり、慶安年間(1648年-1651年)以降は「増徳院」が別当寺となる。

「増徳院」は現在は横浜市南区平楽に移っているが、当時は今の元町プラザの一画にあたり、この別当寺「増徳院」も「元町厳島神社」すなわち当社の起源の1つとなっている。

清水弁天と対となる杉山弁天と呼ばれた当社

元禄年間(1688年-1704年)、別当寺「増徳院」(現・元町1丁目)境内に仮殿を造営。
平日は「清水弁天」の御神体を、この仮殿に奉安して安置した。

上之宮杉山弁天と称される
仮殿を「上之宮杉山弁天」と称し、これが現在の当社。
一方で「清水弁天」は例祭の日のみ御神体を祀る形となり、「下之宮清水弁天」と称した。

すなわち別当寺「増徳院」境内に置かれ「杉山弁天」と称されたのが当社で、本社である「清水弁天」が現在の「関内厳島神社」という形になる。
このような事情から当社は「関内厳島神社」と元は同一の神社であり、別当寺に仮殿を建てられた分社と云う事ができるだろう。

当社が「杉山弁天」と呼ばれた由来は不詳。周囲には土着の信仰である「杉山神社」が点在しており、何らかの関連性があったのかもしれない。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には「関内厳島神社」についてこう書かれている。

(横濱村)
辨天社
社地一丁一段十五歩。洲乾の出洲にあり。土人清水辨天と呼ふ。慶安二年社領六石一斗五合の御朱印を賜へり。村の鎮守なり。社中には前立の像のみを置。神體は元禄中より別當増徳院境内仮殿に安し。彼所にては杉山辨天と唱ふ。坐像長2尺程弘法大師の作。此社地は海面に望。勝景の地なれは遊客神奈川驛より乗船の至る者多し。

(新編武蔵風土記稿)

横濱村の「辨天社」と記されているのが「関内厳島神社」。
上画像の挿絵も「関内厳島神社」を描いている。
「関内厳島神社」の項目に当社についての記載もされている。

「神體は元禄中より別當増徳院境内仮殿に安し。彼所にては杉山辨天と唱ふ。」と記されているのが当社についてであり、「清水弁天」と呼ばれた「関内厳島神社」には前立の御神体のみ安置し、別当寺「増徳院」の仮殿に御神体があるという事と、そこは「杉山弁天」と呼ばれていた事が分かる。

こうして別当寺境内の仮殿にて祀られ、地域からの崇敬を集めた。

神仏分離で嚴島神社に改称・関東大震災と戦後の再建

明治になり神仏分離。
「増徳院」境内にあった当社も分離を余儀なくされる。

明治二年(1869)、元町1丁目に社殿を造営し、現在の「嚴島神社」に改称。
村社に列し、元町の鎮守として崇敬を集めた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
古地図のほうを見ると、現在よりも東に緑円で囲った旧別当寺「増徳院」の姿が見える。
その南側に神社の地図記号があり、これが当時の当社の鎮座地で、現在のアメリカ山公園付近にあたる。

現在の鎮座地の近くにも神社の地図記号があるが、後に当社の合祀される事になった「浅間神社」と思われる。

明治四十二年(1909)、「浅間神社」が合祀。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生し社殿が倒壊焼失。
しばらくは仮殿にて再建。

昭和八年(1933)、現在の鎮座地に社殿が竣工。
当地に遷座して再建された。

(神奈川県神社写真帖)

上画像は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。

「村社 、嚴島神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が分かる。
既に当地に遷座した後の旧社殿。

昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、再び社殿が焼失。

昭和三十六年(1961)、社殿が竣工。
これが現在の社殿となっている。

その後も境内整備が進み現在に至る。

横浜村の元住民による町・横浜元町の歴史

当社は横浜元町の鎮守とされる。
そのため元町の歴史にも少し触れてみたい。

現在の元町地区は安政六年(1859)の横浜開港までは半農半漁の村落であった。
当社の元になった「増徳院」はあったものの、かなり寂れた村落であったと云う。

横浜村の住民が移住した元町
万延元年(1860)に横浜開港に伴って横浜村の一部の住民が立ち退きを余儀なくされる。
その横浜村の住民の多くが移住した地が、この元町である。
横浜村の元住民による町である事から「横浜元町」と呼ばれるようになる。

横浜開港後は、山下町に外国人居留地、山手に山手居留地が設けられ、両地区を結ぶ元町通りは、外国人居留者が日常的に多く行き交うところとなり、外国人を相手にした商売が盛んに行われるようになる。

明治維新になると、さらに外国人向けの商店街として栄え「元町」と改称。

この頃には神仏分離で当社が造営され、元町鎮守となっている。

当時は日本では珍しい喫茶店、ベーカリー、洋服店などが軒を連ねる商店街となり、文明開化の代表的存在となった。
これが今の元町商店街(元町クラフトマンシップストリート)の原型。
戦後には1970年代に「ハマトラ」と呼ばれるトラディショナルスタイルのファッションが誕生し、元町ブランドが確立。

Socolive - Trực tiếp bóng đá hôm nay, xem bd trực tuyến HD
Socolive phát bóng đá trực tuyến miễn phí full HD tốc độ cao. Xem trực tiếp bóng đá Socolive TV hôm nay tại giải đấu Ngo...
商売繁盛の神様
このように文明開化やファッションの町として、時代の最先端を歩んだ横浜元町の商業の発展の守り神であった当社は、商売繁盛の神様としても崇敬を集めている。

境内案内

元町クラフトマンシップストリートの脇道に鎮座

元町クラフトマンシップストリート・元町仲通りの奥に鎮座。
元町の商店街の中に鎮座しているという形。
メインストリートから脇へ南側に進むと当社の朱色の鳥居が見えてくる。

鳥居は昭和八年(1933)に建立。
改修され朱色に塗られ現存している。
扁額には「嚴嶋神社」とある。

児童遊園もある地域の憩いの場・江戸時代の水盤

鳥居を潜ると左手に自治会館。
右手が児童公園となっていて、地域の憩いの場となっている。
児童遊園にある銀杏は横浜市名木古木指定。

石段を上った先に社殿があり、手水舎は右手。
この手水舎の水盤が江戸時代のもので古い。
元治元年(1864)に奉納されたものが現存。

戦後に再建された朱色の社殿

拝殿は昭和三十六年(1961)に再建されたもの。
当地に遷座後に建てられた旧社殿は、横浜大空襲で焼失。
鉄筋コンクリート造にて再建。
朱色に塗られ綺麗に維持されている。
本殿は木造のものが繋がる形。

社紋は波に三つ鱗。
弁天様らしい社紋。

商売繁盛・縁結び・交通安全の神
横浜元町の商業の発展の守り神であり、商売繁盛の神様としても崇敬を集める。
さらに弁財天らしい縁結びの神様として、多くの学校が近くにある事から合格祈願の神様、御祭神の宗像三女神は海上交通の神として崇敬を集めたため交通安全の神としても知られている。

境内社・龍神池・名木指定の桜など

社殿の左手には境内社が二社。
右が当地の名主であった石川家より寄進された皇太神宮で、昭和八年(1933)に遷座。
左が金刀比羅宮。
神仏分離以前より当社と共に祀られていた末社だと云う。

本殿の右手に龍神池。
由来などは不詳であるが、龍神は弁財天の化身とも云われる事があり、そうした由来で整備され名付けられたものであろうか。
龍の口が吐水口となっている。

拝殿前には一本の桜。
横浜市名木古木指定の桜。
春になると美しい境内を彩る。

社殿の右手には社務所。
但し、こちらは普段は使われておらず無人。

御朱印は平日のみの対応(土日祝は対応なし)

御朱印は自治会館にて頂ける。
鳥居の左手に授与所があり、インターホンを押すと隣の自治会館より人が出てきて下さる。
基本的に平日のみの対応なので土日祝に参拝される方は注意したい。

御朱印受付時間
平日10時-16時まで。(土日祝日はお休み)

御朱印は2016年参拝時と2018年以降に参拝時では朱印に変化がある。
左が2016年参拝時の御朱印で、朱印にアルファベットが使われていて個性的であったが、2018年参拝時(画像は2019年のもの)は右の「元町嚴島神社」の御朱印に変更となっていた。

現在は右の「元町嚴島神社」の御朱印となるが、旧御朱印もお願いすれば頂けるとの事。

所感

横浜元町の鎮守である当社。
かつては「関内厳島神社」と同一であり、江戸時代に分社として別当寺に誕生した歴史は、中々に興味深いものとなっており、弁天様と港町(当時は漁村)の相性の良さを感じる。
元町鎮守であった当社は、文明開化の最先端を歩んだ元町の守り神として、商業発展に貢献。
現在も児童遊園や自治会館もあったりと、地域との繋がりも深い。
日によっては小学生低学年くらいの子が、自治会館で習い事を習うために親子でやってきては、親は児童公園で井戸端会議といった様子を見かける事ができ、当社が地域の方の交流場になっているのが伝わってくる。
小さな神社ではあるが、横浜元町の変遷を見守ってきた神社であり、今もなお地域に親しまれている良い神社である。

神社画像

[ 参道 ]



[ 鳥居 ]


[ 参道・石段 ]

[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]


[ 天水桶 ]


[ 灯籠・水盤 ]

[金刀比羅宮・皇太神宮 ]


[ 金刀比羅宮 ]

[ 皇太神宮 ]

[ 神輿庫 ]

[ 社務所 ]

[ 龍神池 ]



[ 児童遊園 ]


[ 授与所 ]

[ 自治会館 ]

[ 御籤掛 ]

[ 石碑 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました