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概要
狼型の狛犬がいる桜川の御嶽神社
東京都板橋区桜川に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧上板橋村の栗原・七軒屋の鎮守。
武州御獄山(一説には甲州)の分霊を勧請し創建したと伝わる神社。
境内の狛犬は狼型となっているのが特徴的。
これは御獄山など山岳信仰の神使が日本狼とされる事によるもの。
現在は城北中央公園内に境内が設けられる形となっていて、「ときわ台天祖神社」の兼務社の扱い。
神社情報
桜川御嶽神社(さくらがわみたけじんじゃ)
上板橋御嶽神社(かみいたばしみたけじんじゃ)
御祭神:金山彦命・金山姫命・倭健命
社格等:無格社
例大祭:9月11日・12日
所在地:東京都板橋区桜川1-4-6
最寄駅:上板橋駅・氷川台駅
公式サイト:─
御由緒
康正2年(1456)に太田道灌が千代田村に江戸城を築くにあたって、当地の先住人を各地に移転させたが、その中に宝田姓を名乗る一族は上板橋村栗原に移り住んだ。この時彼らが祭っていた稲荷神社を石神井川を見下ろす小高い丘の上(現、城北中央公園)に遷座させたという。この稲荷社は宝田家の神社であったため、栗原七軒屋の人々が武州(一説に甲州)から勧請して祀ったのが当社のはじまりであるといわれている。(頒布の用紙より)
歴史考察
江戸城築城によって移転した宝田家と稲荷神社
社伝によると、創建については不詳。
上板橋村の栗原・七軒屋の人々によって創建されたと伝わる。
康正二年(1456)、太田道灌が千代田村に江戸城を築城した際、先住人を各地に移住させた。
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
その人々の中に宝田姓を名乗る一族が上板橋村栗原(当地)に移住。
宝田家が祀っていた「稲荷神社」を石神井川を見下ろす小高い丘の上(現・城北中央公園)に遷座させたと云う。
武州御獄山より勧請された御嶽神社
江戸時代に入ると板橋村が上板橋村・下板橋村に分村。
上板橋村の総鎮守は、現在当社の本務社である「ときわ台天祖神社」とされた。
上板橋村の栗原・七軒屋に住む人々は近くに地域の鎮守を求めた。
宝田家の移住と共に遷ってきた「稲荷神社」は、宝田家の私的な神社であった事から、誰でも参拝できる地域の鎮守を創建する事にして当社を創建したと云う。
栗原・七軒屋の人々によって、武州御獄山(一説には甲州)の分霊を勧請して「御嶽神社」として創建された。
武州説の場合は「武蔵御嶽神社」(東京都青梅市)より勧請、甲州説の場合は「金櫻神社」(山梨県甲府市)より勧請と云う事になる。
いずれも武蔵御岳山と金峰山に祀られた山岳信仰の神社で、神仏習合時代は蔵王権現を祀った神社である。
古くは蔵王権現を祀っていた御嶽神社
関東圏で「御嶽神社(みたけじんじゃ)」の社号を持つ神社は幾つか存在。
その殆どが神仏習合時代は蔵王権現を祀る神社であった。
正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)と云う。
修験道の本尊であり、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされ、インドなどに起源をもたない日本独自の本尊。
特に奈良県吉野町の「金峯山寺」の本堂「蔵王堂」の本尊として知られている。
明治の神仏分離後は習合した様々な神と同一視され、それぞれの神社ではそれらの神々を御祭神に変更、当社も現在の御祭神は日本武尊になっている。
この事から当社は蔵王権現を祀る信仰が根底にあったのであろう。
古くから「御嶽神社」と呼ばれ、上板橋村の栗原・七軒屋の鎮守とされた。
嘉永七年(1854)、現存する狼型の狛犬が奉納される。
日本狼を神使とする「武蔵御嶽神社」を中心とした山岳信仰によるものなのが窺える。
明治以降の歩み・城北中央公園の整備
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制の施行で単独で上板橋村となる。
上板橋村の栗原・七軒屋(現・桜川周辺)と呼ばれた地域の鎮守とされた。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当宮の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
地図上に栗原・七軒家の地名を見る事ができる。
当社はこの栗原・七軒屋の人々によって創建され氏神とされた神社であった。
昭和十七年(1942)、当社周辺が防空緑地(空襲被害拡大を防ぐための緑地)として整備。
戦後になり境内や周辺の整備が進む。
昭和三十二年(1957)、周辺は上板橋緑地の名で公園として整備。
昭和四十五年(1970)、現在の城北中央公園として整備が行われた。
こうした城北中央公園の整備の中でも、当社の境内は残され現在に至る。
境内案内
城北中央公園の丘に鎮座
最寄駅の上板橋駅からは徒歩10分程の距離。
城北地区最大の総合公園・城北中央公園内に鎮座。
上板橋体育館の向かい、テニスコートや野球場がある側。
城北中央公園を縦断する茂呂山通りに面して鳥居。
「御嶽神社」の社号碑。
昭和三十二年(1957)建立の鳥居。
鳥居の先は石段になっていて、城北中央公園の丘に鎮座する形となっている。
山岳信仰を伝える狼型狛犬(おいぬ様)
鳥居を潜ると一対の狛犬。
左右共に普通の狛犬とは造形が違うのが特徴。
狼型の狛犬になっていて、日本狼を模したものであろう。
昭和三十五年(1960)奉納で戦後のもの。
その先に石段。
石段の先に平成二十七年(2015)建立の二之鳥居。
二の鳥居を潜ると再び一対の狛犬。
こちらもリアルな造形の狼型狛犬。
昭和六十一年(1986)奉納のおいぬ様。
日本狼を祀ったり神使とする信仰は、山岳信仰の神社に見る事ができる。
特に武蔵国の山岳地方である秩父や奥多摩で多く見かける事ができる信仰。
当社と同じ「御嶽神社(みたけじんじゃ)」であり、関東圏の蔵王権現信仰の中心として広まった「武蔵御嶽神社」(東京都青梅市)にも、日本狼の狛犬が置かれるだけでなく、日本狼を神格化した大口真神(おおくちのまがみ)を祀る「大口真神社」も鎮座している。
そのため現在も通称「おいぬ様」と呼ばれ信仰を集めている。
朱色の屋根が特徴的な社殿
参道の正面に社殿。
赤に近い鮮やかな朱色の屋根が特徴的。
規模としては小ぶりな木造社殿。
普段は無人の神社ながら綺麗に維持管理。
扁額には彫刻と「御嶽神社」の文字。
本殿も同様に鮮やかな朱色の屋根で彩られている。
江戸時代に奉納された狼型狛犬・区の文化財
社殿の右手には、社殿と同様に朱色の屋根で保護された一画。
この中に上述もした江戸時代の狛犬。
ペリーの黒船来航の翌年である嘉永七年(1854)奉納。
どことなくデフォルメ化された狼型の狛犬で何とも不思議な表情。
下新倉(埼玉県和光市)の石工・石田栄蔵の作で、板橋区の登録有形民俗文化財。
境内社の天祖神社・稲荷神社など
境内の右手には境内社の天祖神社。
石段の先に鳥居と社殿。
こちらは伊勢信仰と云う事もあり通常の狛犬。
小振りながら造形が良い。
その右手には稲荷神社。
朱色の鳥居が3基。
その先に社殿。
参拝時はよく見ると中に猫ちゃんの姿。
猫神さまの如く休んでいて癒やされた。
一之鳥居の右手には古い石造物。
祠と仏像。
天明八年(1788)の不動明王像。
御朱印にときわ台天祖神社にて・狼型狛犬の印付き
境内には社務所も整備。
但し普段は無人の兼務社であるため、御朱印などの対応は本務社の「ときわ台天祖神社」にて。
御朱印は「御嶽神社」の朱印。
更に境内にある嘉永七年(1854)の狼型狛犬を模した印が押印される。
所感
上板橋村の栗原・七軒屋と呼ばれた地域の人々によって氏神として創建された当社。
神仏習合の時代には蔵王権現を祀った山岳信仰の神社として信仰を集めた。
諸説あるがおそらく「武蔵御嶽神社」からの勧請と思われ、幕末に奉納された狼型狛犬を見るからに、おいぬ様とも呼ばれる日本狼への信仰も残っていたのだろう。
周辺は戦前は防空緑地、戦後になると公園として整備され、現在は城北地区最大の総合公園・城北中央公園となっているが、そうした整備の中でも神社の社地は残されている。
こうした事からも地域からの崇敬が篤く、当地の信仰を現在に伝えているとても良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
「ときわ台天祖神社」授与所にて。
※本務社「ときわ台天祖神社」にて御朱印を頂ける。
参拝情報
参拝日:2021/06/08
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