前原御嶽神社 / 千葉県船橋市

船橋市

神社情報

前原御嶽神社(まえばらみたけじんじゃ)

御祭神:素盞鳴尊
社格等:村社
例大祭:10月18・19日
所在地:千葉県船橋市前原東5-43-1
最寄駅:前原駅
公式サイト:http://mitakejinjya.okunohosomichi.net/

御由緒

 御嶽神社は、御祭神が建速須佐之男命、御神体は蔵王権現像であり、遠近祖孫の尊信が厚い木造蔵王権現三尊立像は桧材造りであり中尊は像高九十六糎で瞳の部分に水晶を入れている。両脇侍像は像高五十八糎で水晶の玉眼である。鎌倉時代の製作といわれ、昭和三十三年四月千葉県指定有形文化財に指定され、同五十二年東京都明珍昭二によって修理された。
延宝元年(1673年)上東野新助(旧名為右衛門)は、もと大和国吉野に祭祀された尊像を開村の守護神として請い受け、林光院釈仙龍を祠掌として迎えた。江戸の神田鍛冶町から開拓地まへはらの清流湧出する丘に遷座し、新田十二石八斗五合を献じて年年の祭資に充てた。正徳五年(1715年)八月仙龍が職を辞し、田喜野井村正法寺釈精養に委託された。
 明治維新となり神仏分離、神仏職の区分が厳達された。明治三年(1870年)一月権現の称を廃し御嶽神社と改め、上東野保義(旧名新次郎)が社掌に選ばれた。社境祭田については、高橋平三郎、森田新左衛門、上東野金右衛門、上東野新八等が田喜野井村との間を周旋して、ほぼ元に復し、同十三年四月上東野勇次郎が御神徳の弥栄を祈念し一村の共有に改めた。
 同二十年大火にあい御神体は氏子決死の働きによって難をのがれ小林初太郎方に安置された。本殿復興を期し同年拝殿、同二十六年本殿が再建された。
 第二次大戦後農地改革が行われ、本社領も農地改革の対象とされた。昭和二十八年(1953年)七月田久保美之吉を代表役員とする宗教法人御嶽神社が設立された。同三十一年本殿屋根の改修がなされた。同三十八年二月火災により社殿が焼失し、御神体は難を免れ小林三郎方に一時安置された。同年本社領の二宮小学校敷地を船橋市が買い受けた。同資金及び奉納金により昭和四十年社殿客殿社務所が再建された。同四十九年には神楽殿が新築された。長年にわたり資金の募集に事業の推進に、氏子総代諸氏が尽力され氏子諸氏等が協力された。
 昭和天皇御在位六十年奉祝記念事業として同六十一、六十二両年に玉垣造成、造園、擁壁工事が実施された。その竣工に際し本社の沿革を記し事業の概略を録し永く奉謝の意を表する。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/06/27

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。

前原御嶽神社

御朱印帳

初穂料:─
社務所にて。

汎用と思われる御朱印帳が用意されていた。
サイズの小さな御朱印帳になる。

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※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

歴史考察

蔵王権現を御神体とした神社

千葉県船橋市前原東に鎮座する神社。
旧社格は村社で前原の鎮守。
正式名称は「御嶽神社(みたけじんじゃ)」であるが、他との区別のため「前原御嶽神社」とさせて頂く。
現在は素盞鳴尊を御祭神としているが、創建時から神仏分離までは修験道の本尊である蔵王権現をお祀りしていた神社で、現在も御神体は蔵王権現像となっている。

江戸時代に開拓された前原

社伝によると、延宝元年(1673)に上東野新助が行者・釈仙竜を伴い、前原開拓地三ヶ村の守護神として蔵王権現を大和国(奈良県)吉野から奉遷した事が始まりとある。

上東野新助は当地を開拓した草分けの一人。
元は神田鍛冶町の住人と見られるが、当地を開拓し移り住んだと推測される。
行者・釈仙竜は江戸神田「林光院」の修験僧と伝えられている。
当時は神仏習合の時代であり、当社は「林光院」釈仙竜の管轄であったとされ別当寺であったのだろう。

前原地区は歴史的には江戸時代に開拓された新田村落である。
村としての成立は、延宝年間(1673年−1681年)と見られ、正に当社が創建した頃。
当社が開拓の守護神として中心となり村作りと開拓が行われたのであろう。
江戸時代は幕府代官領で、前原新田と呼ばれていた。

そうした開拓地である前原の鎮守として崇敬を集めた。
その後、正徳五年(1715)には、近くの田喜野井村(現在の船橋市田喜野井)「正法寺」が別当寺になったとされる。

蔵王権現は修験道の本尊・当社の秘宝「木造蔵王権現三尊立像」

蔵王権現とは、正式名称は金剛蔵王権現という。
修験道の本尊であり、インドなどに起源をもたない日本独自の本尊である。

特に奈良県吉野町の「金峯山寺」の本尊として知られている。
釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。

ちなみに、現在では観光地として有名な山形県と宮城県の県境にある「蔵王山」は、修験道や山岳信仰がある地に吉野から蔵王権現が勧請されたため、蔵王山と呼ばれるようになった。
そもそもが日本独自の本尊であるが、神仏習合で神道とも習合するようになる。
主に大己貴命・少彦名命・国常立尊・日本武尊・金山毘古命などと習合し、同一視される事が多い。

当社には創建時に吉野より蔵王権現像を請い受けたとあり、現在もその時の蔵王権現像が現存。
それが当社の秘宝(非公開)「木造蔵王権現三尊立像」である。
image現在は千葉県指定有形文化財に指定されている。

神仏分離によって改称・戦後と現在

明治になり神仏分離。
後に村社に列する。

蔵王権現は神仏習合の色濃い信仰であるため、当社も神仏分離の影響を多大に受ける事となる。
明治三年(1870)、これまでの「蔵王権現」の称号を廃し、現在の「御嶽神社」と改称。
この頃に御祭神も現在の素盞鳴尊に改められたと見られる。

蔵王権現は、主に大己貴命・少彦名命・国常立尊・日本武尊・金山毘古命などと習合したため、神仏分離後にこれらの神を御祭神にする神社が多かった中、素盞鳴尊を御祭神としたのは比較的珍しいく興味深い。
いずれにせよ、廃仏毀釈が進む中、生き残るための苦肉の策であったのだろう。
当社の創建起源となった蔵王権現像は壊される事なく御神体として大切にされ続けた事からも、そういった社会的情勢での事情を窺える。

明治二十年(1887)、火災によって社殿が焼失。
その時、御神体である蔵王権現像は氏子の決死の働きによって難を免れたとされる。
当地の住人、氏子にとって開拓時からの守護神である蔵王権現像への篤い信仰を窺える逸話。
同年、拝殿が再建され、明治二十六年(1893)には本殿が再建された。

戦後になり、昭和三十八年(1963)、火災により社殿が焼失。
この時も御神体は難を免れている。
昭和四十年(1965)、社殿・客殿・社務所が再建。
昭和四十九年(1974)には神楽殿が新築された。
昭和六十一年(1986)から翌年にかけて、昭和天皇御在位六十年奉祝記念事業として玉垣造成、造園、擁壁工事が行われた。

少し余談になるが、前原鎮守となっている当社だが、「前原」の読み方が平成になってから変わっている。
従来は町名を「まいはら」と読んでいたのだが、平成十五年(2003)より「まえばら」と読むよう変更となっている。

長い参道と緑豊かな境内

国道296号沿いに鎮座する当社。
image鳥居右側の道は車で入る事が可能で、奥に駐車場も用意されている。

長い参道が特徴的な境内となっている。
image戦前の昭和初期には、かつて習志野市谷津にあった映画会社「阪東妻三郎プロダクション」の映画の撮影場所としてこの参道がよく利用されたという。

長い参道には左手に当地の歴史と信仰を感じさせる石碑が見える。
image多く並ぶ記念碑のほとんどに月山神社・出羽神社・湯殿山神社とあり「出羽三山神社」への詣でが行われた記念碑なのが分かる。
出羽三山は修験道を中心とした山岳信仰の場であり、出羽三山参詣は、「霞場」と呼ばれる講を結成して行われたので、修験道と縁のある当地の氏子が講を結成していたのだろう。
多くが明治期のものになっていた。

長い参道が続き駐車場の先に獅子山頂上の一対になった狛犬。
imageこの先の左手に手水舎があり、さらに先に社殿となっている。
一之鳥居から社殿までは約160mほどの参道となっている。

社殿は昭和四十年(1965)に再建されたもの。
image幾度か火災で焼失しているが、その度に氏子衆によって再建されており、崇敬の篤さを感じる。

社殿の左手には当地の古い信仰を思わせる祠が多く並ぶ。
image前原に祀られていた小祠であり、明治以降に当社に遷されたのであろう。

社殿の右手に三洋松。
image夫婦和楽・家内安全の象徴との事で、黄金色になった落ち葉を拾って身に着けると、金運の御利益があると云われている。

また特に説明書きがなかったのだが手水舎の後ろには面白い形の銀杏の木。
image乳根と呼ばれる現象で、こうした巨木を「乳銀杏」などと呼ぶ。

境内社は参道途中の右手に水神宮。
image元々、水の湧き出る当地に祀られていたそうで、昭和五十年(1975)に当社境内に造営された。
他に鳥居のすぐ先左手に道祖神の祠が置かれていた。

境内右手には神楽殿、社務所と並ぶ。
御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

前原の鎮守である当社。
江戸時代に新たに開拓された新田村落である前原は、当社がその開拓神・鎮守神として祀られ、共に歩んできた歴史となっている。
本地垂迹説の考えから生まれた日本独自の神(本尊)である蔵王権現をお祀りして創建。
その後、神仏分離の影響を受け廃仏毀釈の荒波や、2度の火災に見舞われながらも、今も秘宝として御神体の蔵王権現像が大切に祀られているのは、それだけ当地の方にとって蔵王権現像が重要なものであり、非公開ながら今もこうして現存している事が素晴らしい。
規模としてはそこまで大きな神社ではないのだが、再建された緑豊かな境内は心地よく、整備されている様子からも、地域の崇敬を集めているのが伝わる神社であった。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 一之鳥居・二之鳥居 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 二之鳥居 ]
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[ 参道 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 案内板 ]
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[ 記念碑 ]
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[ 小祠 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 乳銀杏 ]
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[ 三洋松 ]
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[ 社務所 ]
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[ 水神宮 ]
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[ 道祖神 ]
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[ 石碑 ]
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