氷川女體神社(氷川女体神社) / 埼玉県さいたま市

神社情報

氷川女體神社(ひかわにょたいじんじゃ)

御祭神:奇稲田姫命
相殿神:三穂津姫命・大己貴命
社格等:武蔵国一之宮・郷社
例大祭:10月8日
所在地:埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1
最寄駅:東浦和駅(かなり距離あり/バスで朝日坂上停留所)
公式サイト:─

御由緒

ご挨拶
当社は、古代より見沼の水に対する人々の熱い想いと共に崇敬されてきました。現存する祇園磐船龍神祭がその事を如実に物語っております。
また人は祈りながら、心の安らかさを求め生きる事が幸せな人生だと想います。
自分がこの世に存在する事を当然と思うのではなく、両親を始め、ご先祖様、鎮守の神様、万物に宿る神々に感謝とご守護をお願いいたしましょう。
多くの文化財を所有し、武蔵野の正倉院と称される当社を、氏子の皆さんとお守りしてまいります。
創建
古代の鈴が社宝としてあるように、その創建は二千有余年前であり、人々の崇敬を集めた。
更に記録では、崇神天皇の御世に勧請したと「武州一ノ宮女体宮由緒書き」にある。
御神宝
古鈴、三鱗文兵庫鎖太刀、牡丹文瓶子
大般若経波羅蜜多経五百九十三巻 など他多数
御社殿
三元社流れ作り。現在の御社殿は、四代将軍徳川家綱の命より寛文七年に竣工。平成十九年三月、市指定より埼玉県指定に認証される。
社叢
県指定「ふるさとの森」(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/08/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/12/09(御朱印拝受)
参拝日:2015/09/20(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※平日は基本的に神職の常駐がないため書き置きになる事が多い。

[2017/08/29拝受]
(現御朱印)

[2015/12/09拝受]
(旧御朱印)

[2015/09/20拝受]
(旧御朱印)

歴史考察

三室の女体様・武蔵一宮氷川神社の対となる神社

所在地 埼玉県さいたま市緑区宮本に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、旧三室村の鎮守。
氷川神社の総本社である「武蔵一宮氷川神社」が男体社、対して当社は女体社とされる。
武蔵一宮氷川神社」と共に武蔵国の一之宮を称しており、共に「全国一の宮会」に加盟。
正式には旧字体の「氷川女體神社」だが、新字体の「氷川女体神社」を使う場合も多い。
かつては当地は三室村と呼ばれた一帯であり、現在も「三室の女体様」と崇敬を集める。
多くの文化財が所蔵されている事から「武蔵野の正倉院」「埼玉の正倉院」などと称される事もある古社。

女体社と呼ばれた由来

社伝によると、第十代崇神天皇の御代(BC97年-BC30年)に創建と伝わる。

氷川神社の総本社「武蔵一宮氷川神社」の歴史を見ると、その女体社とされる当社の歴史も少し見えてくる。
武蔵一宮氷川神社」は、古くは見沼の水神を祀っていたとされている。

見沼は江戸時代中期に開拓されるまで大変広大な沼であり、土着の神を祀っていた太古の信仰であったと推測されている。

現在も当社に隣接する公園は「見沼氷川公園」と云い、今も近くでは見沼の姿を偲ばせる。
一角には「磐船祭祭祀遺跡」が残されており、古来、見沼で見沼で行われていた御船祭の歴史を伝える。
女体社にあたる当社も、古くは見沼の神を祀っていたものではなかろうか。

その後、第十二代景行天皇御代(71年-130年)、出雲族が当地に移住。
武蔵一宮氷川神社」に、出雲の神である現在の御祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)を祀ったとされる。

それに対して当社は、稲田姫命を祀っている。
武蔵一宮氷川神社」の御祭神・須佐之男命の妻とされる神であり、その事から当社は女体社と呼ばれ古くから信仰を集めた。

稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐之大蛇退治の際に助けて妃にした姫として知られており、社号の「女體(にょたい)」は御祭神に由来する。

一直線に並ぶ三社一体の氷川神社説

江戸時代中期に開拓されるまでは、広大であった見沼付近には、当社の他にも氷川信仰の神社が多数鎮座。
その中でも三氷川とも呼ばれる神社がある。

氷川信仰の総本社「武蔵一宮氷川神社」。
その南東に鎮座する「氷川女體神社」。(当社)
両社の中間に位置する「中山神社(旧・簸王子社/中氷川社)」。
武蔵国一之宮。氷川神社の総本社。氷川の由来。大宮の地名由来。東京・埼玉に点在する氷川信仰。江戸時代に描かれた当社。明治天皇が関東の神社で最初に行幸。約2kmの氷川参道。国費で改築された楼門や社殿。明治天皇御親祭150年祭。御朱印。御朱印帳。
旧中川村鎮守。中氷川社や簸王子社と称された古社。一直線に並ぶ「武蔵一宮氷川神社」「氷川女體神社」と共に三社一体の氷川神社説。明治天皇御親祭150年祭の特別御朱印。安土桃山時代の旧社殿。古くから伝わる鎮火祭。御祭神は大己貴命。御朱印。

この三社で一体の「氷川神社」とする説が存在。
これら三社は直線上に鎮座しており、Google Mapsで確認してみても、見事に直線のラインに三社が鎮座しているのが分かる。

太陽は夏至に西北西の「武蔵一宮氷川神社」に沈み、冬至には東南東の当社から昇る。
稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置とも云われる。

また御祭神からも三社一体の姿が伺える。

武蔵一宮氷川神社」の御祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)。
出雲の神であり、出雲族によって祀られたと伝えられている。
他に稲田姫命・大己貴命も祀るが、平安時代の『延喜式神名帳』には一座と記されているように、古くは須佐之男命のみ祀られていた可能性が高い。
当社の御祭神は、稲田姫命(いなだひめのみこと)。
稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐之大蛇退治の際に助けて妃にした姫とされており、社号の「女體(にょたい)」は御祭神に由来する。
中山神社」の御祭神は、大己貴命 (おおなむちのみこと)。
大己貴命は大国主(おおくにぬし)の別名で「出雲大社」に祀られている神として知られる。
須佐之男命と稲田姫命の間に生まれた息子であり、大黒様と習合し崇敬を集めた。

御祭神で見ると三社の関係はこうなる。

武蔵一宮氷川神社 男体社(須佐之男命)
氷川女體神社 女体社(稲田姫命)
中山神社 簸王子社(大己貴命)

以上の事から、三社一体の「氷川神社」が形成されていたという説。

古代はもっと広大だった見沼を神池として三社が配置され、広大な神域を有する「氷川神社」であったとされている。

武蔵国一之宮を称する理由

このように見沼を中心に広大な神域を有し、荒川流域に広まった氷川信仰。
その総本社である「武蔵一宮氷川神社」は、古くから朝廷に名前が知られた大社であり、いつしか「武蔵一宮氷川神社」は、武蔵国の一之宮として崇敬を集めたとして知られる。

一之宮(いちのみや)とは、律令国で最も社格の高いとされた神社。

武蔵一宮氷川神社」を武蔵国の一之宮と記す古い史料は、室町時代に編纂された『大日本国一宮記』に見る事ができる。

武蔵国一之宮。氷川神社の総本社。氷川の由来。大宮の地名由来。東京・埼玉に点在する氷川信仰。江戸時代に描かれた当社。明治天皇が関東の神社で最初に行幸。約2kmの氷川参道。国費で改築された楼門や社殿。明治天皇御親祭150年祭。御朱印。御朱印帳。

当社が武蔵国一之宮を称するのは、上述した三社一体の「氷川神社」の説によって、「武蔵一宮氷川神社」が一之宮である事から、当社もそれに含まれると解釈したものである。
拝殿の扁額には「武蔵國一宮」の文字が掲げられている。

こうした事から「武蔵一宮氷川神社」と共に「全国一の宮会」に加盟している。
全国一之宮の「全国一の宮御朱印帳」と御朱印画像一覧です。一之宮についての歴史など詳しい説明も掲載しています。

武蔵野の正倉院・埼玉の正倉院と称される

中世以降は、武家からの崇敬を集める。
鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などに縁ある書物や宝物が多く寄進され、現在も当社が所蔵している。

鎌倉時代に北条泰時が奉納したと伝わる「三鱗文兵庫鎖太刀」。
北条泰時(ほうじょうやすとき)は、鎌倉幕府第三代執権。鎌倉北条家の中興の祖。「御成敗式目」を制定した人物として知られる。
室町時代に奉納されたと伝わる「氷川女体神社神輿」。
13から14世紀の中国産とされる「牡丹文瓶子」。
正慶二年(1333)から暦応元年(1338)にかけて写経された「紙本墨書大般若波羅蜜多経」。

以上の4点は、埼玉県指定有形文化財であり、中でも三鱗文兵庫鎖太刀は国の重要美術品にも認定。
他にもさいたま市の有形文化財など数多くの宝物や書物を所蔵。

こうした事から「武蔵野の正蔵院」「埼玉の正蔵院」などと称される事がある。
原則的に保護の観点から一般公開はされていないものの、当社が古くから崇敬を集めていた証拠とも云える貴重な品々となっている。

徳川家康から朱印地を賜る・現社殿の造営

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、家康により50石の朱印地を賜る。

武蔵一宮氷川神社」は300石の朱印地、「中山神社」は15石の朱印地を賜っている。

武蔵一宮氷川神社」と共に、氷川信仰の重要な一社として幕府から庇護されただけでなく、当社は三室村の鎮守として、地域からの崇敬を集めた。

寛文七年(1667)、徳川四代将軍・徳川家綱によって社殿が造営。
これが改修されつつ現存しており、社殿も埼玉県指定有形文化財。
このように徳川将軍家からも庇護され崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に描かれた当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(三室村)
女體社
社領五十石の御朱印は天正十九年賜ふ所。例祭は九月八日八月十四日にて、其内九月八日は隔年の舟祭りなり。此祭古へは社地より廿四五町程隔てて大なる沼あり、其内に神輿を置て舟に祭れり。其沼の内を享保十三年伊澤惣兵衛承りて水田となし、當地へは三百五十坪を除地となせしより今も其神領はかはらず、しかせし後は社地の前新田の中五十間許築出せし地にて、彼祭をば行へり。然るに今此地をもて神職及び土人等は當國の一ノ宮と稱すれど、一ノ宮は大宮氷川明神なることは古書にも載せ疑ふべしともおもはれず。況や當社にはさせる舊記もなく又文殊院所蔵の大般若経其の餘の古文書、且つ正保の國圖等、悉く女體権現とのせたれば一宮ならんと云は附會なること論をまたず。
内陣。祭神は三體にして中央は稲田姫、左は三穂津姫命、右は大己貴命なり。其外神寶をここに収めり圖上に出。
神楽堂。傍に寶蔵二所あり。これより神楽堂に續けり。
鳥居。額に武蔵國一宮とあり。これ附會せしより記せしなるべし。これより石階を下りし所、三沼代用水流あり、ここより望めば左右山丘なれど、其内に眼も及ばぬまで水田うちひらけ、姑く畫中の觀をなせり。
末社。神明社。住吉明神社。石上神社。天神松尾合社。

三室村の「女體社」と記されているのが当社。

三室という地名由来は当社に由来する。「神を安置し奉る室」で「御室」。古くは「御室大明神」と称されていた事もあり、「御室」がいつしか「三室」に転じたと推測できる。

50石の朱印地や、例祭についても詳しい歴史が記されている。

かつては見沼で御船祭が行われていたものの、享保十二年(1727)に見沼が干拓。見沼での御船祭が行えなくなった。代わりに、池の中に丸い島を築いた祭祀場を設け「磐船祭」を行うこととなった。当時は隔年で行われていた事が記されている。

また当時から「武蔵国一之宮」を称していた事が分かるが、一之宮は大宮の「武蔵一宮氷川神社」であるといった事も記されており、現在の御由緒の多くが当時から伝わっていたものである事が分かる。

(新編武蔵風土記稿)

当社の境内は図付きで紹介。
神橋の先に石段、その先に鳥居があり、社殿といった構成は今も変わらない。
社殿も当時のものが現存しており、社叢もさいたま市の天然記念物となっているように、当時の姿がかなり残った境内と見てよいだろう。

(新編武蔵風土記稿)

他にも宝物などが図付きで紹介されている。
「武蔵野の正倉院」と称されるように、古くから宝物が多く納められた神社だった事が伺える。

明治以降の当社の歩み

明治になり神仏分離。
明治六年(1667)、郷社に列した。

明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、三室村・道祖土村が合併し、三室村が成立。
当地は三室一帯の鎮守として崇敬を集めた。

明治四十三年(1910)発行(1906年測図)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
三室村の文字と、現在も当地の地名となっている宮本の文字が残る。

三室の地名由来も当社であるが、宮本も「宮(神社)の本」と当社が由来しているものと思われる。

第二次世界大戦の戦火は逃れ、社殿が現存。
戦後になりかつての面影を残しつつ境内整備が行われている。

昭和五十六年(1981)、当社の社叢が埼玉県より埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定。
平成十九年(2007)、社殿が埼玉県の有形文化財に指定。
平成二十四年(2012)、社殿の改修事業が行われ、現在に至っている。

境内案内

石段の上に鎮座・扁額には武蔵国一宮の文字

最寄駅は東浦和駅になるが徒歩ではかなり距離があるため、公共交通機関を利用する際は、東浦和駅から乗れる国際興業バスの朝日坂上停留所から数百mの距離となる。

当社に隣接するように見沼氷川公園。
見沼氷川公園から氷川女體橋が架けられており、橋の下は見沼代用水。
氷川女體橋を渡った先が当社となる。

石段があり、その上に朱色の鳥居。
こうした橋の先に石段・鳥居という構成は江戸時代の頃から変わらない。
鳥居の扁額には「武蔵国一宮氷川女體神社」の文字。
『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代の当時も鳥居の扁額に「武蔵國一宮」の文字が掲げられていたと云う。

鳥居を潜り右手に手水舎。
正面が社殿となる。

徳川四代将軍家綱の命で造営された社殿

社殿は江戸時代のものが現存。
拝殿は江戸時代中期のものとされていて、近年、屋根の修理が行われた。
薄い朱色の屋根となっていて柔らかさを感じる拝殿。
拝殿の扁額にも「武蔵國一宮」の文字。

本殿は、寛文七年(1667)に四代将軍・徳川家綱の命で造営された三間社流造。
平成二十四年(2012)には改修工事が行われ仮殿が建てられたが、現在は改修が終わり綺麗な姿を見せている。
拝殿の屋根と共に全体的に紅色に輝く社殿となっていて、女体社らしい社殿と云えるであろう。

境内に置かれた多くの境内社

拝殿の右手には龍神社。
見沼の龍神を祀ったといい、氷川信仰として出雲の神がやってくるより前の、土着の信仰によるものであろう。

社殿の裏手には数多くの境内社が鎮座。
これらは御祭神不明なものが多く、古くから当社で祀られていたものと思われる。
『新編武蔵風土記稿』には末社として、神明社・住吉明神社・石上神社・天神松尾合社が記載。
その他、稲荷社などが置かれているものと推測される。

古社を伝える社叢・瘤のある御神木

当社の社叢は、埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定。
埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢となっていて、古い境内の様子を現在に残す。

社叢(しゃそう)とは、神社において社殿や神社境内を囲うように密生してる林。鎮守の杜。

中でも社務所横にある御神木は特徴的な形をしている。
幹に大きな瘤があるのが特徴。
熊の顔にも見えるなどとしてメディアに取り上げる事もあり、パワースポットとしても知られる。

御朱印は社務所にて。
平日は神職の常駐がないため社守の方から書き置きのものを頂く事ができる。

当社の例祭を伝える磐船祭祭祀遺跡

当社に隣接する「見沼氷川公園」の一角には、「磐船祭祭祀遺跡」が残る。
当社の歴史を伝える遺跡で、江戸時代から明治まで行われていた「磐船祭」を偲ぶもの。
現在は市指定史跡となっている。

古来、見沼で「御船祭」という神輿渡御が行われていたが、享保十二年(1727)に見沼が干拓された事で、御船祭を行う事ができなくなっため、見沼の一角である当地の池の中に丸い島を築いた祭祀場を設け、そこで御船祭の代わりとなる「磐船祭」を行うこととなった。
隔年で行われており、当時の遺跡が状態よく保存されている。

昭和五十七年(1982)、「祇園磐船龍神祭」として再興。
この祭祀遺跡で祭祀が行われている。

所感

現在も「三室の女体様」と親しまれている当社。
武蔵国の一之宮で、氷川神社の総本社である「武蔵一宮氷川神社」を男体社とした場合、それに対する女体社という位置づけである、氷川信仰を知る上でも重要な一社と云える。
公共機関を使うとかなり不便な立地にあるものの、現在は「武蔵一宮氷川神社」と共に「全国一の宮会」に加盟しており、一之宮巡りをされる方などの参拝も多い。
江戸時代の頃からあまり変わらぬ境内や社殿・社叢など、古き姿を伝える良い神社である。

神社画像

[ 氷川女體橋 ]


[ 石段・鳥居 ]


[ 鳥居 ]



[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]








[ 拝殿・本殿 ]


[ 本殿 ]

[ 龍神社 ]



[ 休憩所 ]

[ 石碑 ]

[ 参集殿 ]

[ 境内社 ]



[ 神輿庫 ]

[ 力石 ]

[ 社務所 ]

[ 御神木 ]


[ 道標 ]

[ 磐船祭祭祀遺跡 ]




[ 案内板 ]



Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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