側高神社 / 千葉県香取市

【神社情報】

側高神社(そばたかじんじゃ)

御祭神:天神(造化三神)天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神 ※秘匿につき不詳する説も
社格等:郷社
例大祭:12月7日


所在地:千葉県香取市大倉1
最寄駅:香取駅・水郷駅
公式サイト:─

【御由緒】

◆創建

 経津主神社三十六ヶ深秘書(長保二年香取大宮司神主左馬頭従五位上武名の奥書あり)に”瓊々杵尊降臨之時鎮座是高天原也”とある。天孫が御降臨あらせられたとき、経津主神(香取神社の祭神)が”高天原の神”を奉齋されたのが側高神社の起源である。

◆概説

 側高神社は元来が香取神宮第一の摂社であるから、側高神社の由緒は香取神宮の由緒でもある。又香取神宮の由緒は側高神社の由緒でもある。このことは香取神宮と鹿島神宮との関係についても言へる。
一口に”香取鹿島”という様に、香取神宮(祭神・経津主大神)と鹿島神宮(祭神・武甕槌大神)とは左右一体の神で、両神は神代の昔、天照大神の勅命を奉体して相共に国土平定の大任を成就せられた建国の大功神である。従って香取、鹿島両神宮の間には密接不離なる関わりのあることは申すまでもなく、各摂末社のことについても又同様である。そこで両武神が何故この東国の香取・鹿島の地に御鎮まりになられるのか、その理由について考えてたい。二柱の神は単なる武力の神ではなく、天神(あまつかみ)奉齋の重責をも兼任された祭祀の神でもあった。経津主大神は別名を齋主神と申し上げる如く天神を側高の地に奉齋され、武甕槌大神は”高天原”と呼ばれる聖地に天神を奉齋され、祭祀の大使命も成し遂げられたものと考えるのが至当であろう。香取神宮の側高山、鹿島神宮の高天原両聖地共に両神宮の東北東約二粁半ばかりの所に位置していることも偶然の符合ではない。そして、更に東北東という方向は高千穂(宮崎県)や大和地方(奈良県)よりしても略同方向である。このことは瓊々杵尊以来、御歴代の天皇が天神遙拝せられた方向、即ち地上に奉齋された高天原の方向であったことを示す。経津主神社三十六ヶ深秘書に”遙宮側高之山也”と記されていることに依っても古代祭祀の形態は明らかである。
斯く両武神は聖地守護の大命を遂行して香取、鹿島の地に御鎮りになったものである。
(※頒布のリーフレットより)
【参拝情報】

参拝日:2015/05/21

【御朱印】

初穂料:300円
宮司様宅にて。

社務所のインターホンを押すと宮司様宅に繋がるようで、宮司様宅までいらして下さいとの事で、場所を聞いて直接伺う事となった。(境内の階段を下りて左手すぐ)

側高神社
【備考】
香取神宮」の第一の摂社とされている当社。
利根川周辺には「そばたか」と読む神社がいくつかあり、当社はそれらの本社とされている。

香取神宮」の第一の摂社としては「香取志」にもその旨が書かれており、古くから大変密接な関係にあった事が分かる。
当社の概説にも「側高神社は元来が香取神宮第一の摂社であるから、側高神社の由緒は香取神宮の由緒でもある」と書かれているように、「香取神宮」との関係の深さが伝わってくる。

例えば、寛元元年(1243)の文書には「香取神宮」とともに造替があったことが記されており、慶長十二年(1607)、元禄十三年(1700)の幕府による神宮修造の際にも、同時に当社の修造が行なわれている。
この事からも「香取神宮」と一体となった密な関係が分かるのではないだろうか。

面白いなと思うのは、御祭神の謎。
秘匿とされていた事があるようで、「古来、御祭神は神秘として口にすることを許されず、俗に言わず語らずの神と言われる」といった言い伝えもあり、最近まで口外する事を憚られていたようだ。
そのため便宜上「言わず語らずの神」もしくは「側高大神」と称する事がある。

但し、先代宮司様がまとめたという御由緒書きを頂いたのだが、それによると御祭神を「天神(造化三神)天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神」と記しているので、こちらを御祭神として書かせて頂いた。
このご由緒書きには色々と詳しい情報が載っているのだが、先代宮司様が戦時中の従軍経験の思いから作られたものだそうで、貴重な資料となっている。

例大祭は12月7日の「側高祭」。
元来は「香取神宮」の「側高祭」として毎年霜月七日に斎行されていたもので、「香取神宮」の総神官が参加する神宮年間祭祀のうちでも最重儀だったそうだ。
当時の様子を描いた、「香取神宮」より「側高神社」へ向かう行列の図を描いた絵も「香取神宮」が所蔵している事からも、その関係性が伺える。
現在は簡略化されてはいるが、当社の例大祭である12月7日は「香取神宮」にて「団碁祭」が開催される日でもあり、現在も関連がある。

さらに1月の第2日曜に「髭撫祭」という奇祭が開催される。
これは鎌倉時代に始まったと伝わるお祭りで、地区の当番引継ぎ行事(所謂オビシャ)で、羽織袴を着た新旧当番地区の人が互いに向き合って座り、ひげを撫でたら大きな椀でお酒を飲み合うという行事。
この祭は香取市の文化財に指定されている。

ちなみに東国三社の「息栖神社」との関連を伺わせる資料も存在する。
明和九
年(1772)に奉斎したという神崎町小松の日暮家氏社には、側高明神、息栖明神と記され、その中央下に水風両神と刻まれている。
「側高神社」は「香取神宮」の摂社、「息栖神社」は「鹿島神宮」の摂社として、両社を対とした関係になったと推測できる。

本殿は江戸時代初期の造営とされており、彩色文様で色鮮やかな彫刻が残っていてお見事。
こちらは千葉県の指定有形文化財に指定されている。

御朱印は宮司様宅にてお受けした。
社務所のインターホンを押すと宮司様宅に繋がるようで、宮司様宅までいらして下さいとの事で、場所を聞いて直接伺う事となった。(境内の階段を下りて左手すぐ)
お昼時だったにも関わらず大変丁寧に対応して下さって有り難い。
この時に先代宮司様がまとめたというご由緒書や、言い伝え、歴史、祭事などを色々教えて頂いたのだが、どれも興味深いお話で、こちらまで足を運んでよかったな、と心底感じる事ができた。

東国三社には数えられないものの、「香取神宮」の第一摂社として、「鹿島神宮」の摂社である「息栖神社」に並ぶくらいの重要な神社だった事が伺い知れる当社。
仮に東国四社というのが存在したのであれば、当社がその中に入っていたに違いない。

「香取神名記」によると「香取神宮の神官及び近郷の人民、重事ある時と歳旦と月の朔望とには、側高山の麓利根川の汀に至り、藻弊を執り、該社の御手洗井に至りて身潔をなして、先づ側高神社を拝礼し、それより香取神宮を拝礼する旧例なり。」との事で、「側高神社」を先に参拝してから、「香取神宮」を参拝するというのが古いしきたりだったようだ。
徒歩では少し行きにくい場所にはあるのだが、もし車など移動手段があるようなら、この旧例に倣って「香取神宮」の前に、当社を参拝してみるのもよいのではないだろうか。

神社画像

[ 社号碑・参道 ]

[ 参道 ]

[ 鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]

[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]

[ 境内社 ]

[ 社務所 ]

[ 御神木(千年杉) ]

[ 夫婦杉 ]

[ 側高神社舎館 ]

[ 宮司様宅側 ]

[ 案内板 ]

【Google Maps】

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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