西向天神社 / 東京都新宿区

新宿区

目次から「御朱印画像一覧・御朱印情報」を選択すると過去の御朱印画像をすぐにご覧頂けます。

概要

社殿が西を向いている事から西向天神

東京都新宿区新宿に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧東大久保村の鎮守。
古くは「大窪天満宮」と呼ばれ、徳川家光との逸話から別名「棗天神」とも称された。
「西向天神社」の名は社殿が西向きになっている事に因む。
また境内には富士塚がある事でも知られている。

神社情報

西向天神社(にしむきてんじんしゃ)

御祭神:菅原大神・稲荷大神・秋葉大神・厳島大神
社格等:村社
例大祭:5月25日
所在地:東京都新宿区新宿6-21-1
最寄駅:東新宿駅
公式サイト:─

御由緒

 安貞二年(1228)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗(なつめ)の天神とも呼ばれます。「江戸名所図会」ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの際に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。
 天正年間(1573-92)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠が建てられ、その後、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った祭に、元信という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。
 別当寺であった梅松山大聖院は、神社の北側にあります。江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、本山修験派の江戸の拠点となっていました。
境内には、太田道灌の山吹の里伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑があり、寺の前の狭い石段を山吹坂と呼んでいます。(境内の掲示より)

歴史考察

明恵上人によって鎌倉時代に創建の伝承・西向の由来

社伝によると、安貞二年(1228)の創建とされる。
明恵上人が当地に「北野天満宮」を勧請したと伝えられる。

明恵(みょうえ)
鎌倉時代の僧で華厳宗中興の祖。
建永元年(1206)に後鳥羽上皇から山城国栂尾(とがのお)(現・京都府)の地を賜り「高山寺」を開山、栂尾に茶の種子を撒いた事から「高山寺」は日本最古の茶園としても知られる。
こうした逸話から明恵上人、栂尾上人とも称される。

明恵上人が菅原道真公自作の尊像を持って東国に下向。
その際、当地に祠を建てて当地の鎮守としたと云う。

社殿が西向きになっている事から「西向天神」と呼ばれ崇敬を集めた。

菅原道真公ゆかりの地で天神信仰の総本社的な位置付けである「太宰府天満宮」(福岡県太宰府市)や「北野天満宮」(京都府京都市)の方へ向かい、社殿を西向きに造っていると云う。
西向天神社 - 東京都神社庁

太田道灌の伝承・天正年間に兵火によって全焼

中世には太田道灌が新田を寄進したと伝わる。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、当時の江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。

隣接する「大聖院」(旧別当寺)の境内には太田道灌の「山吹の里伝説」に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑が残る。
また寺前の狭い石段を山吹坂と呼んでいる。

山吹の里伝説
その昔、太田道灌が狩りに来た途中、急な雨に困り果てふと一軒の民家を見つけ蓑の借り受けをするために立ち寄った。
ところがその民家の娘(紅皿)はただ黙ったまま蓑の替わりに山吹の一枝を太田道灌に差し出した。
しかし、道灌はその意味がさっぱり分からず「花を求めたのではない」と不機嫌のまま帰城。
城に帰って家臣に話したところ、それは後拾遺集の醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王が詠まれた「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」という歌にかけて「余りにも貧しくて蓑(実の)ひとつ持ち合わせがない」という返答だと教えられる。
それを聞いた道灌は村娘さえ知る歌を知らなかった己の不勉強を深く恥じて、それ以後道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったと云う。

天正年間(1573年-1593年)、兵火によって全焼。
村民により祠が建てられ維持されていた。

兵火によって社殿などが全焼した際、御神体の尊像のみ渓間の樹上にあり無事であったと云う。

徳川家光の伝承から棗天神(なつめてんじん)とも称される

江戸時代に入ると、聖護院宮道晃法親王が江戸に下向した際に元信と云う僧に命じて再興。
元信は社殿などを再建したと伝わる。

聖護院宮道晃法親王(しょうごいんのみやどうこうほうしんのう)
後陽成天皇の第十一皇で「聖護院」(京都府京都市)に入り親王となった。
茶道・書画・和歌に通じていたと云う。
延宝六年(1678)薨去。

当社の別当寺は現在も隣接する「大聖院」が担っていた。
神仏習合の元で崇敬を集める。

大聖院(だいしょういん)
梅松山五大尊寺と号する天台寺門宗寺院。
中世の頃より春日部にあったと伝わるが当社の隣に移転。
当社の別当寺、更に天台宗本山派の江戸番所を勤め、聖護院門跡の直末という位置付けであった。

寛永年間(1624年-1645年)、第三代将軍・徳川家光が鷹狩の際に当社に立ち寄る。
その際、当社が荒廃したのを見て金の棗(なつめ)の茶入れを下賜し再興を促した。

こうした伝承から当社は「棗天神(なつめてんじん)」とも称された。

江戸時代の地誌『江戸名所図会』『新編武蔵風土記稿』にも「棗の天神」の文字が見える。

当社は大窪(東大久保村)の鎮守として崇敬を集めた。
「西向天神」や「棗天神」の他、地名から「大窪天満宮」とも称されていた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(東大久保村)
天神社
村の鎮守なり。棗の天神とも西向天神とも号す。安貞年中栂尾山明慧上人東国に五大尊寺を興営せんとして菅家自作の像を懐にし下向して先当所の郷民と議し祠を建て鎮護神とす。其後天正の頃兵火に罹り灰燼となりし時、不思議に尊像のみ渓間の樹上にあり。郷人等奇異の思をなし青山将監と云者と力を戮て更に経営せるもの則今の社頭なり。一年聖護院道晃法親王東国経歴の時、法印元信に命して当社の別当とし社宇を修補して頗古に復すと云。例祭は隔年六月二十五日。
末社。孔雀明王。稲荷。弁天。白太夫社。石尊。神明。秋葉。浅間。
宝篋塔。春日局別荘にありしを、後に当社に寄附すと云。
瑞現桜。兵火の頃神体飛行して止りし木なりと云。古木は枯て近き頃植つけり。
別當大聖院(以下略)

東大久保村の「天神社」として記されているのが当社。
伝承にある通り「棗の天神」と称された事や、現在の社号である「西向天神」と称されていた事、上述したような御由緒についても記されている。

境内には宝篋塔と呼ばれるものがあったと云い、春日局の別荘にあったものが寄付されたと云う。

春日局(かすがのつぼね)
第三代将軍・徳川家光の乳母。
江戸城大奥の礎を築いた人物としても知られる。

春日局のエピソードからも当社が「棗天神」と称された家光との伝承を窺える。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「大窪天満宮」として描かれているのが当社。
補足として「西向」「棗の天神」と称されている事も記されている。
中央上に描かれているのが当社の社殿で、左手にあるのが別当寺の「大聖院」。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。

自然に囲まれた鬱蒼とした境内だった事が伝わり補足にも「幽遠」の文字が記されている。
社頭には弁天池も整備され弁財天も祀られていた事が分かる。

現在も当社の御祭神には厳島大神がいるので本社に合祀されたのだろう。

石段を上った先に西向きで社殿という構成は現在と変わらず、境内の右手には境内社の姿も幾つか見る事ができる。
拝殿前に一対の狛犬が描かれておりこれが現存。

この後の天保十三年(1842)に富士塚(東大久保富士)が築造されたためこちらには描かれていない。

歌川広重が描いたという『絵本江戸土産』にも当社は描かれている。

(絵本江戸土産)

『絵本江戸土産』は広重の『江戸名所百景』の下絵にもなったと云われる作品。

色付けされており俯瞰で見る事ができる1枚。
この頃には富士塚が築造されていて実に立派な富士塚だった事が分かる。
今よりもかなり規模があり崇敬を集めたのであろう。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

江戸切絵図から見る当社

江戸時代の当社については江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(大久保絵図)

こちらは江戸後期の大久保周辺の切絵図。
図の右が北になっていて当社は図の左上に描かれている。

(大久保絵図)

北を上にして当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲んだのが当社で「西向天神」と記されている。
緑円で囲んだのが富士塚で「不二」の文字と富士山を模した絵が描かれている。

この富士塚は天保十三年(1842)に築造されたもので当時は現在のものより規模も大きかったのであろう。こうした切絵図にも描かれるような規模で地域の名所の1つだった事が窺える。

なお青円で囲んだのが現在は当社が兼務している新宿山ノ手七福神「厳嶋神社(抜弁天)」。

明治以降の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治五年(1874)、村社に列する。
この頃には「北野神社」に改称。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって東大久保村・西大久保村・大久保百人町が合併し大久保村が成立。
当社は大久保村東大久保の鎮守として崇敬を集めた。

明治三十四年(1901)、菅原道真公一千年祭に際して「西向天神社」を正式な社号とする。
以後は「西向天神社」の社号を名乗り続けている。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で今も昔も変わらない。
地図上には「西向天神」の文字も記されている。
東大久保の地名も見る事ができ、こうした一帯の鎮守であった。

大正十四年(1925)、一時撤去されていた富士塚が再建。
江戸時代の頃よりはかなり規模が小さくなっているが現存。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって本殿・神楽殿・神輿庫を残し他は焼失。
その後、再建を果たしている。

戦後になり境内整備が行われ現在に至る。

境内案内

新宿から程近い場所に鎮座・地元民の通り道

最寄駅の東新宿駅から徒歩数分の距離で、やや細めの一方通行の路地に面して鎮座。
江戸時代はもっと自然に溢れ社頭には弁天池もあったようだが、現在でもビルなども立ち並ぶ新宿エリアにありながら静かな境内を維持している。
当社の境内や参道は南側から北側に抜ける通り道になっているようで、地元の方が頻繁に境内を通り行き来していて地域に馴染んだ一画。

鳥居を潜ってすぐに一対の狛犬。
弘化三年(1846)の銘があり古い。
子持ちと鞠持ちの阿吽となっている。

石段の上に二之鳥居。
こうした配置は江戸時代の頃から変わらない。

二之鳥居を潜り左手に手水舎。
綺麗に管理されている。

西を向いた木造社殿・紅葉林

社殿は戦後になって再建されたもの。
木造で再建され社号の通り西を向いている。
古くから当社の社殿は西を向いているため「西向天神」と称された。
第二次世界大戦で拝殿は焼失したと云うが本殿は焼失を免れたと云う。
奥に見える本殿。

社殿の左手は紅葉林として整備。
参拝した11月下旬は日当たりのよい箇所が綺麗に紅葉していた。(奥には庚申塔も見える)
紅葉の境内。

江戸時代中期の古い狛犬

拝殿前に一対の狛犬。
こちらは宝暦十二年(1762)に奉納されたもので石段前にある狛犬より更に古い。
ずんぐりした体躯に頭に角と宝珠を乗せていて江戸中期の古い狛犬の造形を残している。
江戸尾立ちの尻尾。

隣には大聖院・藤圭子の歌碑も

当社の左手には旧別当寺「大聖院」。
途中が児童公園のようになっていて、当社との隔たりはなく繋がっている。
こちらが「大聖院」。

そのためどこまでが当社でどこまでが「大聖院」なのかが分からないが、古くは神仏習合の中で共に崇敬された姿を留めているとも云えるだろう。

当社と「大聖院」の間にある坂(石段)は山吹坂と呼ばれる。
「大聖院」には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の碑がある事から名付けられた。

山吹の里伝説
その昔、太田道灌が狩りに来た途中、急な雨に困り果てふと一軒の民家を見つけ蓑の借り受けをするために立ち寄った。
ところがその民家の娘(紅皿)はただ黙ったまま蓑の替わりに山吹の一枝を太田道灌に差し出した。
しかし、道灌はその意味がさっぱり分からず「花を求めたのではない」と不機嫌のまま帰城。
城に帰って家臣に話したところ、それは後拾遺集の醍醐天皇皇子・中務卿兼明親王が詠まれた「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」という歌にかけて「余りにも貧しくて蓑(実の)ひとつ持ち合わせがない」という返答だと教えられる。
それを聞いた道灌は村娘さえ知る歌を知らなかった己の不勉強を深く恥じて、それ以後道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったと云う。

近くには藤圭子の歌碑。
デビュー曲である『新宿の女』の歌詞が載っている。

藤圭子(ふじけいこ)
本名は宇多田純子。
夫は音楽プロデューサーの宇多田照實、娘はシンガーソングライターの宇多田ヒカル、元夫は歌手の前川清。
1960年代末から1970年代初頭にかけ、夜の世界に生きる女の情感を描いた暗く哀切な楽曲(怨歌をハスキーボイスで歌唱し一世を風靡した。
代表曲は『新宿の女』『女のブルース』『圭子の夢は夜ひらく』『京都から博多まで』など。

その横には不動明王の石像。
これも神仏習合時代の名残であろう。

天神山児童遊園の奥に富士塚(東大久保富士)

境内の右手には神楽殿。
一帯には古い石碑なども多く残る。

その先は「区立天神山児童遊園」として整備。
ブランコ、すべり台や丸太型の遊具の他、石碑なども多くあるのが特徴。
いずれも当地の歴史を伝える。

天神山児童遊園
新宿区の公式ウェブサイトです。

こうした児童遊園の一画に富士塚が置かれている。
天保十三年(1842)に築造された富士塚。
東大久保富士とも呼ばれ『江戸切絵図』に記されていたようにかつてはかなりの規模であった。
明治になって一時的に撤去、大正十四年(1925)に再建。

現在はフェンスで囲われていて登拝する事はできない。

その奥には神輿庫。
旧社殿の一部を使用していると云う。

西向天神の御朱印・抜弁天の御朱印も頂ける

御朱印は社殿右手にある社務所にて。
丁寧に対応して下さった。

御朱印は「武蔵国大久保郷西向天満宮」の朱印、下は「西向天神社」の朱印。
帳面に直接下さった。

正月8日以降は当社にて新宿山ノ手七福神「厳嶋神社(抜弁天)」の御朱印も頂ける。
厳嶋神社(抜弁天) / 東京都新宿区
抜弁天(ぬけべんてん)の通称で知られる。新宿山ノ手七福神・弁財天。源義家によって創建。抜弁天と呼ばれた由来。生類憐れみの令によって犬小屋が設けられた地。江戸六弁天。南北に通り抜けできる境内。弁天池が整備。本務社は「西向天神社」。御朱印。
新宿山ノ手 七福神めぐり
新宿山ノ手七福神は年間を通して七福神めぐりができます。どこからお参りしていただいて大丈夫ですので、新宿にある七福神をぜひめぐってみませんか?

所感

旧東大久保村鎮守の天神様である当社。
社殿が西を向いているから「西向天神」と云うストレートな社名で古くから崇敬を集めた。
『江戸名所図会』に描かれた当社は、とても自然に溢れた境内で幽遠な様であったと云う。
現在は当時程ではないものの、新宿エリアにありながらも静かな境内を維持できているのは地域からの崇敬の賜物であろう。
境内を南から北へ横断するように通る住民が多く、そうした通り道として利用されているのも地域に馴染んだ神社と云えるのではないだろうか。
素通りされる方も多い中、低学年と思われる児童が拝殿前で柏手を打ちお辞儀をして通っていった姿を見て、何だか嬉しくなると共に当社が地域から親しまれている事が伝わった。
新宿エリアで歴史と信仰を感じる事ができる古き良き神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※正月8日以降は新宿山ノ手七福神「厳嶋神社(抜弁天)」の御朱印も頂ける。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,000円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
一部の天神様で頒布している梅の御朱印帳で裏には当社の社名あり。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

参拝情報

参拝日:2025/11/28(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/12/14(御朱印拝受)

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました