神社情報
東叶神社(ひがしかのうじんじゃ)
御祭神:誉田別尊(応神天皇)
社格等:村社
例大祭:9月第2日曜
所在地:神奈川県横須賀市東浦賀2-21-25
最寄駅:浦賀駅
公式サイト:http://redfoal9.sakura.ne.jp/kanouhome.html
御由緒
祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第十五代の天皇)です。
この神社は、養和元年(1181)八月十五日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿などには、この神社に関する記事が載っています。
神社の裏山を明神山と呼び、標高は約五十メートルです。
後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。
明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/10/25
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
御朱印帳
オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
黄色を基調とし、咸臨丸が太平洋横断する様子を描いたデザイン。
勝海舟が渡米に先立ち、当社で断食修行を行った故事に因む。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
東浦賀鎮守・願いが叶う「叶神社」
神奈川県横須賀東浦賀に鎮座する神社。
旧社格は村社で、東浦賀の鎮守。
浦賀港の東側に鎮座しており、浦賀港の西側には「西叶神社」が鎮座。
対となる存在で、元々は「西叶神社」より当社が勧請された歴史を持つ。
正式名称は「叶神社」であるが、区別のため「東叶神社」「東岸叶神社」と称される事が多い。
御祭神は八幡神である誉田別尊で、八幡信仰の神社。
裏山は明神山と呼ばれ、浦賀城として利用された他、当社の奥宮も鎮座。
勝海舟が咸臨丸で太平洋横断する前に当社で断食修行をしたとされる。
現在はパワースポットとしても人気で多くの参拝者が訪れる。
源氏再興を願い創建された八幡さま
社殿によると、養和元年(1181)に「叶神社(西叶神社)」が創建。
源頼朝と知遇を得た僧・文覚が、源氏再興のため、源氏の氏神 ・八幡大神を「石清水八幡宮」(現・京都府八幡市)から当地に勧請したと伝わる。
八幡信仰の神社として創建した歴史を持つ。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての僧・武士。
北面武士であったが19歳で出家。
「神護寺」の再興を後白河天皇に強訴したため、伊豆国に配流。
同じく伊豆国で配流の身であった源頼朝と知遇を得る。
後に頼朝が征夷大将軍になると、鎌倉幕府の要人として、「神護寺」中興の祖として大きな権力を有したが、頼朝の死後は政争に巻き込まれ逝去。
源頼朝が願いを叶えた「叶大明神」と尊称
文治二年(1186)、源氏再興の祈願が叶ったとして、頼朝によって「叶大明神」と尊称。
以後、「叶明神社」として崇敬を集めた。
文治元年(1185)3月24日の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡。
翌年、頼朝より「叶大明神」の尊称を賜る事になる。
こうした伝承から「叶神社」は「願いを叶える神社」として今も崇敬を集めている。
裏山の明神山には地主神である神明社
永正二年(1505)、当社の裏山(明神山)に「神明社(神明宮)」が創建。
古くは下田山と呼ばれた山で、当社が創建するより前から、伊勢信仰の「神明社」が鎮座していた。
当地の地主神であり、その事から「伊勢山」とも称された。
江戸時代になり、当社「叶明神社」が創建したため、「明神山」と称される事となる。
戦国時代には明神山に浦賀城が築かれる
16世紀後半、当社の裏山にあたる明神山に、北条氏康によって浦賀城が築城。
後北条氏の水軍の拠点の1つになっていた。
戦国時代の武将で、後北条氏・第三代目当主。
武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、後北条氏当主として相模国を支配した。
浦賀城は、浦賀水道から房総半島を一望でき、安房里見氏からの攻撃に備えて築城。
古くから地主神となっていた「神明社」も、浦賀城内に置かれたものと思われる。
天正五年(1577)、房相一和が締結。
これを機に浦賀城は廃城となったと見られている。
安房里見氏と後北条氏によって締結された同盟。
軍事衝突を何度も行った両者が同盟した事で、安房里見氏からの攻撃に備えていた浦賀城は役目を終えた。
江戸時代初期に叶神社を勧請・東浦賀の鎮守
正保元年(1644)、「叶神社(西叶神社)」を当地に勧請。
古くから地主神の「神明社」があった明神山に、「叶神社」が創建した事になる。
浦賀港の西側に古くから鎮座する「叶神社(西叶神社)」を「本宮」、東側に勧請された当社を「若宮」と称したと云う。
元禄五年(1692)、浦賀が東西に分村。
当社は東浦賀の鎮守として崇敬を集めた。
新編相模国風土記稿に記された当社
天保十二年(1841)に成立した『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。
(東浦賀)
叶明神社
總鎮守なり。明神山にあり(拝殿は山下にあり)。祭神は應神天皇本地佛彌陀を安ず。正保元年九月十九日西浦賀の本社を勧請し、牛頭天王・船玉明神を合祀す。例祭九月十五日(西浦賀と隔年なり)。
神明宮。地主神なり。
末社。稲荷。諏訪。金毘羅。秋葉。辨財天。護摩堂。不動を安ず(長一尺三寸智證作)。
別當永神寺
耀眞山階寶院と號す。當山修験(醍醐三寶院末)。鎌倉三浦武州久良岐三郡中修験二十院の觸頭を勤む(延享元年三月免許あり)。開山と俊明(永正元年三月十日寂す)。中興を傳仁(寛永五年二月六日寂す)。と云ふ。寛延元年より當社の別當となれりと云ふ。
東浦賀の「叶明神社」として記されているのが当社。
「総鎮守なり」と記してあり、東浦賀の総鎮守として崇敬を集めた事が窺える。
正保元年(1644)に西浦賀の「叶神社(西叶神社)」より勧請された旨も記してある。
例祭は東西「叶神社」が隔年で交互に行っていた。
「神明宮(神明社)」が地主神とあり、古くから神明宮があった地に、後から当社が創建された事も分かる。
注目すべきは「明神山にあり(拝殿は山下にあり)」の部分で、拝殿は現麓に置かれていたが、本殿は明神山にあった事が分かる。
現在も明神山には「奥の院(奥宮)」が置かれているが、これが本殿扱いになる。
別当寺は「永神寺」(現・廃寺)が担った。
耀真山永神寺と云い、古義真言宗醍醐寺派三宝院に属した。
現在の横浜の金沢区から三浦半島全域において、本山格の寺格をもった修験道の寺として当社と共に栄えるが、明治の神仏分離・廃仏毀釈の影響で廃寺。
また『新編相模国風土記稿』には明神山についての記載もある。
(東浦賀)
明神山
湊口にあり登二町。叶明神鎮座す。古は下田山と云ふ。こは北條氏分國の頃豆州下田の領主。此山に要害を構へしよりの唱なり。又一に伊勢山と呼は神明宮を(叶明神の地主神なり)祀りしより起れり。
かつて下田山と呼ばれた事、後北条氏の城が築かれた事が記してある。
地主神として「神明宮(神明社)」を祀っていた事から伊勢山と呼ばれ、当社(叶明神)が鎮座した事で「明神山」と称されるようになった。
浦賀港周辺を描いていて当社の姿も見る事ができる。
赤円で囲ったのが当社。
鳥居をみる事ができ、その先にある山が明神山にあたる。
橙円で囲ったのが「叶神社(西叶神社)」で「叶明神」の文字も見る事ができる。
勝海舟が咸臨丸で太平洋横断する前に断食修行を行う
嘉永六年(1853)、浦賀沖にペリー率いる黒船来航。
嘉永七年(1854)、再び浦賀沖にペリー率いる黒船来航。
同年、日米和平条約が締結。
安政五年(1858)、日米修好通商条約が締結。
安政六年(1859)、条約の批准書を交換するため、遣米使節団の派遣が決定。
正使の一行は米国軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていたが、同艦の護衛艦の名目で、幕府海軍の練習航海も兼ねて「咸臨丸」も派遣される事が決まった。
軍艦奉行:木村善毅摂津守
艦長:勝麟太郎(勝海舟)
通訳:中浜万次郎(ジョン万次郎)
木村摂津守従者:福沢諭吉
咸臨丸に乗船し渡米する事になった勝海舟は、当社と別当寺「永神寺」に参拝。
境内にある井戸水を汲んで潔斎・水垢離を行った。
勝海舟が水垢離を行ったと云う井戸は現在も当社境内に残る。
修行用の法衣に着替え、当社裏山の明神山に登り、当社「奥の院(奥宮)」の片隅で座禅を組み、断食修行を行ったと云う。
明治以降の当社の歩み・明神山の再整備
明治維新となり神仏分離。
明治六年(1873)、村社に列した。
同年、神饌幣帛料共進神社に指定。
明治三十六年(1903)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
浦賀や浦賀港も見る事ができ、地形も当時と殆ど変わっていない。
昭和四年(1929)、社殿が建立。
この社殿が整備されつつ現存。
戦後になり境内整備が進む。
昭和五十六年(1981)、創建八百年を記念して明神山の再整備が行われた。
本殿(奥の院/奥宮)の他、東照宮・神明社も再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
浦賀港の東側に鎮座・江戸時代から続く浦賀の渡船
最寄り駅の浦賀駅からは徒歩15分ほどの距離。
浦賀港の東側(東浦賀)に面して鎮座。
社頭には海が広がり、浦賀港の西側(西浦賀)を望む。
この東浦賀と西浦賀の間には、「浦賀の渡船」が運航。
こちらは西渡船場から東浦賀を見た姿。
御座船風の渡し船・愛宕丸によって運航されている。
浦賀奉行が置かれた享保十年(1725)頃から渡し船が出ていたとされる。
明治十一年(1878)に東西の浦賀町内会が共同で渡し船の運営を開始し、これが公営交通としての始まり。
その後、浦賀町が昭和十八年(1943)に横須賀市に編入されたため、横須賀市に移管。
現在は横須賀市から民間事業者へ委託経営による方式で運営されている。
東西にある渡船場から乗船可能。
こちらは西渡船場の様子。
運行料金は上記の通り。
愛宕丸1隻で操業し、運航ダイヤはないため、対岸にいた場合は自ら呼ぶ必要がある。
渡船場には呼び出しブザーが置かれているので、それを押すと数分でこちら岸にやってくる。
大人・高校生:200円
小中学生:100円
未就学児は大人1人につき1人までor1歳未満:無料
自転車:50円
(身障者手帳を持っている場合は、大人100円/小中学生50円/介護者1人まで100円)
※料金は船の中で支払い。
7時-18時(12時-13時は昼休み)
※欠航の日もあり。
西渡船場からは遠くに当社の姿も。
東浦賀の「東叶神社」(当社)と、西浦賀の「西叶神社」を結ぶ航路になっているので、2社を巡る際には利用してみるのもよいだろう。
石段途中には源頼朝により奉納された蘇鉄(ソテツ)
鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
その先に石段が続く。
社殿の裏手に見えるのが「明神山」。
石段の途中、左右に大きな蘇鉄(ソテツ)。
源頼朝が伊豆より移植して奉納したとの伝承がある。
頼朝が源氏再興の願いが叶ったとして「叶大明神」と尊称したのは、西浦賀の「叶神社(西叶神社)」であり、当時は当地にまだ当社が勧請されていなかったと見られるため、そちらからの移植と云う事になるのだろう。
実に立派で見事な蘇鉄である。
石段を上ると拝殿が見えてくる。
拝殿前に一対の狛犬。
阿吽ともに子持ちの狛犬。
どちらも口を閉じている吽形に見えるのが特徴的。
東浦賀の「東叶神社」の狛犬は、どちらも口を閉じているように見える吽形。
西浦賀の「西叶神社」の狛犬は、どちらも口を開けているように見える阿形。
そのため東西で対になっていると云う説もある。
昭和初期に再建された拝殿・本殿は明神山の山頂に
石段を上ると社殿。
昭和四年(1929)に再建された社殿。
戦前の古いものが改修されつつ現存。
社頭から望遠で見ると銅板葺権現造なのが分かる。
拝殿・幣殿で構成された社殿で、本殿の姿が見当たらない。
当社の本殿は拝殿の裏手にある明神山の山頂にある。
『新編相模国風土記稿』にも「明神山にあり(拝殿は山下にあり)」と記してあるように、古くからこうした形であったようだ。
縁結びの御利益がある明神山への2つの坂
社殿の左手から明神山への登山道が続く。
ここから200段を超える石段が続く。
最初の石段から中段にかけては「恵仁志坂(えにしざか)」。
恵仁志坂の最初の石段を上ってすぐ左手にはカフェの姿も。
「サロン・アカンサス」というカフェ。
とても静かな空間なのでこちらに立ち寄るのもオススメ。
その向かいに湊稲荷社。
古くから末社として祀られている一社。
そこから長い石段が続く。
しばらくすると少し開けた場所。
案内板や碑、奥には墓所などがある。
さらに石段を上ると、このあたりからは山の中で人気も消える。
山頂までの最後の石段。
この石段には「産霊坂(むすびざか)」と名付けられている。
ここを上りきれば山頂。
問題なく進めば5分ほどの道のりであるが気を付けて上りたい。
恵仁志坂(えにしざか):拝殿脇から中段までの坂
産霊坂(むすびざか):中段より頂上に向かう坂
「縁(えにし)」があって、「結ばれ」て願いが叶う。
恋愛に限らず、仕事・友人・その他諸々の良縁に御利益があると云う。
※縁結びお守りなども社務所で用意。
拝殿前までは人気スポットで参拝者も多いのだが、この明神山になると人気が消え独占できる。
縁結びの御利益もあるため、ぜひ明神山まで上りたい。
奥の院(本殿)・地主神の神明社・勝海舟が断食修行した場所
明神山の山頂には奥の院(奥宮)。
麓の拝殿に対して、こちらが当社の本殿にあたる。
古くからこうした形で祀られており、現在の社殿は昭和五十六年(1981)に創建八百年祭を記念して再建されたもの。
その左手には勝海舟断食跡の碑。
勝海舟がこの場所で断食修行をして、咸臨丸の艦長として渡米したことに因む。
昭和五十三年(1978)に建立。
その左手にあるのが神明社。
こちらが当社の地主神。
永正二年(1505)に、この明神山(古くは下田山と称した)に創建しており、当社よりも古くから当地に祀られていた地主神にあたる。
その右手には東照宮。
元禄二年(1689)に勧請され、御祭神は東照宮こと徳川家康公。
奥の院・神明社・東照宮と共に昭和五十六年(1981)に再整備された一画。
明神山の山頂は浦賀城址・房総半島を一望
奥の院の右手は少し開けた場所。
その先には招魂塔。(浦賀ドック/住友重機械工業の殉職者慰霊塔)
この一帯は、戦国時代後期に浦賀城が築城された場所。
浦賀水道から房総半島を一望でき、安房里見氏からの攻撃に備えて築城。
遠くに見えるのが房総半島。
かつてペリー率いる黒船来航の際は、眼下の左付近に停泊したと云う。
パワースポットとされる身代り弁天・勝海舟が使用した井戸
明神山を下りて再び拝殿、そして石段を下りる。
拝殿前からの見晴らしは西浦賀を望む事ができよいもの。
参道の右手に(石段を下りた場合は左手)に、弁財天。
通称「身代り弁天」と呼ばれる厳島神社。
岩窟内に祀られていて、一部ではパワースポットとしても知られる。
天災・人災による病気や事故、その他危機の際に、身代わりになって下さると伝わり、信仰を集めている。
この一画はかつて旧別当寺「永神寺」(廃寺)の境内だった一画で、当時の名残を一部に残す。
神仏習合の時代には別当寺「永神寺」と共に崇敬を集めた当社。
神仏分離後に廃寺となった「永神寺」であったが、御本尊とされていた不動尊(お不動様)の像は、現在も大切に安置されていて、「身代り弁天」の祠内に鎮座。
身代り弁天にお参りすると共にお不動様へお参りする事となる。
こうした由来もありパワースポットとしても知られているのだろう。
その右手奥に井戸。
勝海舟はこの井戸水を汲んで潔斎・水垢離を行い、明神山に登り断食修行したと伝わる。
その手前にある流水は井戸の水を流したもので、いわゆる「銭洗い」ができる場所になっている。
洗った硬貨を納めるお守り袋も社務所にて頒布。
御朱印・咸臨丸太平洋横断をデザインした御朱印帳
横須賀東浦賀の墨書き。
叶神社と社務所印とシンプルで力強い構成。
オリジナルの御朱印帳も用意。
咸臨丸太平洋横断の図をデザインした御朱印帳で、勝海舟縁の当社らしいデザイン。
その他、勝海舟に因む「勝守り」など授与品も豊富。
詳しくは下記公式サイトにて。
西叶神社で勾玉を授かり東叶神社の御守袋に入れる勾玉御守
西浦賀「西叶神社」と、東浦賀「東叶神社」は、どちらも東西の浦賀の鎮守として崇敬を集める。
歴史的には「西叶神社」が創建した後、「東叶神社」が勧請。
そのため古くは西を「本宮」、東を「若宮」と称したとも伝わる。
古くは同一の神社という扱いだったようで、江戸時代には例祭も東西「叶神社」が隔年で交互に行っていた。
元々は源氏の氏神・八幡神を祀っていたが、源頼朝により「叶大明神」と尊称。
文治元年(1185)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡。
翌年、頼朝より「叶大明神」の尊称を賜る。
こうした伝承から「叶神社」は「願いを叶える神社」として今も崇敬を集めている。
現在では、東西の両社を結ぶ習慣が人気を博す。
「西叶神社」で勾玉を授かり、「東叶神社」で御守袋をお受けする。(画像は「西叶神社」のもの)
両社を繋ぐ事で、良縁などの御利益を頂け「願いが叶う」と信仰を集めている。
所感
浦賀港の東側に鎮座する当社。
東浦賀の鎮守として崇敬を集め、現在もパワースポット、良縁祈願、勝海舟縁の地として知られる。
源氏再興の願いを叶えた「叶大明神」の伝承から、「願いを叶える神社」としての信仰が篤い。
東西の「叶神社」があり、基本的に両社を共に参拝する方が殆どであろう。
東西を結ぶ「浦賀の渡船」、そして「勾玉御守」など両社を参拝したくなる施策も素晴らしい。
東浦賀の歴史を伝えるだけでなく、今も残る明神山など見どころも多数。
静けさと神秘的な空間を感じる事ができる明神山にもぜひ登りたい。
浦賀を代表する良い神社である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 奥が明神山 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 石段・蘇鉄 ]
[ 社殿(拝殿) ]
[ 拝殿前から後方を望む ]
[ 狛犬 ]
[ 神輿庫 ]
[ 恵仁志坂(明神山への参道) ]
[ 湊稲荷神社 ]
[ 恵仁志坂 ]
[ 案内板・石碑 ]
[ 産霊坂 ]
[ 奥の院(本殿)/明神山山頂 ]
[ 勝海舟断食之跡碑 ]
[ 神明社 ]
[ 東照宮 ]
[ 招魂碑 ]
[ 案内板 ]
[ 明神山から浦賀水道を望む ]
[ 厳島神社(身代り弁天社) ]
[ 不動尊石像 ]
[ 井戸 ]
[ 社務所 ]
[ 御籤掛 ]
[ 御神木 ]
[ 案内板 ]
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