神社情報
荻窪八幡神社(おぎくぼはちまんじんじゃ)
御祭神:応神天皇
社格等:村社
例大祭:9月15日に近い日曜
所在地:東京都杉並区上荻4-19-2
最寄駅:上石神井駅・上井草駅・西荻窪駅
公式サイト:https://www.ogikubohachiman.org/
御由緒
当荻窪八幡神社は、第五十九代・宇多天皇の寛平年間(約千百年前)に創祀されたものと伝えられ、第七十代後冷泉天皇の永承六年に、鎮守府将軍・源頼義が奥羽東征の途次此処に宿陣し、戦捷を祈願、後康平五年凱旋するに当って社を修め、盛大な祭を行い、部将を駐めて永く祀らせたという。
社の南一帯の丘地を其の「館」としということから、今なおこの辺りを”城山”と呼んでいる。
降って文明九年太田道灌が石神井城を攻略するに当たり軍神祭を行ない、社前に「槙樹」一株を植栽した。これが今なお社頭に聳える「道灌槙」で、御神木として崇められている。
天正十九年、柏木右近命を承けて検地をするに及び社殿を修復し別当松永山不動王寺宮本坊大泉院(現宮司小俣家の祖)を置いた。
其の後、村人達の尊崇厚く数度の御造営を経て、明治二十八年本殿(総檜造一坪)を、昭和十一年社殿(三十三坪)を、新築し又昭和二十八年には手水舎を、同三十年に社務所(百余坪)を新築し、同四十二年十二月明治維新百年記念事業の工を起し、社殿の移転・増築、神門・廻廊・渡り殿等を新築、四十三年九月古式に則り盛大な遷座祭を行なった。その後、神楽殿を増築、神輿庫二棟を改築、大燈籠二対を奉献、現在に至っている。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2017/05/18
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※社名部分は墨書きではなく印判によるもの。
御朱印帳
初穂料:1,000円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
緑に囲まれた東参道の社頭をデザイン。
以前は紺を基調にした社殿と道灌槇をデザインとしたものであったが、新しいデザインに変更となった。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
上荻窪村鎮守の八幡さま
東京都杉並区上荻に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上荻窪村の鎮守。
正式名称は「八幡神社」であるが、他との区別から「荻窪八幡神社」と称される事が多い。
太田道灌が戦勝祈願した際に植えられた槇1株が、現在も「道灌槇」として境内に残り御神木とされている。
源頼義が戦勝祈願し凱旋した伝承
社伝によると、寛平年間(889年-898年)の創建とされる。
地域で祀られた八幡信仰の神社であったと推測できる。
永承六年(1051)、鎮守府将軍・源頼義が「前九年の役」で奥州に向かう際、当地に宿陣して戦勝祈願をしたと伝わる。
前九年の役は、永承六年(1051)に頼義が陸奥守(後に鎮守府将軍となる)となってから、奥州で独自勢力を築いた安倍氏滅亡までの戦いを云う。
康平五年(1062)、安倍氏が滅亡し勝利した頼義は、凱旋の際に当社の社殿を修復。
神恩に感謝し、盛大に祭礼を行い、武将を当地に留めさせ末永く祀らせた。
太田道灌の戦勝祈願・今も残る道灌槇
文明九年(1477)、太田道灌が、石神井城の豊島氏と戦う際に当社へ戦勝祈願。
これは源頼義の故事に倣って行われたとされている。
この際に、道灌は当社に槇を1株植樹。
これが現在も御神木として境内に残る「道灌槇」である。
村の鎮守として崇敬篤い江戸時代
天正十八年(1590)、関東移封により徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、命を受けた柏木右近が当地の検地を実施。
その際に、当社の社殿を改修し、別当寺「大泉院」を置いた。
天和元年(1681)、社殿を修復。
その後も、村民たちの崇敬が篤く、度々社殿が造営されたと伝わっている。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当宮についてこう書かれている。
(上荻窪村)
八幡社
除地二町三段三畝七歩。西の方遅野井村界ひにあり。村の鎮守なり。社は五尺四方。覆屋二間に四間半東向。前に鳥居をたつ。両邊に杉の並木あり。神体は馬上にして衣冠の木像なり。長七寸許。鎮座の年代詳ならず。例祭八月十五日。別当を松永山大泉院と云ふ。本山派の修験にて相州小田原玉龍坊の配下なり。
上荻窪村の「八幡社」とされているのが当社。
上荻窪村の鎮守であった事が記されている。
御神体の木像や、別当寺を「大泉院」が担っていた事も記されている。
明治以降の歩み・戦後の境内整備
明治になり神仏分離。
別当寺「大泉院」の僧は当社の神職となる。
明治七年(1874)、村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、上井草村・下井草村・上荻窪村・下荻窪村が合併し「井荻村」が成立。
明治二十八年(1895)、本殿を改築。
これが現存する本殿とされている。
明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は今も昔も変わらず、青梅街道沿いに鎮座していた事が分かる。
井草一帯と荻窪一帯が合併した「井荻村」の一帯で、当地は旧村名から「上荻窪」と呼ばれていた。
当社はそうした地域の鎮守として崇敬を集めた。
戦後になり多くの境内整備が行われる。
昭和四十二年(1967)、明治維新百年記念事業によって、社殿の移転・増築、神門・廻廊・渡り殿等を新築し、現在の立派な境内となった。
その後も、境内整備が行われ現在に至っている。
境内案内
指定樹林となった境内・2つの参道
最寄駅は荻窪駅か西荻窪駅になるがどちらからも徒歩20分ほどの距離。
青梅街道沿いにあるので分かりやすい。
大きな参道は東参道と北参道があり、東参道が表参道となっている。
一之鳥居は平成二十三年(2011)の東日本大震災で倒壊したものの、同年再建。
緑に囲まれた境内は、東京都の指定樹林となり杉並区の保護樹林にも指定されている。
この他に青梅街道に面して北参道が整備。
大燈籠が置かれ、社号碑などもこちらに置かれている。
青梅街道に面しているのでこちらから参拝する方のほうが多いだろう。
北参道の鳥居を潜ると参道の両脇に一対の狛犬。
安政二年(1855)に奉納されたもの。
祓門が併設された二之鳥居・立派な神門
東参道と北参道が交わった先に二之鳥居。
二之鳥居の右手に祓門が置かれている。
旧一之鳥居の台座を利用したもので、この穴を潜ると身が清められるとされる。
二之鳥居の先に手水舎。
吐水口が玉持ちの狛犬となっている。
可愛らしい造形。
その先に立派な神門。
昭和四十二年(1967)に神門と廻廊が新築された。
地域の鎮守にこうした神門まで設置されるのは比較的珍しく、地域からの崇敬の篤さが伝わる。
立派な社殿・太田道灌が植えた道灌槇
神門を潜ると総檜造りの立派な社殿。
拝殿は昭和十一年(1936)に改築されたものが現存。
社殿は昭和四十二年(1967)に境内の中で移されて現在の場所に鎮座となった。
周囲が廻廊で囲まれているため、本殿を見る事はできないが、明治二十八年(1895)に改築されたものが現存していると云う。
拝殿前はバリアフリー化されているのが素晴らしく、蛙の像なども置かれている。
社殿前左手に御神木である「道灌槇」。
文明九年(1477)、太田道灌が当社で戦勝祈願した際に植えたとされるもの。
今なお高くそびえ立っており、樹齢500年以上の御神木とされている。
神門の外からも高く伸びているのが分かるように、当社のシンボルにもなっている。
境内社や神楽殿などの施設
東参道の右手に境内社が並ぶ。
手前にあるのが祓戸神社・琴平神社・須賀神社・稲荷神社・御嶽神社の合殿。
その左手に猿田彦神社。
猿田彦神社の左に秋葉神社が置かれている。
御朱印の起源にもなった「六十六部」の奉納碑も置かれている。
境内の右手に立派な神楽殿。
昭和七年(1932)に造営された神楽殿で、昭和四十三年(1968)に増築が行われた。
御朱印は社務所にて。
オリジナルの御朱印帳も新たに用意されていた。
所感
上荻窪村の鎮守であった当社。
八幡信仰らしく源頼義の伝承が残り、その故事に倣ったという太田道灌の伝承も残る。
特に太田道灌は当社に槇を植えたと云い、それが今も御神木とされている道灌槇。
今も高く聳えた御神木は歴史を伝えてくれる。
境内も比較的広く、指定樹林となり保護されていて、緑の多い境内。
青梅街道沿いに鎮座しながらも静かな空間となっている。
戦後にも大規模な境内整備が行われているように、今もなお地域からの崇敬の篤さが伝わる神社である。
神社画像
[ 東参道一之鳥居 ]
[ 東参道 ]
[ 北参道鳥居 ]
[ 社号碑 ]
[ 大灯籠 ]
[ 北参道鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 祓門 ]
[ 手水舎 ]
[ 神門 ]
[ 社殿 ]
[ 蛙像 ]
[ 狛犬 ]
[ 道灌槇 ]
[ 神楽殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所 ]
[ 胸像 ]
[ 猿田彦神社 ]
[ 秋葉神社 ]
[ 石碑 ]
[ 合殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 石碑 ]
[ 南鳥居 ]
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