下谷神社 / 東京都台東区

台東区

概要

都内最古のお稲荷様・下谷神社

東京都台東区東上野に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、下谷地域の総鎮守。
稲荷信仰の神社で、古くは「下谷稲荷」と称され崇敬を集めた。
奈良時代に創建され都内最古のお稲荷様とも称される。
江戸時代に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれたため寄席発祥の地とされる。
拝殿天井には近代日本画壇の巨匠・横山大観が描いた龍の天井絵がある事でも知られる。

神社情報

下谷神社(したやじんじゃ)

御祭神:大年神
相殿神:日本武尊
社格等:郷社
例大祭:5月11日前後の土・日曜
所在地:東京都台東区東上野3-29-8
最寄駅:稲荷町駅・上野駅・京成上野駅・新御徒町駅
公式サイト:https://shitayajinja.or.jp/

御由緒

 天平二年(730)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(1627)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(1680)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
 本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
 「下谷神社」と改称したのは明治五年(1872)である。関東大震災の後、昭和三年(1928)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2024/05/02(御朱印拝受)
参拝日:2023/10/13(御朱印拝受)
参拝日:2023/07/03(御朱印拝受)
参拝日:2023/05/10(御朱印拝受)
参拝日:2023/01/05(御朱印拝受)
参拝日:2022/12/14(御朱印拝受)
参拝日:2022/07/06(御朱印拝受)
参拝日:2022/05/05(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/02(御朱印拝受)
参拝日:2021/12/27(御朱印拝受)
参拝日:2021/08/10(御朱印拝受)
参拝日:2021/06/30(御朱印拝受)
参拝日:2019/09/19(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)

御朱印

初穂料:各500円(月替り)・1,000円(切り絵)
御朱印受付所にて。

※月替り御朱印や季節や祭事に応じた限定御朱印あり。
※「下谷神社」と境内社「隆栄稲荷神社」の御朱印を頂ける。

最新の御朱印情報
5月1日-12日まで「下谷神社大祭限定御朱印」(下谷神社・隆栄稲荷神社の2種類)
※大祭期間中はすべて書き置きのみ。毎日授与数に制限あり。最新情報は公式Instagramにて。
御朱印の受付時間は9時-16時まで。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
御朱印受付所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
当社の拝殿天井に横山大観が描いた龍の天井絵をデザインしたもの。
黒・白・赤の3色展開。
他に書き置き御朱印専用の御朱印帳も用意。(初穂料:1,200円)

歴史考察

奈良時代に創建・現在の上野公園に鎮座

社伝によると、天平二年(730)に創建と伝わる。

天平年間は聖武天皇の御代。都内最古のお稲荷様とも称される。

峡田の稲置たちによって大年神・日本武尊の2柱が祀られて創建したと云う。

峡田の稲置(はけたいなぎ)
稲置(いなぎ)は律令制で地方行政単位の県(こおり)を治める首長のこと。
峡田(はけた)は豊島郡の領名で現在の荒川区周辺。
大年神(おおとしのかみ)
毎年正月にやってくる神で、一年の収穫を表す「穀物の神」として信仰を集める。
現在も残る正月の飾り物は、元々はこの年神様を迎えるためのもの。
『古事記』では、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神とされ、両神の間の子には大年神の他に稲荷神とされる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)がいる。
一般的に稲荷神とされる宇迦之御魂神と大歳神は兄弟神と云う事ができる。
日本武尊(やまとたけるのみこと)
第12代景行天皇の皇子。
東国征討や熊襲征討を行った伝説的な英雄として『日本書紀』『古事記』などに載る。

創建時は忍ヶ岡(現・上野恩賜公園)に鎮座。
奈良時代創建の古社で、地域から崇敬を集めた。

平将門を討った藤原秀郷による社殿造営

天慶二年(939)、東国(関東)にて「平将門の乱」が発生。
天慶三年(940)、平将門討伐のため東国に向かった秀郷が当社へ戦勝祈願。
平定後、報賽して社殿を造営したと伝わる。

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
平安時代中期の貴族・武将。
俵藤太(たわらのとうだ)といった名でも知られる。
近江三上山に伝わる百足退治伝説で知られ、また平将門を討った人物と伝わる。
末裔は源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として関東圏を支配する多くの武家を輩出した。

(大日本名将鑑)

平将門の乱を鎮めた功績により朱雀天皇から鎮守府将軍に任ぜられる様子を描いたもの。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年の作。
秀郷の名が御由緒に残る神社は都内にも幾つかあり、同じく稲荷信仰の「烏森神社」は秀郷による創建と伝えられている。
烏森神社 / 東京都港区
新橋烏森鎮守。カラフル御朱印の先駆け。心願色みくじや朱印護符など豊富な授与品。烏森の由来・烏森稲荷と称される。平将門を討った藤原秀郷による創建。足利成氏の祈願状。徳川将軍家や江戸庶民からの崇敬。近代建築の鳥居と社殿。御朱印帳・黒朱印帳。

その後も長い間、上野の高台である忍ヶ岡(現・上野恩賜公園)に鎮座していたお稲荷様であった。

寛永寺の建立によって遷座・下谷や稲荷町の由来

寛永四年(1627)、「寛永寺」の建立によって境内が「寛永寺」山内になるため遷座を余儀なくされる。
社地を上野の山下(現・岩倉高校付近)に移して遷座。

寛永寺(かんえいじ)
台東区上野桜木にある天台宗関東総本山の寺院。
徳川家光と天海によって徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として創建され、江戸時代には天台宗の本山として強大な権勢を誇った。
現在の上野恩賜公園は殆どが寛永寺の敷地であった。
東叡山 寛永寺 公式ホームページ

延宝八年(1680)、社地が手狭だったため広徳寺前通り(現在・浅草通り)の南側に遷座。
これがほぼ現在の鎮座地で、下谷と呼ばれた地に鎮座したため、当社は「正一位下谷稲荷社」と称された。

正確には関東大震災後の区画整理で東南に50mほど移っている。
下谷(したや)の由来
当社の創建地である忍ヶ岡(現・上野恩賜公園)は上野の高台であった。
下谷の地名は古くからあったと見られているが、上野の高台に対して、その谷間の下にあった事から一帯が下谷と名付けられたとされている。
「寛永寺」創建後は門前町として発展していく事となる。

また当社が鎮座した事で、当地周辺は「稲荷町」と称された。

現在も東京メトロ銀座線・稲荷町駅にその名が残る。

江戸切絵図から見る当社と下谷周辺

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(下谷絵図)

こちらは江戸後期の上野や下谷の切絵図。
右が北の地図で、当社は中央下側に描かれている。
右上に描かれているのが「寛永寺」で、現在の上野恩賜公園。
青色部分が不忍池となる。

当社は創建時はこの「寛永寺」周辺に鎮座していた。

(下谷絵図)

当社周辺を拡大し反時計回りに90度回転させ北を上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に「下谷稲荷」と記されていて、これが当社。
稲荷信仰の神社として信仰を集めていたのが窺える。

山生亭可楽によって寄席が開かれる・寄席発祥の地

江戸時代には大変な賑わいだった当社の境内では、御開帳や人形芝居などが行われた。
祭礼の時には盛大な行列が見られたと云う。

寛政十年(1798)、当社の境内で山生亭可楽によって寄席が開かれる。
これが江戸で最初の寄席とされているため、当社は寄席発祥の地とされる。
現在は当社の境内に「寄席発祥之地」と云う石碑が設置。

山生亭可楽(さんしょうていからく)
初代・三笑亭可楽とされる人物で、通称は京屋又五郎。
最も古い落語家(噺家)の1人で、寛政十年(1798)に山生亭花楽を名乗り3人のアマチュア噺家と共に当社で5日間の寄席を開き、後に三笑亭可楽に改名。
その後名跡となり、当代は九代目・三笑亭可楽。
寄席(よせ)
落語・講談・浪曲・漫才・などの演芸を観客に見せる興行小屋。
当初は「寄せ場(よせば)」と呼ばれ、後に寄席の名が定着。
当社の境内の賭け小屋で、一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせたのが、江戸における最初の寄席興行と伝わっている。

境内での様々な催しなどもあり、当社の境内は大いに賑わった。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「下谷稲荷明神社」として描かれているのが当社。
鳥居の前に神門、その先に立派な社殿を見る事ができる。

この社殿は関東大震災によって焼失。

参道には狛犬ではなく、神狐像が描かれていて、やはりお稲荷様として信仰を集めた。
鳥居の左手に小屋が見えるが、茶屋なのか、これが寄席が行われたりした賭け小屋なのかは資料の状態が悪く不明だが、こうして多くの参拝者によって賑わった。

明治以降の歩み・関東大震災後の再建

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、社号を「下谷神社」に改称し、村社に列する。
明治六年(1873)、郷社に昇格した。

明治十一年(1878)、下谷区が成立。
成立時の段階で町丁数は75(その後も多く編入)もあったが、当社は下谷地域の総鎮守を担った。

台東区は戦後に下谷区と浅草区が合併して成立。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、ほぼ現在も変わらない。(50mほど移動はしている)
当社周辺に「稲荷町」の文字が見え、「下谷稲荷」と称された当社が由来となって付けられた町名。

当時は北稲荷町・南稲荷町に分けられていた。現在は稲荷町の町名は消滅しているが、東京メトロ銀座線・稲荷町駅にその名が残る。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。

「下谷神社」として、当時の写真が記録されている。
江戸時代の頃から崇敬を集めた社殿の貴重な写真。(翌年の関東大震災で焼失)
現在も境内の造りが似ている。

大正十二年(1923)、関東大震災によって社殿が焼失。

昭和三年(1928)、区画整理によって50m程東南に移る。
昭和九年(1934)、社殿が竣功し本遷座が行われた。
拝殿屋根には日本画家・横山大観が龍の天井絵を描いている。(詳しくは後述)

東京大空襲の被災は免れ、この社殿が現存。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

現在は下町八社巡りの一社を担っている。

下町八福神 - 浅草 鷲神社公式ホームページ
酉の市 起源発祥 浅草 鷲神社の公式ホームページへようこそ

境内案内

浅草通り沿いにある朱色の大鳥居

最寄駅の稲荷町駅からは徒歩すぐの距離に鎮座し、上野駅からも徒歩数分。
浅草通り沿い、下谷神社前の交差点に大きな朱色の鳥居。
昭和八年(1933)に建立された大鳥居。
昭和二十八年(1953)に補修が行われ、その後も塗り直しなどがされ現存している。

大鳥居を潜ると奥に境内が見えてくる。
二之鳥居より先が神域。

二之鳥居・花手水にもなる手水舎・神門

参道を進むと二之鳥居。
右手に「下谷神社」の社号碑。
二之鳥居を潜ると静かな空間となる。

参道の左手に手水舎。
中々にしっかりした彫刻が設けられた手水舎。

手水舎は花手水も
毎月朔日(1日)に合わせて季節感を感じる花手水も。
こちらは2022年三が日に撮影した花手水。
こちらは2022年の5月5日に撮影した花手水。
こちらは7月6日に撮影した七夕仕様の花手水。
2024年5月にはパンダのぬいぐるみも。

参道の正面に神門。
『江戸名所図会』や大正時代の古写真にも神門が設けられており、当時の境内を踏襲。
神門には千社札が多く貼られているのが特徴的。(現在は千社札の貼り付けは厳禁)
神門前にも賽銭箱が置かれていて、ここから参拝する事も可能。

神門の手前には寄席発祥之地の石碑。
上述した通り、寛政十年(1798)に当社の境内で山生亭可楽によって寄席が開かれたのが、江戸で初の寄席とされる事から建立された。

関東大震災後に再建された木造社殿

神門を潜ると更に静かな空間となり、その先に社殿。
江戸時代の頃からの社殿は関東大震災によって焼失。
その後の区画整理で50m程東南に移し、昭和九年(1934)に竣功した社殿。
風格のある木造社殿で、東京大空襲の戦火は免れている。
木鼻にも美しい彫刻。
本殿も同様に造営されたもので状態よく維持されている。

拝殿前に一対の狛犬。
昭和九年(1934)に奉納されたものなので、社殿の再建に合わせて奉納されたものだろう。
戦前の狛犬らしい招魂社系のシュッとした造形。

拝殿には横山大観による龍の天井絵

拝殿には実に見事な天井絵が描かれている。
池之端茅町(現・台東区池之端)に住んでいた日本画家・横山大観が、社殿再建に際し宮司や氏子の依頼を受け描いたもの。

横山大観(よこやまたいかん)
明治から昭和にかけて活躍した日本画家。
近代日本画壇の巨匠で、「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる独特の没線描法を確立。
第1回文化勲章受章、茨城県名誉県民、東京都台東区名誉区民。

大変な酒好きと知られた大観は、人生後半の50年は飯を殆ど口にせず、酒と肴だけで済ませていたと云う逸話もある程で、そうした大観と当社にも酒好きな大観についてのエピソードが残されている。

横山大観と天井絵とお酒
神社や氏子の依頼を多忙の中、快諾して見事な龍の天井絵を描いた大観。
拝殿天井に収まった絵を見に来た時、既に贈呈していた揮毫料を持ってきて、「立派な社殿を造るのにさぞやお金が掛かっただろう。神様の事だからこれはそっくり奉納する。こんなお金持ってこなくていいから、もっと大勢で両手に酒ぶら下げて来い。」と伝えたと云う。
結果、参列者一同が大観の邸宅にお酒を持って御礼に行き、この時の大宴会が御礼の代わりになったと云うエピソードで、神社や氏子にとって大変有り難い話だったと云う。

社務所にてお願いすると、昇殿してこの天井絵を見る事ができる。
その際に、「昇殿参拝・天井絵見学に際してのお願い」と云う紙を頂くので、それをよく読んだ上でマナーを守って参拝と天井絵を拝見したい。

必ず社務所に声掛けをすること。写真撮影は天井絵のみ可能となっている。

下から見上げると圧巻の龍。
当社の絵馬や御朱印帳にもデザインされている天井絵。
ぜひ参拝した際は、お願いして昇殿させて頂くのがよいと思う。

家内安全と商売繁盛の守護神・境内社の隆栄稲荷神社

参道の左手に境内社の隆栄稲荷神社。
朱色の鳥居が多く設けられているお稲荷さん。
家内安全・商売繁盛の守護神として信仰され、御祭神は宇賀魂命(うかのみたまのかみ)。
本社と同じく稲荷信仰であるが、こちらは一般的なお稲荷様を祀る。
社殿の向かいには多くの神狐像が置かれた狐塚。
力石なども置かれている。

水と芸能のパワースポット

当社は水と芸能のパワースポットとして人気を集めている。
水に関連する職業、芸能に関係する職業にいい影響を与える他、過去を水に流す、何かを清算するなど新たな門出にもいいと云われていると云う。
多くの信仰を集めているため、日頃から当社に立ち寄り参拝してから出かける方の姿を大変多く見る事ができる。

また拝殿近くには亀の姿。
亀のジェニー。
生き物が飼育されているのが特徴的で、以前は当社のマスコット的な存在だったアヒルのガーちゃんなどが飼育されていた。

当社の公式X(Twitter)はこの亀のジェニーがつぶやく設定になっている。
https://twitter.com/Shitaya_jinja/
アヒルのガーちゃん・テバちゃん・サキちゃんは、2018年春に横浜市内の池がある家の方が引き取ったため、現在は当社境内にはいない。

下谷神社と隆栄稲荷の御朱印・毎月の限定御朱印

御朱印は御朱印受付所にて。
丁寧に対応して下さった。

御朱印は通常時は2種類用意。
左が境内社・隆栄稲荷神社の御朱印で、右が下谷神社の御朱印。

毎月朔日(1日)限定で、月替りの限定御朱印を用意をしていたが、新型コロナウイルス対策のため現在は基本的に月替りで末日まで頂ける。

月替りの御朱印の他に祭事や季節に応じた限定御朱印も用意。
こちらは2021年6月30日限定で授与された夏越大祓御朱印。
こちらは2021年8月限定の御朱印で花火とパンダの印が可愛らしい。
2021年12月に頂いた御朱印にはお掃除パンダの姿。
こちらは2022年5月5日に頂いた例大祭御朱印。

2022年7月には七夕祭と夏詣御朱印の2種類を用意。
パンダや涼しげな七夕祭御朱印。
夏らしさを感じる夏詣御朱印で、いずれもなくなり次第終了。

2022年12月には帳面に直接頂けた。
コタツでくつろぐパンダの可愛らしい御朱印。

2023年正月に頂いた御朱印。
金の墨書きで謹賀新年の御朱印。

2023年7月に頂いた七夕御朱印。
2社と頂くと見開きで天の川、そしてパンダの織姫と彦星が可愛らしい。
夏詣御朱印も見開きで連なる仕様。

2023年10月に頂いた御朱印。
芸術の秋でピアノを弾くパンダとお供えの柿。

2024年5月に頂いた大祭限定御朱印。
神輿に箔押しの社紋。

龍の天井絵の切り絵御朱印・神輿の切り絵御朱印

2022年元日より数量限定で切り絵御朱印を授与。
横山大観が拝殿天井絵に描いた龍を切り絵風のくり抜きでデザイン。
切り絵感を透かして楽しめるようにキラキラなあて紙付き。
当社らしい素敵な御朱印。

数量限定でなくなり次第終了。

2022年5月1日からは例大祭に合わせて切り絵御朱印を授与。
今回は本社神輿の切り絵御朱印。
金紙のあて紙付き。

2023年も元日より数量限定で切り絵御朱印を授与。
境内の狛犬を切り絵でデザイン。
今回はあて紙はなしだがしっかりとデザインされた切り絵御朱印。

2023年も5月1日からは例大祭に合わせて切り絵御朱印を授与。
2022年に授与した神輿の切り絵と同じデザインで、髪の色が違う。
金紙のあて紙付き。

2024年5月の例大祭に合わせた大祭限定御朱印も切り絵仕様に。
神輿渡御の様子をデザインしていて金のあて紙付き。
2024年の例大祭は5月10日-12日に開催で本社神輿渡御は12日。

天井絵の龍をデザインした御朱印帳は全3色

オリジナル御朱印帳も用意。
表面には横山大観による龍の天井絵をデザインしたもの。
力強いデザインで人気を誇る。

御朱印帳は黒・白・赤の全3色で、横山大観による龍を持ち運べるのは嬉しい。
さらに書き置き専用の挟む形式の御朱印帳も用意。

所感

都内最古のお稲荷様とも称される古社。
古くは上野恩賜公園がある忍ヶ岡と云う場所に創建され、「寛永寺」建立にあたって移転。
高台であった忍ヶ岡から、上野の山下である下谷に移り、結果的に下谷地域の総鎮守として信仰を集めた。
江戸時代の頃から大いに賑わったようで、寄席発祥の地となった事からも賑わいが窺える。
関東大震災からの復興にあたり、現在の社殿が造営される事になるが、この社殿には横山大観による龍の天井絵が描かれており、東京大空襲の戦災を免れたため、現存しているのが実に素晴らしい。
ぜひ昇殿参拝させて頂き、吸い込まれるような龍の天井絵を見上げて欲しい。
上野や下谷地域の歴史と信仰を伝える良い神社であり、今もなお参拝者が絶える事のない、地域にとって大切な良い神社である。

Google Maps

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