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概要
旧中延村鎮守・源氏ゆかりの八幡さま
東京都品川区旗の台に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、旧中延村(現・旗の台や中延一帯)の鎮守。
源氏縁の神社として知られ、源頼信が源氏の白旗をなびかせ戦勝祈願した事が社号の「旗岡」や地名の「旗の台」の由来と伝わる。
江戸時代には「中延八幡宮」とも称され崇敬を集めた。
現在は拝殿前の桜が名所として知られ、境内にある絵馬殿は国の有形文化財に指定されている。
神社情報
旗岡八幡神社(はたがおかはちまんじんじゃ)
御祭神:誉田別命・比売大神・息長帯比売命
社格等:郷社
例大祭:9月第2土・日曜
所在地:東京都品川区旗の台3-6-12
最寄駅:荏原町駅
公式サイト:https://hatagaokahachiman-jinja.jp/
御由緒
当神社は、長元元年 上総、下総で起った平忠常の乱を治めるべく、同三年(1030年)に朝命を奉じた甲斐守源頼信公が同地へ赴く際、一族郎党と共にこの地に宿営した時霊威を感得して源氏の氏神たる八幡大神を奉斎し、戦勝を祈願したのがその発祥とされている。高台に陣を敷き、源氏の白旗を靡かせ大いに武威を誇ったことから、この地が「旗岡」、あるいは「旗の台」と呼ばれたのである。
時は下り鎌倉時代中期、源氏の庶流荏原左衛門尉義宗公(1231年〜1285年)当地の領主となるや八幡大神を尊崇すること篤く、先ずをもって御社殿の造営を志し、源家重大の守護神としてのみならず、常に地域の人々に鎮守としての御神徳の発揚に努力されたのである。当時は神仏混淆の時代であった為、義宗公の二子徳次郎が日蓮宗に帰依し、朗慶上人と称して法蓮寺(当神社隣)を開山し、当神社の別当として長く守護に当ったことが古文書に記されている。今日の当神社の基礎は正にこの時期に築かれたと申しても過言ではない。
江戸時代に入っても御祭神の関係から武家の崇敬ことのほか篤く、毎年二月十五日に各地から集った武士達により執り行われた弓の競射は特に有名であった。試合が終って一同甘酒に舌鼓をうったその故事に習い、甘酒祭りの伝統は今日迄続いている。また、五代将軍綱吉公の守刀が現存し、文化十一年(1814)には御社殿の大改築が大奥の女中達の寄進によりなされたことは、徳川家の信仰が篤かったことを物語っている。その格天井に描かれた百四十枚余の絵は、幕府の絵師狩野探玄が娘の病気平癒を祈願したところ忽ち全快、その感謝のしるしとして奉納されたものであったが、昭和二十五年五月の空襲で御本殿とともに灰燼と帰してしまった。
現在の御社殿は氏子崇敬者の熱烈なる奉賛活動のもと昭和三十九年に、また社務所は同六十三年に造営されたものである。このように時移り時代が変わっても、当神社は常に人々に護られ、また心のよりどころとして今日まで敬われてきたのである。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
源頼信によって創建・旗の台の地名由来
社伝によると長元三年(1030)に創建と伝わる。
源頼信が八幡神を祀り創建したと云う。
平安時代中期の武将で、河内源氏の祖。
藤原道長に仕えた「道長四天王」と称された人物の1人。
武勇に優れ、長元四年(1031)には平忠常の乱を平定。
その後、坂東の武士と主従関係を結ぶようになり、「武家の棟梁」とも称された河内源氏による東国支配の基礎を作っている。
頼信は平忠常の乱を平定するために、下総国に行く途中で当地に宿営。
霊威を感得したため、源氏の氏神である八幡神を祀り戦勝祈願をしたと伝わる。
長元元年(1028年)に房総三ヶ国(上総国・下総国・安房国)で起きた反乱。
平将門の乱以来の大規模な反乱で、平将門の叔父・平良文の子孫である平忠常による反乱。
朝廷は討伐軍を派遣するが3年以上鎮圧できず、源頼信が起用された事で忠常は降伏した。
頼信は当地で戦勝祈願する際に当地の高台に陣を敷き、源氏の白旗をなびかせて武威を誇った事から、この地が「旗岡」「旗の台」と呼ばれる由来となった。
※上述の浮世絵にも源氏の白旗が描かれている。
河内源氏の祖とされる源頼信の伝承が残る当社。
関東圏の八幡神社には、源頼義・義家(八幡太郎)父子による創建の神社は多いが、その祖である頼信の伝承が残るのは比較的珍しく、源氏ゆかりの神社として武家から篤い崇敬を集めた。
領主荏原氏による社殿造営と別当寺
鎌倉時代中期、当地の領主であった荏原義宗が社殿を造営。
鎌倉時代の地頭。
源義家(八幡太郎)の末裔とも伝わる領主。
中延に居館を構え、氏神である八幡神への篤い信仰があったとされる。
義宗は日蓮宗にも篤く帰依しており、息子の徳次郎を日蓮の高弟・日朗の弟子とさせる。
徳次郎は後に朗慶上人と称して当社境内の隣に「法蓮寺」を開山。
これが明治の神仏分離まで当社の別当寺となり、現在も当社に隣接している。
領主・荏原氏からの崇敬だけでなく、中延村と呼ばれた当地の鎮守として崇敬を集めた。
地名由来は不詳の部分も多いが、荏原の中部地域を示す意味と思われる。
江戸時代の頃は「なかのべ」と呼ばれる事も多かった。
武家や大奥からの崇敬・弓の競射と甘酒
源氏ゆかりの神社と知られた当社は、江戸時代に入ると武家からの崇敬を集める。
五代将軍・徳川綱吉は、守刀を当社に奉納。
この他、徳川将軍家や他の大名家から多くの寄進を受けている。
武家からの崇敬を集めた当社は特に弓術者の信仰は篤かったと云う。
毎年2月15日には各地から集まった武士達により弓の競射が行われた。
試合後は甘酒が振舞われた事を由来として現在でも2月になると甘酒が振る舞われる。
文化十一年 (1814)、大奥の女中達の寄進により社殿の大改築が行われている。
新編武蔵風土記稿より見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(中延村)
八幡社
除地二千三百六十八坪。村の巽の方にあり。社伝に云。神体は長元三年源頼信感得の像にてそれより頼義家に傳へ、其庶流荏原義宗に傳はりしに、文永年中霊夢の告を得て日蓮上人を請して当社を勧請すと。本社三間に二間、拝殿五間に三間、拝殿と表門との中間に鳥居立り。
妙見堂。境内にあり。二間に九尺。
毘沙門堂。三間に二間。瘡守稲荷を配祀す。
中延村ほか一帯の鎮守であり、社地も中々に広かった事が窺える。
社伝に伝わる、源頼信による逸話と、荏原義宗と日蓮宗による逸話が記されている。
妙見堂、毘沙門堂とあり、別当寺「法蓮寺」と共に神仏習合として、当地の信仰を集めていた事が分かる。
江戸名所図会に描かれた当社・中延八幡宮
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「中延八幡宮」として描かれているのが当社。
隣には別当寺「法蓮寺」も描かれている。
中延村にあった事から、当時は「中延八幡宮」と呼ばれる事が多かった。
描かれている旧社殿は大奥の寄進によって改築されたものであり、幕府の絵師である狩野探玄によって奉納された140枚もの天井絵があったと伝わっている。(東京大空襲で焼失)
境内の配置は現在に近く『新編武蔵風土記稿』にも記載されている妙見堂・毘沙門堂(稲荷社も担っていた)も見る事ができ、さらに鳥居横にある狛犬は現存している狛犬。
明治以降の歩み・戦災と戦後の再建
明治になり神仏分離。
当社は中延村の鎮守として村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、中延村・戸越村・小山村・上蛇窪村・下蛇窪村と谷山村飛地が合併し、平塚村(後の荏原町)が誕生。
当地は平塚村中延となり、当社はその鎮守として崇敬を集めた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で現在の鎮座地と同じ場所に鎮座。
平塚村の村名がまだ残り中延の地名も見ることができる。
昭和三年(1928)、郷社に昇格。
社号碑にも「郷社八幡神社」の名が残る。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿などが焼失。
建造物としては絵馬殿のみが戦火を免れている。
昭和三十九年(1964)、現在の社殿が再建。
昭和六十三年(1988)、現在の社務所が造営。
平成二十六年(2014)、「平成の改修事業」として、社殿の耐震補強、屋根銅板の葺替え、外壁の塗替え等の改修工事が行われた。
平成二十九年(2017)、宮神輿が新たに完成。
7月16日にお披露目渡御が行われた。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
荏原町駅近くに鎮座・江戸時代の狛犬や石灯籠
荏原町駅のやや北に鎮座し駅からもほど近い。
表参道は東に面していて、駅から緩い上り坂の途中にある。
社号碑には「郷社八幡神社」の文字が刻まれ、当社が当地周辺の総鎮守だった事が窺える。
石段を上った参道両脇に一対の狛犬。
ずんぐりとした体躯の狛犬。
文化五年(1808)奉納と古いもの。
『江戸名所図会』に描かれていた狛犬であり状態も中々に良い。
雰囲気の良い江戸尾立ち。
その先には石灯籠。
こちらは狛犬以上に古いもの。
天明七年(1787)奉納の銘が残る。
朱色の大鳥居・桜が美しい境内
石段を上るとその先に朱色の大鳥居。
昭和四十九年(1974)に建立。
存在感のある立派な大鳥居。
大祓の時期などは鳥居に茅の輪が設置される。
大鳥居を潜った先、左手に手水舎。
木の塀で囲われているが手を伸ばして使用する事ができる。
龍の吐水口より水が出る形。
参道途中にも一対の狛犬。
彫りの深い凹凸のある体躯。
台座などに奉納年が記されていないが昭和のものと思われる。
参道途中左手、拝殿の前に垂れているのは桜の木。
撮影時は葉桜ではあったが、桜の季節になるととても美しい景観となる。
当社の境内は桜の名所としても知られる。
戦後に再建された朱色の社殿・八幡造の本殿
参道の正面に社殿。
戦後の昭和三十九年(1964)に再建されたもの。
朱色が鮮やかな鉄筋コンクリート造社殿。
平成二十六年(2014)に「平成の改修事業」として、社殿の耐震補強、屋根銅板の葺替え、外壁の塗替え等の改修工事が行われた。
朱色が鮮やかな鉄筋コンクリート造。
本殿は八幡造の社殿となっている。
八幡信仰の総本社「宇佐神宮」に代表される神社建築。
2棟の建物を前後に連結させて1つの社殿としたもの。
国の登録有形文化財に指定されている絵馬殿
参道左手には昭和三年(1928)に造営された絵馬殿が現存。
以前は中に立ち入り誰でも拝観する事ができたが、現在は保護のため立入禁止に。
旧社殿などは東京大空襲で灰塵と帰してしまったがこの絵馬殿は焼失を免れた。
高床式の造りとなっていて存在感のある絵馬殿。
現在は保護のため内部に入る事はできなくなってしまったが、外からその様子は窺える。
多くの絵馬や扁額、奉納額などが置かれており、とても素晴らしい。
嘉永二年(1849)に奉納された小笠原流の門弟による額。
他にも貴重な額や絵馬が掲げられている。
神馬を描いた絵馬が多数。
中でも「猿駒止の絵馬」は元治元年(1864)中延村の野村吉治郎翁により奉納されたもので、品川区の有形文化財に指定されている。
児童公園も隣接・宮神輿完成披露渡御
絵馬殿の左手には当社境内に隣接して児童公園が設置。
子どもたちや老人介護施設のご老人たちが憩いの場としている。
他にも神楽殿。
平成二十九年(2017)には新しい宮神輿が完成。
合わせて造営された神輿庫に宮神輿の姿があり、2017年7月16日にお披露目渡御が行われた。
地域からの篤い崇敬を感じる。
旗岡八幡神社の御朱印・コロナ退散の印
御朱印は「旗岡八幡神社」の朱印。
奉拝、社号、参拝日とこれぞスタンダードな御朱印。
2022年2月に頂いた際は「祈 虎慮那(コロナ)退散」の印入り。
2023年11月に頂いた御朱印。
通常御朱印と花御朱印。(花御朱印は東急線花御朱印巡り専用御朱印帳が必須)
所感
中延村の鎮守であり当地一帯の鎮守である当社。
「旗岡」「旗の台」の地名由来ともなり、地域から崇敬を集めた事が窺える。
源氏ゆかりの地であり、その後は領主からの崇敬、江戸時代には徳川将軍家や武士からの崇敬を大いに集めた歴史があり、当地の歴史を伝える神社である。
境内に現存する絵馬殿には歴史を凝縮した奉納物が掲げられていて素晴らしい。
筆者は、旗の台・荏原町・中延といった商店街エリアが好きで良く寄る事があり、その際は必ず参拝しているのだが、児童公園や境内で子どもたちが遊ぶ姿を見かける事ができるし、ご年輩の氏子さんが差し入れをそっと社務所に置いていく姿を見る事ができ、地域の鎮守、憩いの場として親しまれているのが伝わる良社。
隠れた桜の名所としても知られる神社であり、桜の時期にも参拝をオススメしたい。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
参拝情報
参拝日:2023/11/14(御朱印拝受)
参拝日:2022/02/16(御朱印拝受)
参拝日:2020/11/11(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/06/26(御朱印拝受)
参拝日:2015/03/25(御朱印拝受)
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