笠䅣稲荷神社 / 神奈川県横浜市

横浜市

神社情報

笠䅣稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之魂命
相殿神:明治天皇・日本武尊
社格等:村社
例大祭:8月9日に近い土・日曜
所在地:神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2ー9ー1
最寄駅:神奈川新町駅・東神奈川駅
公式サイト:─

御由緒

天慶年間(938-947)に、淳和天皇勅願所浦島院勧福寿寺の僧侶が隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神、附近一帯の産土神として崇敬を集めていました。文永十一年の蒙古来寇の折りには、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、国家の安泰を祈願したと伝えられています。
戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄二年九月十九日に再興なって大祭を行ない、元禄二年九月十九日には稲荷山の中腹より山麓に遷座する運びとなりました。これより神威益々加わり、社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちたことから、「笠脱稲荷大明神」と称されるようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が「笠脱」の一字を「䅣」と改め、「笠䅣稲荷大明神」と改称しました。
明治二年には旧社地が京浜間の鉄道敷設用地に接収されたため現在地に移り、更に霊験あらたかとなって、同十七年九月二十五日「村社」に列し、大正十年九月十七日「神饌幣帛供進社」に指定されました。
大正十二年の関東大震災により社殿が半壊に及び、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲には、社殿・神宝類の悉くを焼失する憂目を見たものの、終戦後いち早く仮社殿を再建しました。 昭和五十四年十二月一日に新しい形式の社殿が完成すると共に、厳かに遷座祭が斎行され、平成元年の「御社殿造営十周年記念大祭」には、社前に玉垣が完成するに至りました。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/09/11

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

様々な伝承が残る笠のぎ稲荷神社

神奈川県横浜市神奈川区東神奈川に鎮座する神社。
旧社格は村社で、神奈川宿新町(神奈川新町)一帯の鎮守。
創建当時は稲荷山(現・浦島丘周辺)と呼ばれた山の山腹に鎮座。
江戸中期に稲荷山の山麓に遷座し「社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちる」と云う伝承によって「笠脱稲荷」と称され、後に「笠䅣(かさのぎ)稲荷」に改称。
明治に入って社地が鉄道敷地用地に接収されたため現在地に遷座したため、現在も社前には京急が走る形となっている。

平安時代に勧福寿寺の僧侶によって伏見稲荷から勧請

社伝によると、天慶年間(938年-947年)に創建と伝わる。

淳和天皇勅願所「浦島院勧福寿寺」(現・廃寺)の僧侶が、隣域の山腹に社殿を建立。
山城国に鎮座する稲荷信仰の総本社「伏見稲荷大社」(現・京都府京都市)より御分霊を勧請したと云う。

伏見稲荷大社
1300年にわたって、人々の信仰を集め続ける「お稲荷さん」の総本宮 伏見稲荷大社の公式ホームページ

当社が創建した山腹は、当社が鎮座する事から「稲荷山」と称されるようになる。

稲荷山は、現在の横浜市神奈川区浦島丘周辺と見られている。

「勧福寿寺」の守護神、更には附近一帯の産土神として崇敬を集めた。

浦島寺と呼ばれ浦島太郎伝説があった勧福寿寺

当社についてではないが、当社の創建に深く関わったと伝わる「浦島院勧福寿寺」(現・廃寺)について少し触れたい。

浦島院勧福寿寺
通称「浦島寺」と呼ばれ崇敬を集めた寺院。
浦島太郎伝説が残る寺院で、江戸時代以前の史料に数多く名を見る事ができ、神奈川周辺の名所の1つでもあった。

「浦島院勧福寿寺」に伝わっていた浦島太郎伝説は以下のようなもの。

雄略天皇御代(457年-479年)、相模国三浦出身の浦島太夫は、一家で丹後国(現・京都北部)に移住し、太夫には太郎重長という息子がいた。
これが浦島太郎であり、全国に伝わる浦島太郎伝説へと続いていく。
竜宮城で歓待を受けた太郎だが、やがて父母のことが恋しくなり、乙姫から玉手箱と観音像を授けられ、父母のいる丹後国へと戻る。
しかし、父母も知人も見当たらず、ゆかりの跡すらない。
困った太郎は、観音像に祈ると、夢の中で「故郷の相模国三浦へ」とお告げを受け、観音像を背負い玉手箱を抱いて相模国へと向かう。
三浦に戻った太郎は、太夫の9代後の子孫に会い、太郎の父母は300年前に武蔵国白幡に葬られているということを教えられ、300年も竜宮城にいたことを知る。
天長二年(825)、白幡の峰までたどり着くと、一本の松に不思議な明かりが灯り、その下に行ってみると両親の墓があり、この明かりは乙姫が太郎に墓の場所を知らせるために灯したものであった。
太郎は、墓のそばに庵を建て菩薩像を安置して父母の霊を弔い、姿を消した。
後に、乙姫が明かりを灯した松は「龍燈の松」と呼ばれるようになり、太郎の庵は立派な寺院として建て直され「観福寿寺」となった。
人々は太郎を浦島大明神、乙姫を亀化龍女神として像を造り、観音像とともに信仰した。

浦島太郎が建てた庵は、空海の弟子・実恵によって「観福寿寺」として開基。
荒廃の後、応長・正和年間(1311年-1317年)に寂恵によって再興。
太郎が竜宮城から持ち帰った観音像は「浦島観音」、「観福寿寺」は「浦島寺」と呼ばれて信仰を集めた。

現在も神奈川区には浦島丘など「浦島」といった地名が多く残っているのは、こうした浦島伝説によるもの。

文政七年(1824)に神奈川宿の住人・煙管亭喜荘によって記された『金川砂子』には当時の様子が描かれている。

(金川砂子)

「観福寺」として描かれている。
竜宮城から持ち帰ったという観音像が安置された「観音堂」、その左手には「浦島墓」も描かれていて、山頂には乙姫が明かりを灯した松「龍燈松」も記してある。
手前の通りが東海道であった。

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』にも当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「観福寿寺 浦島寺といふ」として描かれている。
同様に「観音堂」「浦島墓」「龍燈松」も記してあり、浦島太郎ゆかりの寺として東海道沿いの名所の1つであり、信仰を集めた。

慶応四年/明治元年(1868)、「観福寿寺」は火災にあって堂宇を失うが、観音像と二神像は難を逃れ「慶運寺」(現・神奈川区神奈川本町)に運ばれた後、同寺に観音堂が建てられてそこに安置し、以後は「慶運寺」が浦島寺と称された。
「観福寿寺」は再建されることなく廃寺となり、大正十五年(1926)に跡地に「蓮法寺」(現・神奈川区七島町)が移転してきたため、敷地内や裏の浦島山に残されていた石塔や石碑などは、「蓮法寺」が管理している。
宗教法人慶運寺|浄土宗 吉祥山 茅草院 慶運寺
慶運寺は、室町時代。文安四(一四四七)年に定蓮社音誉聖観(芝増上寺三世)によって開創されました。横浜開港当時、慶運寺はフランス領事館として使われ、通称「浦島寺」として一般に知られます。

当社は「観福寿寺」の僧により、「勧福寿寺」の守護神として隣域の中腹に創建したとあり、稲荷山に鎮座した当社も同様に崇敬を集めたのは想像に難くない。

北条時宗が刀と鈴を奉納・戦国時代の再興

文永十一年(1274)、元寇(文永の役)が発生。
当時の鎌倉幕府執権・北条時宗は、当社に菊一の銘刀と神鈴を奉納し、国家の安泰を祈願。

北条時宗(ほうじょうときむね)
鎌倉幕府第八代執権。
地球上の陸地の約25%を統治し世界帝国であったモンゴル帝国の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた当時の執権として知られる。
また時宗は禅宗に帰依するなど信心深い人物とも云われる。
当社には鎌倉時代末期の板碑(横浜市有形文化財)が現存しており、鎌倉時代以前より信仰を集めていた事が窺える。

その後も信仰を集めたと云うが、戦国時代に兵火に罹災し荒廃。

永禄二年(1559)、社殿が再建し、大祭が斎行された。

稲荷山の中腹から山麓に遷座・笠脱稲荷の伝承

元禄二年(1689)、稲荷山の中腹より山麓に遷座。
これより神威益々加わり「笠脱稲荷」の伝承が伝わるようになる。

社前を通行する者が笠がを被ったままでいると、自然と脱げて地に落ちた。

こうした伝承から「笠脱稲荷大明神」と称されるようになり、後に当時の別当寺「能満寺」の阿闍梨が笠脱の一字を訂正。
禾に皇を添えて「笠䅣(かさのぎ)稲荷大明神」と改称。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(神奈川宿・神奈川町 耕地)
笠脱稲荷社
新町の裏、稲荷町にあり。九尺四方巽向なり。前に木の鳥居とたつ。相傳ふ昔土人笠を戴きて社前を過るときはおのづからぬけて地に落ると云。故にこの名ありと。をぼつかなき説なり。

神奈川宿には様々な町があり、その中の神奈川町の耕地として紹介。
新町(神奈川新町)の裏手で、稲荷町と呼ばれた一帯に鎮座。
「笠脱稲荷社」として記してあり、当時は「笠脱」と「笠䅣」が併用されていたようで、読み方はどちらも「かさのぎ」となっていたようだ。

笠が自然に脱げて地に落ちたという伝承を紹介しているが「をぼつかなき説なり」としている。

瘡病(性病)に霊験・土団子を供える特殊信仰

「笠脱(䅣)稲荷大明神」として崇敬を集めた当社は、江戸時代の頃には、いつしか瘡病に霊験のある神社として信仰を集めるようになる。

「笠が脱げる=瘡(かさ)が無くなる」として、瘡病への祈りの場として、女性から特に篤い信仰を集めた。
瘡病(くさつつみ)
現在で云う梅毒で、性病全般を指す事もある。

昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』では、当社に伝わる古くからの特殊信仰として以下の事が記してある。

笠䅣稲荷神社はかやうに凄じい霊験も瘡の音が瘡病のかさと同じ處から何時の間にか、かさの祈りをする處とされ、今では女中衆の奇怪な祈念の対象となつて居るが、先づ祈りをする時には自分の年だけの数の土團子を作つてこれを供へ、若し平癒の時には土を本物の米の團子ととりかへて献ずる事になつておるので、土と米との團子の群がいつも山をなしてゐる。そんなわけで姐さん達の参詣は絶えず中々繁昌を極めてゐる。

笠と瘡が同じ読みである事から、瘡病に霊験あるとされ、女性からの信仰を集めたとある。
そして「奇怪な祈念」とあるように、不思議な特殊信仰が残っていた。

自分の年だけの数の土団子を作って供える。
平癒した時は本物の団子と取り替えて奉納する。

土と米の団子がいつも山をなして、女性の参詣が絶えなかったと云う。
現在はこの特殊信仰を殆ど見る事はできないが、江戸時代から戦前(戦後暫くも)にかけて見られた当社独自の風習であった。

金川砂子に描かれた当社

文政七年(1824)に神奈川宿の住人・煙管亭喜荘によって記された『金川砂子』には当社の様子が描かれている。

(金川砂子)

中央に「稲荷社」として記してあるのが当社。
右手には「観福寺(観福寿寺)」として、通称「浦島寺」が描いてあり、これが当社の創建に関わった寺院で、当社の左下にある「能満寺」が当時の当社の別当寺であった。
当時の地理関係がよく分かる図となっている。

(金川砂子)

東海道の新町周辺の様子をもう少し寄って描いたのが上図で、「稲荷社」が当社。
東海道沿いではなく、東海道から奥に外れた先に鎮座していた事が窺える。

(金川砂子)

当社と別当寺について記しており、「笠脱(䅣)稲荷大明神」として紹介。
やはり『新編武蔵風土記稿』と同様に「笠脱」と「笠䅣」が併用されていた事が分かる。
「新町の裏の畑中」と記してあるように、東海道から外れた裏手に鎮座していた。

明治になり現在地へ遷座・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治二年(1869)、社地が鉄道敷設用地として接収されたため、現在地へ遷座。

現在も社前を京急本線が走る。

明治十七年(1884)、村社に列する。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
青円で囲った箇所には「浦島墓」とあり、かつての「観福寿寺(浦島寺)」。
創建時の当社はこの南西に鎮座していたと見ら、その後、山麓に遷座した。
また当社を挟むように鉄道が走っており、こうした影響を受けて現在地に遷座された。

大正十(1921)、神饌幣帛料供進社に指定。
大正十二年(1923)、関東大震災により社殿が半壊。

(神奈川県神社写真帖)

上画像真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
「村社 笠䅣稲荷神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社頭の様子が分かる。

由緒概要として、立町、稲荷町、浦島丘、新町の4ヶ町の氏神様と記載。
現在の神奈川新町周辺にあたる。

昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
甚大な被害を受け、社殿・神宝類の全てが焼失。

終戦後すぐに仮社殿にて再建。

昭和五十四年(1979)、現在の社殿が完成。
平成元年(1989)、御社殿造営十周年記念大祭で玉垣が完成。
平成十七年(2005)、宮神輿が新調。

横浜大空襲で神輿も焼失したため、それまでは借り物の神輿で渡御が行われていたが、氏子崇敬者の協力により新調された。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

社前に京急本線が通る立地

最寄駅の神奈川新町の駅から京急本線沿いを西へ向かうと当社が鎮座。
社号碑には「笠䅣稲荷神社」とあり、石段の先に鳥居。
周囲は平成元年(1989)の御社殿造営十周年記念大祭で竣工した玉垣で囲われている。

鳥居は昭和十八年(1943)に奉納されたもの。
横浜大空襲で灰燼に帰した当社でも、石造りのものは幾つか残る。

当社の社前には京急本線が通っているのが特徴。
旧社地は明治二年(1869)に鉄道敷地用地として接収。
現在地に遷座した歴史を今も伝える。

鳥居を潜り右手に手水舎。
昭和四十年(1965)に立派な手水石が奉納され、現在も整備されている。

戦後に再建された朱色の社殿

参道を進み僅かな石段の先に社殿。
旧社殿は横浜大空襲によって焼失。
仮殿で再建されたが、昭和五十四年(1979)に現在の社殿が竣工。
稲荷信仰らしい朱色が特徴的な社殿。
鉄筋コンクリート造で再建された。

拝殿前には一対の神狐像。
現代的な意匠の凛々しい狐様。
巻物と宝珠を咥えている。

文化財である鎌倉時代末期の板碑・境内社

鳥居を潜った左手に、貴重な板碑が残る。
鎌倉時代末期のものと推定されている板碑。
横浜市有形文化財に指定されており、鎌倉時代の慰霊碑と見られている。

上部には阿弥陀種子・梵字(キリーク)を刻む。
緑泥片岩の板碑で、現在も両脇を支えられようにして現存。
下部には中央に梵字で「南無阿弥陀仏」の文字。

当社の板碑は史学者の間では古くから知られており、戦前の史料にも紹介。

(横浜の史蹟と名勝/横浜郷土小史)

左は昭和三年(1928)に発行された『横浜の史蹟と名勝』で、右は昭和十六年(1941)に発行された『横浜郷土小史』となっていて、どちらも戦前の史料。
当社の紹介と共に、板碑を紹介しており、横浜で最古の板碑として紹介されている。
更に「史学者で此板碑を知らぬ者がないほど有名である。」とあり、戦前から歴史的に貴重で有名な板碑であった。

現在は上部と下部が両端から支えられる形で重ねて置かれているが、当時は折れたまま分けて置かれていた事が窺える。

境内社は上述の板碑を挟むように両脇に鎮座。
古峯神社と祖霊社。

夫婦和合の大銀杏・子宝安産の大楠・戦前の記憶

境内には2本の御神木。
拝殿手前にあるのが大銀杏。
夫婦和合の御神木として信仰されている。

境内左手にあるのが大楠。
こちらは子宝安産の木として崇敬を集める。

手水舎の裏手には日露戦役記念碑。
明治三十九年(1906)に奨兵會よって建立され、台石に出征軍士34名の氏名。
上部には下賜された砲弾が残る。

裏参道にも古い社号碑や神狐像。
碑には「笠䅣稲荷神社裏参道」の文字。
やや苔むした色合いの神狐像は昭和二十年(1945)元日に奉納されたもの。
終戦間際の奉納で「為祈念 国威宣揚 皇軍武運長久」とあり、戦時中を偲ぶ。

御朱印には禮を修む

御朱印は社務所にて。
不在の場合もあるようだが、いらっしゃる場合は丁寧に対応して頂ける。

御朱印には「禮を修む」とあり、いかなる場合にも神社護持と祭祀の厳修に対応できるよう気持ちが伝わる。
更に金文字で開運招福のスタンプ。

所感

神奈川新町周辺の鎮守として崇敬を集める当社。
平安時代創建の古社であり、古くは「浦島寺」と呼ばれた「勧福寿寺」と共に崇敬を集めた。
稲荷山麓への遷座で、「笠脱」の伝承が伝わり、これが現在の「笠䅣」に繋がる。
「笠が脱げる=瘡(かさ)が無くなる」として、瘡病(性病)への祈りの場として、女性から特に篤い信仰を集め、当社のみに伝わる土団子を奉納する特殊信仰が伝わっていたのも興味深い。
横浜大空襲によって社殿や社宝などは焼失してしまったものの、戦前・戦時中を偲ぶ石造りの建造物などは今も多く残っており、当地の歴史を伝えている。
中でも注目すべきは鎌倉時代末期の板碑で、当時の慰霊碑と思われるが、今も境内に置かれたまま現存しているのが素晴らしい。
様々な伝承が残る良きお稲荷様である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 玉垣 ]

[ 京急本線ガード ]



[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]

[ 神狐像 ]


[ 御籤掛・絵馬掛 ]

[ 境内社 ]

[ 板碑 ]





[ 古峯神社 ]

[ 祖霊社 ]

[ 神輿庫 ]

[ 神楽殿 ]

[ 子宝安産・大楠 ]



[ 夫婦和合・大銀杏 ]



[ 日露戦役記念碑 ]


[ 社務所 ]

[ 裏参道 ]



[ 神狐像 ]


[ 案内板 ]

Google Maps

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