神社情報
平塚八幡宮(ひらつかはちまんぐう)
御祭神:應神天皇・神功皇后・武内宿禰
社格等:県社・別表神社
例大祭:8月15日
所在地:神奈川県平塚市浅間町1-6
最寄駅:平塚駅
公式サイト:http://www.hachiman.org/
御由緒
本宮は、その昔鶴峯山八幡宮と称えられた古い社で、仁徳天皇の六十八年、この地方に大地震があり、人民の苦難のさまを聞召した天皇が詔して国土安穏祈願のため應神天皇をお祀りしたのが創祀であります。
天平勝宝の古記によると、顕宗天皇が、小年魚贄の膳部を定めてその料として、年々稲秀、麦、大豆を多量に献げられ、仁徳天皇は四千余町の土地をお寄せになられました。
推古天皇の代、この地方にまた大地震があり、人民の苦しみを見かねて天皇は”鎮地大神”のご宸筆を捧げて、国家安穏を祈願され、新たに社殿を造営になられ、天武天皇はこの地の税の三分の二をご寄進になり、文武天皇は”天晴彦”の宝剣を奉納になられたことを伝えて居ります。
寛永十四年筆録の八幡宮記、新編相模風土記によると、聖武天皇は相州一國一社の霊場として法華経を奉献されたということです。
岐阜県高山市山口に鎮座の桜ヶ岡八幡神社(旧郷社)は寛治元年、当宮のご分霊が勧請されたもので、高山祭で有名な桜山八幡神社の本社です。
東鑑によると、建久三年源頼朝は夫人安産のため神馬を奉納し、天正十九年には徳川家康は社領五十石を寄進し、慶長年間には自ら参拝し、伊奈備前守に命じて社殿の再建を行っています。正保三年幕府は社殿営繕料として山林二ヶ所を寄進しております。
明和二年平塚宿の僧本誉還真が十八年の間、浄財を集め、青銅の鳥居を奉献したことは青銅に刻まれて今も社頭に聳えています。
明治六年、官の達示により社名を八幡神社と改称しました。
明治二十七年、明治天皇の王女常宮、周宮両内親王殿下が参拝になられ、社頭に松樹をお手植えになり、神池へ緋鯉を放生になられました。
本宮は創祀の昔から”鎮地大神”と称えられ、厄除、招福の神として信仰厚く祭神の應神天皇、神功皇后は、大陸文化を採り入れた功績から、文化神として、又限りない慈しみと深い母性愛を表される母子神として、安産、生育、学業、武運の守護に、奈良、平安、徳川時代、現在と崇敬敬仰を集めてまいりました。
現在も横浜、川崎は勿論、東京、静岡方面の方々の信仰頗る厚く、宮詣りは後をたちません。
こうした厳粛な史実に輝く本宮は、昭和二十八年神社本庁の別表に掲げる神社として全国有名神社の代表の中に列なる栄誉を担い、現在に至って居ります。
昭和五十三年八月、本宮は”平塚八幡宮”の社号に改められ、なつかしい昔のよび名にかえりました。
創祀より数えて、実に千六百有余年、輝く歴史を奉戴し”神威愈々遍”の感慨一入でございます。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2019/10/09
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※2021年より月替りの御朱印(数量限定)も用意。
※境内社「平塚弁財天社」「鶴峯山稲荷社」の御朱印も頂ける。
御朱印帳
初穂料:3,000円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
特殊な素材で立体感のある御朱印帳。
表面に鳥居、裏面に狛犬・社紋がデザインされている。
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
授与品・頒布品
交通安全亀ステッカー
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
相模国一国一社の八幡宮・鎮地大神
神奈川県平塚市浅間町に鎮座する神社。
相模国の一国一社の八幡宮。
旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。
毎年5月5日に大磯町国府本郷の神揃山(神集山)で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模国六社の1社で、五之宮格として参加している。
古くは「鶴峯山八幡宮」と称されていて、推古天皇より「鎮地大神」の宸筆を賜ったと伝わる。
大変立派な境内を有し、境内社「平塚弁財天社」は「湘南ひらつか七福神めぐり」の弁財天を担う。
仁徳天皇によって国土安穏祈願の神社として創建
社伝によると、仁徳天皇六十八年(380)の創建と云う。
同年、この地方に大地震があり、それを聞き及んだ仁徳天皇が、国土安穏祈願のため八幡大神とされる父・應神天皇を祀ったのが創祀と伝えられている。
第16代天皇。
八幡大神とされる第15代天皇・応神天皇の御子であり、次代の天皇となった人物。
日本一の規模かつ世界最大規模の墳墓で、2019年7月に仁徳天皇陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」は世界文化遺産としての登録が決定した「大仙陵古墳」は、仁徳天皇の墳墓とされる。
仁徳天皇の治世は仁政(民衆に恵み深い政治)として知られている。
『日本書紀』には、民衆が飢え苦しんでいた時代、竈から煙すら上がらない民の生活を見て嘆き、租税を3年間免除する事にした上で、仁徳天皇も宮殿の改修などを中止し倹約に努め、食料の生産高を増やすべく様々な事業に専念した、という旨が記されている。
その事業の一環が上述した淀川の治水工事。
結果、3年後にはどの家の竈からも煙が立ち上ったと云う。
高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり(新古今和歌集)
こうした民衆に恵み深い政治を行った仁徳天皇が、この地方の大地震を案じて国土安穏祈願の神社として創建したと伝わっている。
第23代天皇・顕宗天皇(けんぞうてんのう)が膳部料を献じ、第24代天皇・仁賢天皇(にんけんてんのう)が四千余町の神領を寄進したとしている。
このように古くから朝廷より信仰を集める古社であったと云う。
推古天皇より鎮地大神の宸筆を賜り社殿を造営
推古天皇の御代(592年-628年)、再びこの地方に大地震が発生。
推古天皇は「鎮地大神」の宸筆(しんぴつ/天皇直筆の文書)を奉献し国家安穏を祈願。
更に社殿を造営したと伝わる。
推古天皇より賜ったと云う当宮の別称。
現在は当宮の御朱印にも「鎮地大神」の墨書きがされる。
天武天皇の御代(673年-686年)、天武天皇が当地の税の3分の2を寄進。
文武天皇の御代(697年-707年)、文武天皇が宝剣・天晴彦(あめのはるひこ)を奉納。
代々の天皇より寄進を受け崇敬を集めた。
相模国一国一社の霊場・鶴峯山八幡宮と称される
神亀年間(724年-729年)、聖武天皇によって相模国における一国一社の霊場(八幡宮)とされた。
例外はあるものの国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)とも称される事がある八幡宮。
令制国の国衙や国分寺を鎮守する神社が多い。
その国の第一の八幡宮と云う意味合いも強く、当宮は相模国第一の八幡宮とされた。
相模国第一の八幡宮「鶴峯山八幡宮(つるみねさんはちまんぐう)」と称され、崇敬を集めた。
国府祭に参加する相模国六社の一社・相模国五之宮格
相模国には古くから「国府祭(こうのまち)」と呼ばれる祭礼が続けられている。
相模国の有力な5つの大社を国府に近い「六所神社」に祀り総社とした故事によるもので、国司が国の天下泰平と五穀豊穣を神々に祈願した祭礼。
参加する神社は、相模国の有力な5つの大社と総社の計6社。
相模国一之宮「寒川神社」
相模国二之宮「川勾神社」
相模国三之宮「比々多神社」
相模国四之宮「前鳥神社」
一国一社八幡宮(相模国五之宮格)「平塚八幡宮」
相模国総社「六所神社」
毎年5月5日、神揃山(神集山)に六社の神輿が一堂に集う祭り。
約1,200年近くも続けられ、多くの神事が行われる。
当宮は一国一社八幡宮、五之宮格として参加。
国府祭に集う相模国六社の一社とされている事からも、当宮が相模国を代表する古社であり大社だった事が窺える。
源頼朝と北条政子が安産祈願・戦火による社殿の焼失
建久三年(1192)、源頼朝・北条政子が安産祈願をして、神馬を奉納。
この時に生まれたのが後の鎌倉幕府第三代将軍・源実朝。
その後も鎌倉幕府から崇敬を集めたと云う。
文明十八年(1486)、道興が当宮へ参拝し歌を詠んだと云う。
室町時代の僧で、聖護院(京都府京都市)門跡。
道興准后(どうこうじゅごう)とも呼ばれ、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国。
北陸の國を経て関東を廻り奥州まで至っている。
後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』を著しており、当宮も登場する。
戦国時代に入ると、戦乱に巻き込まれる事となる。
永禄十一年(1568)、武田信玄と北条氏康(後北条氏)の甲相同盟が解消され対立。
武田信玄が北条氏康を攻めた際、陣所とされた当宮は戦火に遭い、社殿や古記録を焼失した。
徳川家康より朱印地を賜る・家康自ら参拝
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東への領地替え(関東移封)によって江戸入り。
天正十九年(1591)、徳川家康から50石の朱印地を賜る。
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。
慶長年間(1596年-1615年)、徳川家康が当宮を参拝。
伊奈忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させている。
家康に重宝された武将・大名。
家康によって関東代官頭に任命され、関八州(関東)の幕府直轄領約30万石を管轄。
以後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。
正保三年(1646)、江戸幕府は社殿営繕料として山林2ヶ所を寄進。
徳川将軍家、江戸幕府からも篤く庇護された。
明和二年(1765)、平塚宿の僧・本誉還真(ほんよかんしん)が18年間集めた浄財で青銅鳥居を奉納。
これが現在の二之鳥居として現存。
当時の平塚は東海道7番目の宿場「平塚宿」で、門前の大門通りは交通の要衝として賑わったと云う。
新編相模国風土記稿に記された当宮
天保年間(1830年-1844年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には当宮についてこう書かれている。
(平塚新宿)
八幡社
當宿及八幡、馬入三村の鎮守なり。祭神應神天皇。神躰神秘。(前立の像あり長二尺五寸。弘法作)左に香椎明神。(古は別社あり今境内亀甲山と称する所其蹟なり)右に高良明神。(是も境内丸山の上にありしと云)を配祀す。本地佛阿彌陀。(別當寺本尊なり)當社は當國第五ノ宮(古より八幡宮と稱して五宮の唱はなし。按ずるに東鑑にも四宮の次に八幡宮と載す。又一宮以下祭禮の時、神輿を列する次序も當社第五にあり。一宮は高座郡宮山村、二宮は淘綾郡山西村、三宮は郡中三之宮村、四宮は四宮村にあり)なり。社傳に、神亀年中諸國一宮へ法華経を納められし時、當社へも納め給ひしと云。建久三年八月、源頼朝神馬を奉らる。是夫人安産の祈願に依てなり。(中略)文明十八年、道興准后参ありて和歌を詠ず。(中略)天正十九年十一月、先規に因て社領五十石を賜ふ。年中祭事は正月十五日。(中略)二月初卯日。五月五日。(中略)七月七日。八月十五日。(宿内海邊迄神輿を渡す)十一月初卯日等なり。社地のさま。東海道往還北側に銅鳥居(鶴峯山と扁す)あり。是より大門にして百七十間許入て小橋を渡り、又少く行て池あり。反橋石を架す。爰に二王門建り。是を入、少許の石階を登て社前に至る。幣殿拝殿等あり。又東海道の南側に濱大門と唱ふるあり。(長八十二間餘)
神寶。太刀一振。(中略)刀一口(中略)大般若経全部。
鐘楼。(中略)
東照宮。御神躰幣束。
末社。若宮八幡。天神。諏訪。辨天。愛染。第六天。浅間。荒神。客人。稲荷二。
松樹。神木なり。(中略)又槇の老樹(中略)あり。
供所。
二王門。
別當等覺寺(以下略)
平塚新宿に鎮座していた「八幡社」が当宮。
「當宿及八幡、馬入三村の鎮守なり」とあるように、平塚新宿・八幡村・馬入村の鎮守であった。
現在の浅間町・明石町・紅谷町・宝町・宮松町・宮の前と、追分・立野町・見附町・錦町・八重咲町・代官町の一部などの範囲。
北隣の旧八幡村から分村した所で、元は八幡新宿とか新宿村とも称された。
本村である八幡村の村名の由来は、当宮によるもの。
上述したような御由緒について記されている。
「當社は當國第五ノ宮」とあり五之宮格として知られていた事が分かる。(但し当宮は自称していない旨も記している)
境内の様子についても記載。
現存する青銅鳥居を始め、実に立派だった境内を窺う事ができる。
末社の数も多く、相模国を代表する神社として多くの崇敬を集めた。
別当寺は「等覚寺」(現・廃寺)が担っていた。
明治以降の歩み・関東大震災からの再建
明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、県社に列した。
官からの達示により社号を「鶴峯山八幡宮」から「八幡神社」へ改称。
明治二十七年(1894)、明治天皇の皇女・常宮昌子内親王、周宮房子内親王が参拝。
社殿の前に松を御手植、神池に緋鯉を放生した。
同年測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当宮の鎮座地で、今も昔も変わらない。
平塚町の他、平塚新宿、八幡といった地名を見る事ができ、八幡の地名は当宮に由来する。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
甚大な被害を受け社殿も崩壊している。
昭和三年(1928)、氏子崇敬者の尽力により社殿を再建。
当時の社殿が改修しつつ現存。
昭和二十年(1945)、平塚大空襲によって被害を受ける。
昭和二十年(1945)7月16日、軍事都市として発展していた平塚を襲った空襲。
当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失し、壊滅的な被害を受けた。
昭和二十八年(1953)、神社本庁が包括する別表神社に指定。
昭和五十三年(1978)、現在の「平塚八幡宮」へ改称。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
国道1号線沿いに鎮座・朱色の大鳥居
最寄駅の平塚駅から徒歩10分以内、平塚市役所の南側に鎮座。
東海道(国道1号線沿い)に朱色の大鳥居。
実に立派な大鳥居で当宮への崇敬の篤さが伝わる。
大鳥居の手前に一対の狛犬。
大正十一年(1922)奉納の狛犬。
阿吽供に笑顔のように見える狛犬で、その表情が可愛らしい。
大鳥居の東側にも朱色の鳥居。
宮の前交差点に面しており、こちらは車祈祷所になる。
美しい境内・神池には鯉・アヒルがいる境内
大鳥居を潜ると美しい境内が広がる。
参道の途中に神橋。
左右は神池となっている。
左に平塚弁財天社、右に鶴峯山稲荷社。(詳しくは後述)
東の神池(東御池)には多くの鯉やアヒルの姿。
美しい境内で癒やされる空間。
アヒルは境内の水辺のあたりあちこちで見かける事ができる。
可愛らしいアヒルたちはとても人気。
多くの鳩の姿もあり、鳩は八幡信仰の神使のため、何だか有り難い。
神橋を渡り参道を進むと、左手に手水舎。
綺麗に整備され身を清める事ができる。
江戸時代の青銅鳥居が現存
手水舎で身を清め、参道を進むと二之鳥居。
明和二年(1765)に平塚宿の僧・本誉還真が18年間集めた浄財で奉納した鳥居。
万延元年(1860)に再建され、鳥居再建の発願主と寄進者の人名・村名は合計で358にも及ぶ。
青銅鳥居の手前にも一対の狛犬。
昭和四十六年(1971)奉納の狛犬。
青銅製の狛犬になっていて、青銅鳥居に合わせて奉納されたように思う。
立派な木造社殿・丸に鶴の社紋
青銅鳥居を潜るとその先に社殿。
旧社殿は関東大震災によって倒壊。
昭和三年(1928)に氏子崇敬者の尽力により再建された社殿。
改修されつつよい状態を保っている。
大社らしい実に立派な社殿。
社殿に掛けられた提灯、賽銭箱などに社紋を見る事ができる。
丸に鶴の社紋。
当宮はかつて「鶴峯山八幡宮」と称されており、かつての社号を由来とした社紋になっている。
諏訪社・若宮社・神明社・太子堂など数多くの境内社
拝殿手前右手に境内社が3社並ぶ。
右から諏訪社・若宮社・神明社。
社殿の左裏手に太子堂。
聖徳太子を祀る。
大きな柱に聖徳太子と記されているのが特徴的。
その手前、左手に浅間社や道祖神。
浅間社は、崇善小学校近くの浅間山から遷されたもので、町名・浅間町の由来となった神社。
平塚弁財天社・湘南ひらつか七福神・鶴峯山稲荷社
左の神池に平塚弁財天社。
神池に美しく鳥居が浮かぶ。
当宮には古くから神池があり、弁財天が末社として祀られていた事が江戸時代の地誌などから分かるが、平成二十三年(2011)に整備された一画。
現在は「湘南ひらつか七福神」の弁財天を担う。
池に注ぐ水も綺麗に整備されたもの。
龍の吐水口から水が溢れ池に注がれる。
手前には銭洗いができる一画も。
美しい神池へと流れていく。
神池には舞台も設けられており、神事などで使われる。
右の神池には鶴峯山稲荷社。
小島のように整備されていて橋を渡る形。
平成二十八年(2016)に整備されたばかりで、「鶴峯山稲荷社」の名は当宮がかつて「鶴峯山八幡宮」と称されていた事を偲ぶ。
鎮地大神の御朱印・立体的なオリジナル御朱印帳
御朱印は「平塚八幡宮」の朱印。
墨書きが特徴的で「鎮地大神」の文字。
推古天皇より賜ったと云う当宮の別称。
オリジナルの御朱印帳も用意。
特殊な素材で立体感のある御朱印帳。
表面に鳥居、裏面に狛犬・社紋がデザインされている。
授与品も数多く用意。
豊富に用意されているので、好きなのを頂くのがよいだろう。
境内を巡ってセルフ御朱印を楽しめる開運七社詣
当宮の境内を巡り楽しめる「開運七社詣」が通年で開催。
本社を始め境内社を7社巡る事で「七福招来・七難即滅」の御利益を頂けると云う神社巡り。
いずれも当宮の境内に鎮座する神社なので、開運七社詣をしながら境内散策を楽しめる施策。
各社の近くに開運七社詣用の台が置かれている。
台の上や引き出しの中に、御朱印が置かれているので、頂いた用紙にセルフで押印する形。
なるべく綺麗に使い有り難く頂戴したい。
7社全ての御朱印をセルフで押すと満願。
所感
相模国の一国一社の八幡宮として崇敬を集める当宮。
とても古い御由緒をもつ古社で、古くから朝廷からも信仰を集めたとされる。
相模国の五之宮格として国府祭に参加し、相模国六社の一社として崇敬を集めた。
徳川家康からは50石の朱印地を賜り、江戸時代には実に立派な境内だったと云う。
現在も実に立派な境内を有していて、美しく整備された境内は素晴らしい。
境内にいるアヒルなどに癒やされ、「開運七社詣」を楽しみつつ美しい境内を散策。
実に清々しい気持ちになれる神奈川県を代表する良い神社である。
神社画像
[ 大鳥居・社号碑 ]
[ 狛犬 ]
[ 車祈祷所鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 青銅鳥居 ]
[ 青銅狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 若宮社・神明社・諏訪社 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 御潮 ]
[ 神輿庫 ]
[ 石碑 ]
[ 太子堂 ]
[ 稲穂 ]
[ 道祖神・浅間社・小祠 ]
[ 力石 ]
[ 絵馬展示 ]
[ 御籤掛 ]
[ 浄銭 ]
[ 若松橋 ]
[ 平塚弁財天社 ]
[ 舞台 ]
[ 鶴峯山稲荷社 ]
[ アヒル ]
[ 西鳥居 ]
[ 石碑 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]
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