神社情報
八條八幡神社(はちじょうはちまんじんじゃ)
御祭神:誉田別命(応神天皇)・大己貴命・須佐之男命
社格等:村社
例大祭:10月15日
所在地:埼玉県八潮市八條4069
最寄駅:越谷レイクタウン駅(距離あり)
公式サイト:https://itp.ne.jp/info/111776054200000899/
御由緒
八條八幡神社は、宝徳元年(1449)の勧請といわれ、八幡・久伊豆・氷川の三神の合社である。社殿は、明治二十四年の大型の二間社流れ造りで、柱間には大日本帝国憲法の発布式と、帝国議会の様子を浮き彫りにする。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/06/04
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
八幡・久伊豆・氷川の三神を祀る八條総鎮守
埼玉県八潮市八條に鎮座する神社。
旧社格は村社で、八條総鎮守。
八幡・久伊豆・氷川の三神の合社として創建。
八潮市最古の板碑を保管する他、石鳥居など当地の古い歴史を伝える。
明治に再建された本殿は、実に見事な彫刻が施されている。
室町時代に八幡・久伊豆・氷川の三神を勧請し創建
創建は宝徳元年(1449)と伝わる。
山城国「男山八幡宮(現・石清水八幡宮)」から八幡大神、「岩槻久伊豆神社」から久伊豆大神、「武蔵一宮氷川神社」から氷川大神を勧請。
三神を合わせ祀ったため「氷川久伊豆八幡合社」として江戸時代の地誌にも記録も残るが、地域からは「八幡社」「八幡宮」と呼ばれ崇敬を集めた。
二十二社(上七社)の一社、「伊勢神宮」とともに二所宗廟の一社。
京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として重要視された。
武家からは特に源氏が武神として篤く信仰し、各地に八幡宮が勧請された。
武蔵国の一之宮で、延喜式神名帳に記載された式内社(名神大社)。
東京都・埼玉県に約200社程点在する「氷川神社」の総本社。
地名から「大宮氷川神社」と称される事もある。
全国的に信仰を集めた八幡信仰、武蔵国の当地周辺に篤く信仰された氷川信仰、久伊豆信仰を合わせ祀り、八條一帯の総鎮守として祀られた事が窺える。
江戸時代の当社・三神共に宗源宣旨を受ける
承応二年(1653)、本殿を再建した棟札が残る。
正徳二年(1712)、当社に祀られた三神に対して宗源宣旨が出される。
別当寺「清蔵院」と名主組頭らが相談の上、15年かけた積立金で吉田家へ願書を提出したと云い、その願書には、当時から三神を丁重に祀っていた旨が記されていたと云う。
明治に「清勝院」(現・八潮市八條1763)に合寺され、現在は「清勝院阿弥陀堂」として姿を残す。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(八條村)
氷川久伊豆八幡合社
村の鎮守とす。清蔵院持なり。
末社。辨天。天神。稲荷。
八條村の「氷川久伊豆八幡合社」と記されているのが当社。
八條村の鎮守であった事が記されていて、別当寺は上述の通り「清蔵院」であった。
末社として弁天社・天神社・稲荷社を祀っていた。
明治の神仏分離・多くの神社を合祀
明治になり神仏分離。
明治初年、村社に列した。
現在も「村社八幡社」と記された古い社号碑が残る。
明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、八條村・鶴ヶ曽根村・松之木村・伊草村・小作田村・立野堀村が合併し、南埼玉郡八條村が成立。
当社は一帯の鎮守として崇敬を集めた。
明治二十四年(1891)、本殿を再建。
実に素晴らしい彫刻を施した本殿でこれが現存している。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
当社に隣接するように寺院があり、これが旧別当寺「清蔵院」であろう。
橙円で囲ったのが当社に合祀される「八條殿社」で、今も古墳として僅かに姿を残す。
八條という地名の他、現在の八條橋はまだ架かっておらず、中川を八條渡という渡し船で往来していた事が窺える。
明治四十年(1907)、幸之宮「久伊豆神社」・和之村「第六天神社」・中島「稲荷神社」・入谷「天神社」を合祀。
明治四十二年(1909)、和之村「浅間神社」・入谷「八条神社(旧八條殿社)」を合祀。
大正元年(1912)、中島「厳島神社」を合祀。
昭和三十一年(1956)、八條村・八幡村・潮止村が合併し、八潮村(後の八潮市)が成立。
平成十一年(1999)、御鎮座五百五十年記念で境内整備が行われる。
現在は八潮市「稲荷神社」2社「天神社」2社「久伊豆神社」2社「諏訪神社」、三郷市「女躰神社」「香取神社」、草加市「稲荷神社」の本務社となっていて、八條周辺の中核神社として崇敬を集めている。
境内案内
八條の中川沿いに鎮座・元禄の石鳥居
最寄り駅は越谷レイクタウン駅などになるが、いずれからも距離があるため、公共交通機関を使用する場合は、八潮駅から東武バスで八條八幡神社のバス停に向かうのが良い。
駐車場も用意されているので自家用車などで参詣するのも良いだろう。
当社の東側には中川が流れ、河川沿いに鎮座。
西側には八條用水があったりと水路が多く水路の街としても知られる。
綺麗に整備された参道には、南向きに石鳥居。
かなり年季の入った石鳥居だが丈夫で維持されている。
元禄二年(1689)の銘が残り大変古いもの。
こうした江戸初期の石鳥居が現存している事が素晴らしい。
扁額には「八幡宮」とあり、八幡・久伊豆・氷川の三神を祀る当社だが「八幡宮」と呼ばれていた事が窺える。
鳥居を潜り左手に手水舎。
綺麗に手入れされていて水も張られている。
まっすぐと緑溢れる参道。
社殿手前には一対の狛犬。
こちらは昭和五十七年(1982)のもので比較的新しい。
隙間なく彫刻が施された明治再建の本殿
参道を進み数段の石段を上った先に社殿。
拝殿は状態よく維持され幾つかの彫刻も。
正面には龍の彫刻。
木鼻には躍動感溢れる獅子の彫刻が施されている。
特筆すべきは覆殿で保護されている本殿。
柵の隙間から中を覗くと実に見事な本殿を見る事ができる。
明治二十四年(1891)に再建された本殿が現存。
向拝柱には龍を浮き彫りにして、欄間にも隙間なく彫刻。
柱間には椅子に座った人々が彫られているが、御前会議・帝国憲法発布式の様子を浮き彫りにしてはめ込んでいると云い、当時の情勢をうかがい知る事ができる。
境内社・ふるさとの森に選定された境内・御朱印
境内社は社殿の左手に稲荷神社。
『新編武蔵風土記稿』にも末社として記されていたのがそれであろう。
左手には古い石祠。
境内には緑が溢れ清々しい。
昭和五十九年(1984)には、当社の社叢が「ふるさとの森」に指定された。
立派な御神木もあり存在感たっぷり。
御神木の手前にはベンチも置かれ、地域の方の憩いの場にもなっているようだ。
八條殿社の御神体だった八潮市指定有形文化財の板碑
当社が管理する文化財として弘安七年(1284)の板碑がある。(一般非公開)
これは明治四十二年(1909)に当社に合祀された「八條殿社」の御神体として祀られていたもので、現在は当社が管理し、八潮市指定有形文化財となっている。(詳細:八潮市公式サイトPDF)
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(八條村)
八條殿社
塚上に社を建、内に神体とて古碑二基を置。一は弘安七年、一は応安四年五月廿七日宗源禅門と彫れり。是尋常の古碑にて當社に預りしものにはあらず。一説に月輪太政大臣兼實の三男、八條左大臣義輔罪ありて當國に左遷し、此地にて逝せしかば其霊を祀しと、此説覚束なし。義輔系図には良輔に作る、當所の地名によりて、此人の事を附会せしならん。又當國七党系図に出たる在名、此邊に多く残られば、村名の條のする處七党系図、八條五郎光平等が家號を附会せしも知べからず。されど塚上を平げし所より石槨の著し様、古墳なること知らる。
八條村の「八條殿社」として、御神体として古碑2基が安置されていた。
そのうちの1つは弘安七年(1284)のものと記載があり、これが上述の板碑。
「古墳なること知らる」の一文があり、江戸時代の頃から古墳の上に鎮座する神社であった事が知られていた。
度重なる掘削などによって墳丘は切り崩されて原型をとどめていないが、八潮市域で古墳と云われるのは、この「八條殿社」跡のみとなっている。(詳細:八潮市公式サイトPDF)
所感
八條総鎮守として崇敬を集めている当社。
「八條八幡神社」と称され、古くも「八幡社」「八幡宮」などと呼ばれていたが、八幡神だけを祀る神社ではなく、創建当時から八幡・久伊豆・氷川の三神が祀られた神社であった。
地域一帯で信仰を集めていた神々を祀ったとも見る事ができ、正に八條の総鎮守であったのだろう。
現在も三神が祀られているのは変わらず中々に珍しい神社。
元禄の石鳥居が現存、明治に再建された本殿は素晴らしい彫刻のまま現存していたりと、八條周辺の歴史と信仰を伝える良い神社である。
神社画像
[ 鳥居 ]
[ 手水舎 ]
[ 参道 ]
[ 狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 境内社 ]
[ 石碑 ]
[ 御神木 ]
[ ベンチ ]
[ 水盤 ]
[ 絵馬掛・御籤掛 ]
[ 社務所 ]
[ 境内社 ]
[ 社号碑 ]
[ 案内板 ]
[ 中川 ]
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