神社情報
水海道天満宮(みつかいどうてんまんぐう)
水海道天神社(みつかいどうてんじんしゃ)
御祭神:菅原道真公
相殿神:紅梅姫命・八坂大神
社格等:村社
例大祭:10月25日
所在地:茨城県常総市水海道天満町2487
最寄駅:水海道駅
公式サイト:─
御由緒
当神社の創祀は定かではないが、社伝によると、桓武天皇延暦十六年(799年)坂上田村麿が征夷大将軍として、東国征定のため下総国森谷(守谷)に軍を進めて来た時、当地方の武人足葉広武なる者七千余騎の軍勢を率い、田村麿の陣内に奇襲をかけ、田村麿の軍を駆け散らしたと云う。田村麿は思いがけない奇襲にやむ得ず兵を引くが、その前方は大海のような大沼があり、それ以上進むことが出来ず、後からは足葉軍が怒涛の如く責め寄せてくるし、田村麿大いに困り果て、これが一生の終りかと観念したが、その時突然前の大沼、不思議にもにわかに沼水が逆立ちに巻き上り、その中から一人の姫が現れ「如何ニ田村麿」と声をかけたと云う。田村麿馬を降りて「不思議ヤ例ナラヌ女此ノ沼ヨリ出デタリ何者ナル」と尋ねれば「我ハ是此の処に跡ヲタレシ梅明神ノ霊ナリ。汝此度勅ヲ請ケ東夷征伐ニ来ル所ニ計ラザリキ、今急難ニ遇イリ、我今汝ニ見エ、急難ヲ救ワンタメニ現ワレタリ・此水筋ヨリ西ニ向ヒテ沼ヲ超エタランニ、水膝ヲ過グマジキ」と云われた。田村麿大いに感激し神勅に身をまかせようと立ち上がれば姫は何処ともなく姿を消してしまった。田村麿郎党を伴い沼に入れば神勅に疑いなく、水は膝を越すこともなく西に向かって三里程進むと丘に辿り着いた。そこは今井と云う所であった。田村麿一行は危うき急難を逃れることが出来たと云う。これは梅明神の御加護であると感謝をし、その丘に祠を建て梅明神(紅梅姫)を祀り戦勝を祈願したと云う。つまり田村麿が上陸した丘が現在の天神社の境内であり、天神社の前身である。
その後南北朝時代、後村上天皇の御代(1340年頃)に菅原道真公の神霊を勧請し合祀して、社名も「天神社」と改称し、現在に至る。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2017/06/03
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
水海道の天神様
茨城県常総市水海道天満町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧水海道村の鎮守。
正式名称は「天神社」であるが、社号碑や神社の資料などでは「天満宮」を使用。
坂上田村麻呂の伝承が残り、元は梅明神を祀っていた神社で、その後菅原道真公が合祀。
覆殿に納められた本殿は、市の重要文化財に指定されている。
坂上田村麻呂と梅明神の伝承
社伝によると、延暦十六年(799)に創建とされる。
御由緒には征夷大将軍・坂上田村麻呂の伝承が残っている。
しかし撤退した先に大きな沼があり進む事ができず、前は大沼、後ろは足葉軍と絶体絶命の危機に追い込まれてしまう。
突如、目の前の大沼の水が逆立ちに巻き上り、その中から「梅明神の霊」を名乗る姫が現れ「ここより西に向い沼を超えば水は膝まで」と告げ、何処ともなく姿を消した。
そのお告げに従い、田村麻呂の軍勢は沼を超える事が出来、三里程進むと丘に辿り着き、難を逃れる事ができた。
梅明神の御加護に感謝をし、その丘に祠を建て梅明神を祭り戦勝を祈願したと云う。
この丘が現在の当社の鎮座地であり、田村麻呂が建てた祠が当社の前身であるとされる。
天神信仰の神社であるが、御祭神の菅原道真公が生誕する以前の話であり、かつては梅明神を祀る神社として創建されたという伝承で、梅明神は現在も紅梅姫命として当社の配祀されている。
菅原道真公を合祀・水海道城主からの崇敬
後村上天皇の御代(1339年-1368年)に菅原道真公の神霊を勧請し合祀。
社名も「天神社」と改称。
永禄九年(1566)、当社の本殿が再建。
これが現存する本殿であり、当地の豪族によって再建されたと伝わる。
戦国時代には、水海道城主・田村弾正一族の氏神として崇敬される。
江戸時代は、水海道村の鎮守として「水海道八幡神社」と共に崇敬を集めた。
明治以降と戦前の古写真
明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、村社に列する。
明治二十二年(1889)、市町村制施行に伴い、水海道駅(明治四年に水海道村が改称)が水海道駅が単独町制となり、水海道町が成立。
水海道町の鎮守の一社として崇敬を集めた。
明治四十年(1907)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
水海道町という地名が残り、当地周辺には峯下の文字。
坂上田村麻呂が丘の上に創建したと云うように、当地は高台に鎮座し、その下が峯下と呼ばれていた。
明治四十二年(1909)、水海道町に祀られている多くの神社を合祀。
上の古写真は、昭和十六年(1941)に「いはらき新聞」より出版された『茨城県神社写真帳』から当社の写真。
黒潰れと低解像度で分かりにくいとは思うが、戦前の社殿を見る事ができる。
戦後になり境内整備が進む。
現在の拝殿も戦後に改修されたもの。
平成十四年(2002)、菅公御神忌千百年祭を斎行。
御神牛像などが奉納された。
境内案内
高台に鎮座する天満宮
最寄駅の水海道駅から徒歩数分の距離。
市立水海道小学校の向かいに鎮座している。
参道は北側(駐車場側)、南側、東側とあり、東側(小学校の向かい)が表参道。
社号碑には「水海道天満宮」の文字、高台になっていて石段を上った先に鳥居。
扁額にも「天満宮」と記されている。
鳥居を潜った先、右手に手水舎。
龍の吐水口の綺麗な手水舎で、奥には小祠。
御祭神など不明であるが水神社になるであろうか。
戦国時代の本殿・社殿を見つめる神牛像
表参道の正面に社殿。
明治の頃は名工・羽田甚蔵によって増築されたと伝わるが、現在の拝殿は戦後に改築されたもの。
梅紋が施され立派な破風で良い造り。
本殿は永禄九年(1566)に再建されたものが現存と伝わる。
外から見えるのは覆殿になっており、この内部に本殿が納められていて、拝殿から少し窺う事ができる。(拝殿内部のため撮影はしていない)
水海道市(現・常総市)の指定重要文化財となっている。
拝殿の前、両脇に一対の狛犬があり、その手前右手に神牛像が置かれている。
平成十四年(2002)、菅公御神忌千百年祭を記念して奉納された。
市場の守護神・一六神社など多くの境内社
社殿の左手に多くの境内社。
鳥居が整備された境内社が「一六神社」。
江戸時代から当地の中心として栄えた市場を守護していた神社とされる。
元は横曽根に鎮座していたが、元町、栄町と遷座し、現在は当社の境内に遷されている。
箒を持って社の周りを掃き清めると病が治ると信仰されており、厄災を除き福徳を招く開運招福の神として広く信仰されている。
その左手に朱色の社の三喜稲荷神社。
その右手奥にあるのが疱瘡神の祠。
疱瘡神の奥には古い小祠や庚申塔、石碑などが並ぶ。
当地の古い信仰を伝える一画で実に興味深い。
いずれも明治の合祀政策の頃に地域の神社や祠が当社に遷されたものであろう。
境内右手には大きな切り株。
氏子によって奉納されたもので、杉の大木の切り株となっている。
御朱印は社殿右手の社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。
所感
水海道の鎮守の一社である当社。
同じく水海道鎮守の「水海道八幡神社」で行われる「水海道祇園祭」では、当社を含めた町内が参加をするように、共に崇敬を集め信仰された神社なのが窺える。
水海道の地名由来に関わる坂上田村麻呂の伝承が残り、水海道城主による崇敬など、水海道の歴史と深く関わり合いのある神社であり、かつての水海道周辺は地域の中心的な発展を遂げた地であり、市場の守護神も当社に祀られている事からも、地域からの信仰が伝わる。
水海道の歴史を伝える良い神社だと思う。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿(覆殿) ]
[ 狛犬 ]
[ 神牛像 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 御籤掛 ]
[ 一六神社 ]
[ 歌碑 ]
[ 三喜稲荷神社 ]
[ 疱瘡神 ]
[ 小祠・庚申塔など ]
[ 古札納所 ]
[ 南参道鳥居 ]
[ 神楽殿 ]
[ 北参道鳥居 ]
[ 切り株 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
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