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概要
都内唯一の出雲大社分祠
東京都港区六本木に鎮座する神社。
「出雲大社」(島根県出雲市)からの分祠で、都内唯一の「出雲大社」分祠。
教派神道・出雲大社教の包括下で、当社も出雲大社教の東京出張所を兼ねている。
正式名称は「いずもおおやしろ」だが、一般的には「いずもたいしゃ」と呼ばれる。
六本木のビルの内部に神殿(拝殿)が設けられており、二拝四拍手一拝の出雲式の作法で拝礼するのが特徴。
神社情報
出雲大社東京分祠(いずもおおやしろとうきょうぶんし/いずもたいしゃとうきょうぶんし)
御祭神:大国主大神
社格等:─
例大祭:4月15日(春季大祭)・10月15日(秋季大祭)
所在地:東京都港区六本木7-18-5
最寄駅:六本木駅
公式サイト:http://www.izumotaisya-tokyobunshi.com/
御由緒
出雲大社東京分祠は出雲大社(島根県)の御分霊を奉斎する都内唯一の分祠であり東日本の要として、第八十代国造・出雲大社初代館長の千家尊福公によって、明治十一年、千代田区の神田神社社務所内に、東京主張所を設けたのに始まります。神田神社は、出雲大社と御祭神が同じだけでなく、当時の宮司は平田学派の平田盛胤でその関係も深く、また初代の出張所長は本居宣長の学統を継ぐ本居豊頴で、祭神論の当時は東京における出雲派の拠点でもありました。やがて、明治政府の宗教政策により神職による布教が禁じられたことで、明治十五年五月尊福公は出雲大社教の特立をはかることになりますが、それに先立って東京出張所は明治十五年四月麹町区上二番庁に移転されました。明治十六年五月には東京出張所に神殿を設立し、尊福公が親しく出雲より御分霊を奉じて鎮座し、出雲大社東京分祠が建立されました。落成式には有栖川宮畑家幟仁親王の御臨席を仰ぎ神殿には同宮の筆になる「経国治幽」の額が掲げられました。この時、明治天皇から大和錦二巻を御下賜せられたこと、及び尊福公自ら建立したことは分祠の歴史の深さを示すものに外なりません。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
出雲大社大宮司によって創設された出雲大社教
「出雲大社」の分祠である当社は、出雲大社教の東京出張所も兼ねる。
まずは「出雲大社」と密接な関わりを持つ出雲大社教と当社の歴史について触れたい。
島根県出雲市大社町に鎮座する神社。
出雲国の一之宮で、出雲信仰の総本社にあたり、出雲大社教の宗祠。
古代より杵築大社(きずきたいしゃ/きずきのおおやしろ)と呼ばれていた古社で、出雲の神である大国主大神を御祭神とし、古くから全国的な崇敬を集め、現在は縁結びの神様としても信仰を集める。
明治六年(1873)、「出雲大社」大宮司の千家尊福が出雲信仰の布教のため「出雲大社敬神講」を創設し、「出雲大社」社務所内に大社教院を設けた。
「出雲大社敬神講」は「出雲大社教会」と改称され、布教の教会とされた。
代々「出雲大社」宮司を務める出雲国造家に生まれ、第80第出雲国造となる。
出雲大社大宮司、初代・神道大社教管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事、司法大臣、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。
これが現在の出雲大社教の淵源と云える。
神田神社に設けられた東京出張所が当社の起源
明治十一年(1878)、千家尊福は東京及び東日本での布教の要として「神田神社」社務所内に「出雲大社教会」の東京出張所を設けた。
この東京出張所が当社の起源と云える。
祭神論争や神官教導職分離令を受け出雲大社教を発足
明治十三年(1880)、祭神論争が勃発。
明治十四年(1881)、明治天皇の勅裁によって実質的に伊勢派の勝利で決着。
神道事務局(「伊勢神宮」を中心に全国の神社や、神官や民間の神道系講社に属する教導職が集い結成された組織)の神殿に祀る御祭神を巡り、神道界に激しい論議を起こした論争。
「伊勢神宮」大宮司ら伊勢派によって、御祭神は造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)と天照大神の四柱を祀る事としたが、それに対して千家尊福を中心とする出雲派は生死一つながらの「幽顕一如」を掲げ、御祭神に大国主大神を加えた五柱にすべきとした。
出雲派支持者が数多く出たものの、結果的に明治天皇の勅裁によって四柱を祀る伊勢派の勝利となった。
明治十五年(1882)、政府が神官教導職分離令を発布。
神社は国家の宗教であるので神官(神職)は祭祀のみを行い教導・布教する必要はないという法令で、神官が教導職を兼ねる事や葬祭を行う事を禁止した。
この法令により教導職は神社の祭事に専念するか、布教の道に進むかの岐路に立たされる事になり、多くの教派神道が生まれる事となった。
この法令によって神官による布教が事ができなくなったため、千家尊福は独立を決意。
「出雲大社」と分立する形で「神道大社派」を設立。
さらに「神道大社教(現・出雲大社教)」と改称。
千家尊福は「出雲大社」大宮司の職を後継の弟へ譲り、自らは「神道大社教」の初代管長となり、精力的に全国を歴訪し布教に専念した。
幕末から明治にかけて起こった神道系新宗教教団を教派神道(きょうはしんとう)と呼ぶ。
中でも明治時代に教派として公認された14の教団を指し、後に1団体が離脱したため13団体となった事から神道十三派と呼ばれた。
「神道大社教(現・出雲大社教)」も教派として公認された神道十三派の1つであった。
神殿を造営し出雲大社東京分祠が建立
明治十五年(1882)、「神田神社」社務所内の東京出張所を東京府麹町区上二番町(現・千代田区二番町)へ移転。
明治十六年(1883)、東京出張所に神殿(社殿)を造営。
千家尊福によって「出雲大社」の分霊が祀られ「出雲大社東京分祠」(当社)が建立。
明治二十二年(1889)、麻布区材木町(現・港区六本木)に遷座。
これが現在の鎮座地となっている。
明治三十一年(1898)、神前結婚式を執り行う。
更に神葬祭に関しても数多の元勲の国葬を奉仕している。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は赤円で囲った場所で今も昔も変わらない。
当時の地図にも神社の地図記号が記されている。
また材木町や六本木町という地名も見ることができる。
現在は六本木駅周辺の当地であるが、古くは麻布材木町と呼ばれた一画であった。
昭和二十年(1945)、東京大空襲で神殿(社殿)が焼失。
霞町1番地に仮神殿を建て教務を再開。
戦後の再建・出雲大社教へ改称・現社殿の造営
昭和二十一年(1946)、「神道大社教」から「出雲大社教」へ改称。
同年、文部省の指示により実践女学園の「香雪神社」(御祭神は実践女学園の校祖・下田歌子)が廃祀。
「香雪神社」社殿を東京分祠に遷座。
昭和二十六年(1951)、「出雲大社」と「出雲大社教」が復帰統合。
昭和三十六年(1961)、現在地に社殿を再建。
木造社殿で再建され、旧「香雪神社」の社殿を祓社として祭祀。
昭和五十四年(1979)、社殿改築のため港区南青山町に仮神殿を設け一時遷座。
昭和五十五年(1980)、現在の社殿が竣工。
六本木界隈の開発に伴い、鉄筋コンクリート造の社殿として整備された。
その後も「出雲大社」出雲大社教の布教機関(分祠)と云う形で、崇敬を集め続けている。
境内案内
六本木の路地裏に鎮座・ビルの3階に神殿(社殿)
最寄駅の六本木駅からは徒歩数分の距離の路地裏に鎮座。
繁華街である六本木エリアに鉄筋コンクリート造の建造物。
ソフィア六本木と云うビルになり、現在はオフィスビルなどとしても利用されている。
北東側に当社の入口。
「出雲大社東京分祠」の表札。
階段を上ると2階部分に辿り着くが、神殿(社殿)は更に上。
左手の階段より更に上に向かうと3階部分に神殿(社殿)などが置かれている。
身を清める手水舎と祓社(はらいのやしろ)
3階部分に到着して正面には拝殿があるが、左手に手水舎があるので最初はそちらへ。
手水舎で身を清めてから、拝殿へ行く前にその左手にある祓社へ。
祓社(はらいのやしろ)と呼ばれる古い社殿。
神殿(社殿)へ参拝前にこちらで身を清める場所。
こちらにお参りしてから、神殿(社殿)に向かう形となる。
昭和二十一年(1946)、文部省の指示により実践女学園の「香雪神社」が廃祀。
御祭神は実践女学園の基礎を築き女子教育の先覚者である下田歌子であった。
同年、「香雪神社」の社殿が当社に遷座され、現在では祓社として利用されている。
細かい彫刻が施された社殿。
神殿では二拝四拍手一拝で拝礼
ビルの3階部分の中央に神殿(社殿)。
拝殿になっていて参拝する形だが、一般的な神社とは拝礼作法が少し違う。
「出雲大社」での参拝作法である出雲式の「二拝四拍手一拝」での拝礼。
一般的な神社の二拍手と違い、四拍手となっている。
一般神社では二拝二拍手一拝だが「出雲大社」では二拝四拍手一拝が作法。
一般神社で二拍手に統一されたのは明治初期に神社祭式が統一されてからの事で、それ以前は神社によって違いがあり、出雲式は古い作法を維持している。
特に由緒ある神社や社格の高い神社では、拍手の数が多い古い作法を用いることがあり「出雲大社東京分祠」でも二拝四拍手一拝を拝礼作法としている。
出雲大社の神様は縁結びの神
「出雲大社」の御祭神・大国主大神は古くから縁結びの神様として知られる。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に、天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる神。
国津神(天孫降臨以前より国土を治めていた土着の神)の最高神ともされ、古くから「出雲大社」の御祭神として知られる。
民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合していった。
神代の昔、大国主大神は夫婦の縁結びの範を示した事。
旧暦10月には全国の八百万の神々が「出雲大社」に参集(10月の異称:神無月の由来)、大国主大神御許で諸々の縁結びの御神議をされるという故事。
こうした事から、古くより「縁結びの神」と称されるように。
男女の縁結びだけでなく、様々なご縁を結ぶ神として崇敬を集めている。
出雲大社教の教信徒の方だけでなく、都内有数の縁結びの神社として多くの方が参拝に訪れる。
こうした理由から一部では「東京三大縁結び神社」に挙げられる。
https://jinjamemo.com/archives/izumotaishatokyobunshi.html
絵馬掛にも縁結びの願いが多数。
そんな絵馬掛の近くには兎の像。
御祭神との故事「因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)」の伝承から「出雲大社」系にはうさぎが置かれる事が多い。
御朱印には縁の印・幸魂奇魂守給幸給
御朱印は社務所にて。
拝殿の右手に社務所があり、御朱印の受付はこちらで行っている。
御朱印は亀甲の朱印で、更に「縁」の押印がされ「縁結びの神」である当社らしい御朱印。
更に「幸魂奇魂守給幸給」の印も押印されている。
こちらは2022年に頂いた御朱印。
2023年に頂いた御朱印。
「出雲大社」の神語で、「さちみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ」と読む。
いわゆる「出雲大社」(出雲大社教)の唱詞(となえことば)で、一般的に三唱すること多い。
オリジナル御朱印帳・出雲大社と同じ授与品も
オリジナルの御朱印帳も用意。
「出雲大社」で頒布されていたものと同じもの。(現在も「出雲大社」で頒布しているか不明)
筆者が頂いたのは紺色の御朱印帳で御朱印代込なのはありがたい。
御朱印帳や授与品などは神殿(社殿)左手の授与所にて。
御朱印帳はこちらで頂いて社務所で御朱印を頂く形。
授与品も「出雲大社」の授与品が頒布。
基本的に「出雲大社」と同一のものを授与しているため「出雲大社」に行けない場合も、都内で同じものを授与して頂けるのは大変有り難い。
所感
六本木の繁華街の路地裏に鎮座する当社。
「出雲大社」の分祠であり、「出雲大社」と密接な関わり(現在は統合されている)出雲大社教の東京出張所を兼ね、神社でありながら布教機関(教会講社)のような役割を持つ。
そのため教会と云う呼び名のほうが正しいようにも思え、社殿を神殿と呼ぶのもそのためだろう。
縁結びの神様としても知られる「出雲大社」は、古来大変重要な神社として信仰を集め続けている。
そうした「出雲大社」の都内唯一の分祠。
「出雲大社」で授与している授与品はこちらで授与して頂けるため、東京からは遠い「出雲大社」に東京にいながらもこうして触れる事ができるのは、何とも有り難い事である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※以前は初穂料300円だったが2023年参拝時は500円に変更。
御朱印帳
オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円(御朱印代込)
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
以前「出雲大社」(島根県出雲市)で頒布していた御朱印帳と同じもの。
「出雲大社」の社殿がデザインされた御朱印帳で、えんじ色と紺色の2色。
御朱印代込で帳面に書いて下さる。
授与品・頒布品
交通安全守
初穂料:1,000円
授与所にて。
「出雲大社」と同じ交通安全守。
木札とステッカーのセット。
参拝情報
参拝日:2024/08/20(御朱印拝受)
参拝日:2023/12/04(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2022/03/01(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/12/28(御朱印拝受)
参拝日:2016/04/05(御朱印拝受)
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