王子神社(王子権現) / 東京都北区

神社情報

王子神社(おうじじんじゃ)
王子権現(おうじごんげん)

御祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大御神・速玉之男命・事解之男命
旧社格:准勅祭社・郷社
例大祭:8月上旬の3日間(槍祭)
所在地:東京都北区王子本町1-1-12
最寄駅:王子駅・王子駅前停留所
公式サイト:http://ojijinja.tokyo.jp/

御由緒

 王子という地名は元亨二(1322)年に領主豊島氏が熊野より当社を勧請した事に由来します。以来、熊野信仰の拠点として尊崇を集め、戦国時代は小田原北条氏も当社を崇敬し朱印状を寄せて社領を安堵しております。
 徳川時代、初代家康公は天正十九(1591)年に朱印地二百石を寄進、将軍家祈願所と定められて、それより「王子権現」の呼称で江戸名所の一つとなります。三代家光公は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて当社に奉納しております。
 その後も代々将軍の崇敬篤く、特に八代吉宗公は紀州ゆかりの当社を崇敬して元文二(一七三七)年に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて庶民遊楽の地としました。これが現在の花の飛鳥山の基です。
 明治元年には明治天皇より皇都守護「准勅祭社」の東京十社に定められ、現在まで東京の北方守護として鎮護しております。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/03/16(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/02(御朱印拝受)
参拝日:2015/04/01(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

[2017/03/16拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2016/01/02拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/04/01拝受]

御朱印帳

東京十社めぐり御朱印帳(木製)
初穂料:1,500円
社務所にて。

「東京十社」発行の御朱印帳。
従来の紫色タイプと、2016年より頒布となった木製タイプの2種類があり、そのうち木製タイプが置かれていた。
各社専用のページが用意されていて、右側に御由緒、左側に御朱印を拝受するようになっている。

授与品・頒布品

交通安全ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。

桜まもり
初穂料:800円
社務所にて。

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考察

東京の北方守護を担う王子権現

東京都北区王子本町に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後に郷社で、東京の北方守護とされる。
現在は東京十社のうちの一社に数えられる。
かつては「王子権現」と称され、今でも一部崇敬者はそう呼ぶ事がある。
熊野信仰の神社で、「王子」の地名由来となった神社。

熊野信仰の神社として創建

社伝によると、創建年代は不詳。
古くから紀州・熊野三山の熊野権現が祀られていたとされる。

康平年間(1058-1065)、源義家(八幡太郎)が奥州征伐(前九年の役)の際に、当地で金輪仏頂の法を修せしめたと云う。

金輪仏頂法(きんりんぶっちょうほう)とは、大日如来が最高の境界に入った時に説いた真言ボロンの一字を人格化した仏を「一字金輪仏頂尊」と云い、その修法(密教で実修される行法で加持祈祷の事)の事で、強力な修法とされていた。

義家は、凱旋した際に当社に甲冑を奉納したとされる。
この事から、平安時代以前には創建していたと推測できる。

源義家(みなもとのよしいえ)は、源頼義の長男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称した。
関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。

豊島氏が王子大神を勧請・王子の地名由来

元亨二年(1322)、 当地の領主・豊島氏が社殿を再興。
紀州熊野三山より王子大神を勧請し「若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)」と称した。

「王子大神」とは、熊野権現(「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」)の御子神(みこがみ)の呼称で、熊野古道沿いに参詣者の守護する神とされ祀られた。

熊野三山に倣って景観を整えたと云われ、領主の豊島氏や村民たちより崇敬を集めた。

豊島氏は、武蔵国豊嶋郡の領主として平安時代から室町時代にかけて存続した一族。
特に熊野信仰に篤い一族だったとされ、領地とした豊嶋郡内に多くの「熊野神社」を創建していて、その中で最大のものが当社であり、当社は郡内における熊野信仰の拠点として崇敬を集めた。

当地は古くは「岸村」と呼ばれていたが、当社が崇敬を集めた事で「王子村」と改称。
現在の王子の地名は当社に由来している。

戦国時代になると、後北条氏(小田原北条氏)が当地の領主となる。
後北条氏も当社を篤く崇敬しており、28貫860文の社領を寄進した。

徳川将軍家から多大なる庇護

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅亡。
同年、関東移封によって、徳川家康が江戸入り。

天正十九年(1591)、朱印地200石を寄進。
将軍家祈願所に指定され、「王子権現社」と称され大いに崇敬を集めた。

慶長十四年(1609)、二代将軍・徳川秀忠によって「金輪寺」が、当社と「王子稲荷社」の別当となる。
当社と「王子稲荷社」は「王子両社」と称され、共に崇敬を集めていく。

寛永十一年(1634)、三代将軍・徳川家光が社殿を造営。
寛永十八年(1641)、家光が朱子学者の林羅山に命じて『若一王子縁起』三巻を作成させ、当社に寄進している。

『若一王子縁起』は、家光が「王子権現社」・「王子稲荷社」・別当寺「金輪寺」の社殿を造営する際、それ以前の縁起が消失していた事から作成された絵巻物となっており、現在伝わる当社の御由緒はこの縁起による。原本は江戸時代の火災で焼失。現在は模写された模本が現存しており、北区指定有形文化財となっている。

元禄十六年(1703)、五代将軍・徳川綱吉が社殿を造営。
天明二年(1782)、十代将軍・徳川家治が社殿を修繕。
文政三年(1820)、十一代将軍・徳川家斉が社殿を修繕。

このように歴代の徳川将軍によって大いに崇敬され、「王子権現社」「王子稲荷社」「金輪寺(別当寺)」は神仏習合の中で、江戸北部の守護として信仰された。

王子稲荷神社 / 東京都北区
関東稲荷総社(東国三十三国稲荷総司)。初午の凧市と火伏凧・大晦日の狐の行列。源義家や源頼朝の伝承。徳川将軍家からの庇護・江戸庶民から絶大な人気。王子稲荷の狐火。浮世絵に描かれた当社や装束榎。江戸時代造営の極彩色拝殿。御石様と御穴様。御朱印。

徳川吉宗からの崇敬・飛鳥山の寄進と桜の名所

歴代徳川将軍家の中でも、特に八代将軍・徳川吉宗は当社を大いに崇敬した事で知られる。

徳川吉宗は、徳川御三家の紀州藩第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。
父と2人の兄の死後、紀州藩第五代藩主となり、藩財政の再建に努めて成果を挙げる。
享保元年(1716)、七代将軍・徳川家継が8歳で早世し徳川将軍家の血筋が絶えた事を受けて、徳川御三家の中から紀州藩主であった吉宗が八代将軍に就任。

紀州藩主から八代将軍となった吉宗は、出身である紀州ゆかり熊野信仰の拠点であった当社を大いに崇敬し、多大な庇護を行っている。

元文二年(1737)、飛鳥山を当社に寄進。
桜を植樹して江戸庶民に一般開放し、桜の名所として江戸庶民からも人気を集めた。

これが現在も桜の名所として名高い「飛鳥山公園」である。
2015年4月に、境内から飛鳥山を望んだ景色。

飛鳥山は、吉宗が享保の改革の一環として整備を行っており、花見の時期になると風紀が乱れたため、庶民が安心して花見をできる場所として整備し、当社に寄進したもので、江戸庶民に花見文化を広めたきっかけの1つとも云える。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(巣鴨絵図)

こちらは江戸後期の王子・巣鴨周辺の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は図の左上に描かれている。

(巣鴨絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社で、「王子権現社」と記されている。
その隣には別当「金輪寺」の姿も見える。
その左手にあるのが「王子稲荷社」であり、この一角は一帯となって崇敬を集めた。
当社と「王子稲荷社」は「王子両社」と称され、崇敬を集めるようになる。

王子稲荷神社 / 東京都北区
関東稲荷総社(東国三十三国稲荷総司)。初午の凧市と火伏凧・大晦日の狐の行列。源義家や源頼朝の伝承。徳川将軍家からの庇護・江戸庶民から絶大な人気。王子稲荷の狐火。浮世絵に描かれた当社や装束榎。江戸時代造営の極彩色拝殿。御石様と御穴様。御朱印。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(王子村)
王子権現社
渡殿、幣殿、拝殿あり。縁起云、紀伊國牟婁郡熊野三所を勧請する所にして、祭神は速玉之男、伊弉冊尊、事解之男是なり。其年歴は詳にせされと康平年中八幡太郎義家奥州征伐の時、當山にて金輪佛頂の法を修せしめ、凱旋の日社頭に甲冑奉納云々とあれは、其より以前の勧請なること知へし。文保元弘年豊嶋氏修造の事あり、其後小田原北條家にても尊信淺からず、上平川内三貫六百文下平川村内二十二貫八十文牛込内三貫百八十文の地を社領として寄附せしこと、「小田原役帳」に見えたり。又天正三年同十一年同十六年等寺中不入の禁制を與へり。同十九年北條氏の寄附に任せて神領二百石の御朱印を賜はり。又寛永十一年社領再造すへき由酒井雅楽頭に命せられ、松平加賀右衛門正次・中根七左衛門友次の兩人奉行して造營し、同き年の冬落成せしかは遷宮料として金五十兩をたまへり。同年十月當社縁起新撰の頃林道春に命せられ、八ヶ年を歴て同き十八年脱稿す。極彩色の繪巻物にて筆者は鈴木権兵衛某、畫工は狩野主馬尚信なり。其後延寶三年修理料として金五百兩槫木二萬本を賜ひ、元文二年三月熊野花鎮祭の事に擬て飛鳥山を當社へ御寄附あり。天明二年文政三年の兩度修理を加へらる、其度々の棟札今に存せり。祭禮は花鎮祭とて三月十日に行ひしか何の頃よりか廢せり。又七月十三日の祭禮には田楽躍と云式あり、別當總供僧承事、禰宜神子及ひ兒四人、田楽法師八人、武者三人其式を勤む。此時着する装束及武具は寛永十一年、元禄十六年の兩度に賜りしと云。又正月十三日十八講式あり、總て年中大小の祭禮七十餘度執行ふ。
神楽殿。護摩堂(中略)。仁王門(中略)。供所(中略)。
神寶。若一王子縁起三巻。(中略)
東照宮。寛永十一年社領御造營の時勧請し奉と云。御束帶の御像にて日光山大楽院の御畫像を模し奉れりと云傳ふ。
末社。天照太神。飛鳥明神(中略)。聖宮。天神。三十番神。山王。関明神。荒神。十二所氷川浅間合社。八幡蔵王白山合社。
康家清光合社。豊嶋康家清光の霊を祀れり。康家は豊島三郎と号し、源義家に仕へし太郎近義の子なり。清光は権頭と称し治承の頃の人なり。

長々と記されているので一部は中略とさせて頂いた。

王子村の「王子権現社」と記されているのが当社。
当社の縁起が大変詳しく記してあり、上述した江戸時代までの御由緒も詳細に記してある。
多くの末社を有した大社であった事が伝わる。

例祭ではかつて「花鎮祭」というのが行われたとあるがいつの間にか廃れてしまったと云う。
この時代の例祭では「田楽躍」が行われるとあり、これが現在も例大祭で行われる「田楽舞」で、現在は北区無形民俗文化財に指定されている。

江戸名所図会に描かれた当社や槍祭

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

「王子権現社」として3ページに渡り描かれている。
現在よりも広大な敷地を有していたのが分かる。

鳥居の先に長い参道、そして神門が用意され、その前には舞殿が置かれている。
その先の社殿も大変立派な権現造りで、徳川将軍家によって造営・修繕されたもの。
周囲には多くの境内社がありその数は十七社にも及ぶ。
裏手の高台には「大神宮」「東照大権現」の姿も見る事ができる。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

次ページに描かれているのは、かつて3月10日に行われていたとされる「花鎮祭」の様子。
この頃には既に行われていない祭禮であり、かつての様子を模写した絵となっている。

花鎮めの祭祀はいまは絶えたり。ふるきを存せんがために、古図を模写て、ここに加ふ。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

こちらが当時行われていた祭禮であり、毎年7月13日に行われていた。
神前の舞殿にて、12番の拍板打興行が行われていて、その時の様子を描いている。
現在も例大祭で行われる「田楽十二番演目」「田楽舞」の事で、大変な賑わいを見せる祭りであった。

既にこの頃には「御槍」という古伝の御守が出ていたようで、俗に云う「槍祭」である。
現在も当社の例大祭は「槍祭」として知られていて、この頃の伝統を残している。

王子神社は、「運を開き、災いを除く」の意より、開運招福や運気の回生、厄除けや家内安全、身体健全、交通安全などに御神威深き神社です。「子育大願」の神社として、子どもに関する祈願(初宮、七五三、学業成就、安産など)にも御神徳あらたかです。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

4ページに渡って描かれたのは飛鳥山の全図。
遠くに富士山を望む事ができ、多くの桜の木と茶店を見る事ができる。
飛鳥山内には水茶屋が10ヶ所建てられ、江戸市民の行楽の場であった。

浮世絵に描かれた飛鳥山

吉宗によって当社に寄進された飛鳥山は、江戸庶民の娯楽の場として人気を集める。
特に桜の名所として知られた事で、浮世絵などの題材にも取り上げられている。

(歌川広重・名所江戸百景)

こちらは歌川広重による『名所江戸百景』。
飛鳥山の桜の季節を描いており、題名は「飛鳥山北の眺望」とある。
北側を見ているという事なので、遠くに見える山は筑波山であろう。

(歌川広重・名所三十六景)

同じく広重によって描かれた『名所三十六景』。
こちらでは富士山が描かれており、北は筑波山を、西は富士山を望む事ができた。
奥に立ち並ぶ建物の多くは茶店であり、当地は正に江戸庶民の観光名所であった。

(歌川広重・東都名所)

こちらも広重による『東都名所』。
左手には現在も飛鳥山公園に残る「飛鳥山碑」を見る事ができる。
元文二年(1737)に、吉宗による事績を顕彰するために建てられた碑で、飛鳥山のシンボルの1つとなっていて、他の浮世絵にもその姿を見る事ができる。

他にも広重を中心に多くの浮世絵が残っており、飛鳥山が江戸庶民の行楽地であった事が伝わってくる。
飛鳥山と共に当社も江戸庶民から崇敬を集めた。

明治以降の歩み・古写真で見る当社

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列し、「王子権現社」から現在の「王子神社」に改称。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。

明治三年(1870)、准勅祭社は廃止。
明治五年(1972)、郷社に列した。
同年、明治天皇が行幸されている。

(東京府史蹟)

こちらは大正八年(1919)に刊行された『東京府史蹟』に掲載されている当社。
戦前の社殿を知る事ができて貴重な写真となっている。
説明書きには例祭は「槍祭」と称され有名とあり、老樹が多く北近屈指の景勝地とも記されている。
巨木や多くの樹木が茂った境内であった事が伝わる。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
境内は大銀杏を残して殆どを焼失してしまっている。

昭和三十九年(1964)、社殿の第一期造営が行われる。
昭和五十七年(1982)、第二期造営にて現在の社殿となった。

その後も境内整備が進み現在に至っている。

戦後に再建された社殿・戦火を免れた大銀杏

最寄駅の王子駅から徒歩数分の距離で、王子本町郵便局や北区役所第二庁舎の向いに鳥居が立つ。
社号碑には「元准勅祭社」の文字。
立派な大鳥居が立ちその先が境内となる。

大鳥居を潜るとすぐ右手に手水舎。
正面に社殿となる。

社殿は昭和三十九年(1964)と昭和五十七年(1982)の二回の造営を経て再建されたもの。
白い柱に黒塗りという組み合わせの社殿。
ところどころに金箔を施していて、氏子崇敬者の再建への思いが伝わる。
旧社殿と同様に権現造り社殿。

参道の右手に音無親水公園へ繋がる下り坂がある。
ここも桜の名所として知られるが、その途中に大銀杏が残る。
当社の境内は戦時中に殆ど焼失してしまったが、この大銀杏は戦災を免れ、現在も力強くそびえ立つ。
東京都指定天然記念物で、当地の領主が豊島氏だった頃に植えられたものと推測されている。

御朱印は社務所にて。
木製の東京十社巡り御朱印帳も用意されていた。

境内社には珍しい髪の祖神を祀る関神社

境内社は境内の左手に一社。
『江戸名所図会』『新編武蔵風土記稿』に「関明神」と記されていた境内社。
御祭神は『小倉百人一首』で知られる蝉丸公で、「神の祖神」として祀られている。

蝉丸(せみまる)は、醍醐天皇の第四皇子などと諸伝があり、平安時代前期の歌人・音楽家。
能に『蝉丸』という曲があり、人形浄瑠璃にも近松門左衛門作の『蝉丸』がある。
髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君「逆髪姫」のために、侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をした逸話が残っており、この事から「音曲諸芸道の神」「髪の祖神」と崇敬を集めるようになった。
滋賀県大津逢坂山の「関蝉丸神社」に祀られており、江戸時代に御神徳を崇めて当社に勧請された。

昭和二十年(1945)、戦災により焼失。
昭和三十四年(1959)、全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」など髪に関連する業界の尽力によって再建。
全国的に珍しい髪の祖神を祀る神社として、現在も業界関係者より崇敬を集めている。

江戸時代には十七社もの境内社が置かれていたが、現在は残るのはこの「関神社」のみ。
こうして再建された事からも、崇敬者の思いが伝わる。

所感

古くから熊野信仰の神社であり、現在の王子の地名由来にもなった当社。
領主の豊島氏によって再興され、その後も後北条氏、そして徳川将軍家から崇敬を集めた。
徳川将軍家からは200石もの朱印地を賜ったように、格別の庇護を受けており、中でも熊野三山がある紀州の出身であった吉宗は、飛鳥山を寄進するなど大いに崇敬をしている。
かつては広大な敷地と立派な境内であり、それに比べると現在は少し寂しい境内になってはいるが、戦後の再建を経て、落ち着いた雰囲気の中参拝できる神社である。
現在も桜の名所として名高い飛鳥山は、江戸時代から人気の行楽地で、江戸庶民に花見を広めたきっかけの1つとも云え、当社も桜の季節に合わせて参拝するのもオススメである。

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神社画像

[ 大鳥居・社号碑 ]


[ 大鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 社務所 ]

[ 関神社 ]



[ 大銀杏 ]


[ 音無親水公園参道 ]

[ 石碑 ]

[ 案内板 ]

Google Maps