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概要
旧飯倉町鎮守の熊野さま
東京港区麻布台に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧飯倉村(飯倉町)の鎮守。
奈良時代に芝浦の海辺に創建したと伝わる古社。
東京タワーからほど近い場所に鎮座する小さな神社。
現在は「港七福神めぐり」の恵比寿神を担っている。
社紋の八咫烏の繋がりで、日本サッカー協会公認の「サッカー御守」が授与されている事でも知られる。
神社情報
飯倉熊野神社(いいくらくまのじんじゃ)
御祭神:素戔嗚尊(武速須佐之男大神)・伊弉諾尊(伊邪那伎大神)・伊弉冉尊(伊邪那美大神)
相殿神:塩竈大神・宇迦之御魂大神・火之加具都知大神
社格等:村社
例大祭:6月1日-3日(暦により変更)
所在地:東京都港区麻布台2-2-14
最寄駅:神谷町駅・赤羽橋駅
公式サイト(X):https://twitter.com/iikurakumano
御由緒
本社は、御遷座以来幾多の回禄に遭い、由緒沿革など記載の古書及び宝物等は、悉く焼失され創立年代など詳細は不明ですが、当社の伝えに依ると元正天皇御代(680-748)、養老年間(717-724)芝浦海辺の地に鎮座ありと。また文明年間(1469-1487)太田道灌(持資)により再建され、併せて数多の品物を寄進されたとある。御府内備考の丁亥書によれば慶祚阿闇梨が勧請とあり。慶祚は九世紀の人でありますので、如何に旧い由緒を有する御社か分かります。又江戸志、江戸名所図絵には、「養老年中に芝浜に勧請後この所に遷す云々」とあり、凡そ南北朝時代には、現今の地に鎮座せるものと推定されます。諸説更に研究を進めなければなりませんが、その御鎮座は、極めて古い時代であることは間違い御座いません。そもそも当御社は、武家の崇敬殊に厚く仕官の際には当社に詣で牛王神符を拝受されておりました。
明治五年村社(旧社格)に列せられました。昭和二十年五月二十五日、大東亜戦争、米軍B29爆撃により、御社殿(元禄十六年以後建立)、神楽殿(安政二年建立)社務所(大正十二年建立)及び多数の宝物類を悉く焼失。以後昭和二十七年七月まで仮本殿にて奉齋しておりました。その後、二の橋、小野工業所より本殿が寄進(昭和二十七年六月・間口一間・奥行一間半、総欅瓦葺)され、同年八月遷座祭を行いました。昭和三十二年七月飯倉小学校講堂建設の為、隣接境内地を譲渡し、その基金を主に氏子各氏の寄付を仰ぎ、本殿・社務所を造営、昭和三十三年十月遷座。昭和四十年七月、東京都路面拡張に伴い境内地の前面を削られ、その際、玉垣等改築、鳥居・社号標を建立し十月慶奉祝祭を行い、平成二十一年七月より社務所ビルの建築を開始し、平成二十二年五月竣工を向え、現在の境内模様となりました。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
奈良時代創建の古社・芝浦海辺に創建
社伝によると、養老年間(717年-724年)に創建と伝えられている。
芝浦の海辺に勧請されたと云う。
創建の地は芝浦海辺とあり、現在より東側の海辺に創建したと見られる。
別説として応永年間(1394年-1428年)に慶祚と云う阿闍梨が紀州の熊野三山を勧請したとも伝えられている。
熊野信仰の当社は「熊野権現」と称され崇敬を集めた。
熊野三山(現・和歌山県)に祀られる神々である熊野権現を祀る信仰。
熊野三山とは、和歌山県の「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社の総称で、全国に3,000社近くある「熊野神社」の総本社にあたる。
古くは神仏習合の色濃い信仰で、熊野三山に祀られる神々を、本地垂迹思想のもとで熊野権現と呼ぶようになった。
太田道灌による再建・飯倉の地に遷座
文明年間(1469年-1487年)、太田道灌により再建。
更に道灌は宝物を寄進したと伝わる。
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
当社下の平坦な土地を「勝手が原」(現・赤羽橋付近)と呼び、道灌が江戸城より出陣する際に兵馬を整えたとされている。
また、当社には境内社として「稲荷社」が鎮座していて、道灌が戦勝の奉賽として鯛を供えた戦勝祈願した事から「恵比寿稲荷」もしくは「太田稲荷」として信仰されるようになったと云う。
平成二十一年(2009)以降は「恵比寿稲荷(太田稲荷)」は当社に合祀されていたが、令和二年(2020)に境内社「恵比寿大田稲荷社」として社殿が竣工した。
江戸切絵図から見る当社と飯倉
江戸時代には飯倉村の鎮守として「飯倉熊野権現社」と称された。
江戸初期までの飯倉村はのどかな農村であったと云う。
歴史的に古い地名で鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に「源頼朝が伊勢神宮内宮荒木田成長へ飯倉御厨を寄進」といった旨が記されている。
昔からの穀物の倉を意味していたと伝わる。
寛文二年(1662)、飯倉周辺は市街地化したため町奉行支配となった。
当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当社は図の中央左に描かれている。
赤円で囲ったのが当社の鎮座地で「熊野社」と記されている。
青円で囲ったところに「飯倉」の文字を見る事ができ、当社は飯倉3丁目から4丁目にかけて鎮座。
飯倉周辺は武家屋敷になっていて、当社は一帯の鎮守として崇敬を集めた。
江戸名所図会に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「飯倉熊野権現社」とされているのが当社。
今よりはやや規模が大きい事が窺え境内社も見る事ができる。
飯倉の地は往来も多く賑やかった頃が分かる。
「寛永寺」が近くにあった立地で、参拝者も多かったようだ。
別当寺は「寛永寺」の末寺である「正宮寺」(現・廃寺)が担っていた。
明治以降の歩み・戦後の再建と社地縮小
明治なり神仏分離。
別当寺と分離し、「熊野権現社」から「熊野神社」へ改称。
明治五年(1872)、村社に列した。
明治二十一年(1888)、陸奥国一之宮「鹽竈神社」(宮城県塩竈市)より塩竈大神を勧請し合祀。
明治二十九年(1896)、近隣にあった「三田稲荷神社」を合祀。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は赤円で囲った場所で、今も昔も変わらない。
既に発展した地であり「増上寺」の大部分は芝公園となっている。
飯倉を冠した地名も幾つか残っていて、当社を中心とした一画が飯倉町と呼ばれた。
昭和二十年(1945)、東京大空襲の被害を受ける。
社殿・神楽殿・社務所・宝物などを悉く焼失。
昭和二十七年(1952)、小野工業所の寄進によって本殿を再建。
昭和三十二年(1957)、当時隣接していた飯倉小学校の講堂建設のために社地を一部譲渡。
その基金を基に氏子の寄付によって本殿と社務所を造営。
昭和三十三年(1958)、遷座祭が行われた。
現在の社殿はこの当時のものが改修されつつ現存。
昭和四十年(1965)、桜田通りの拡張のため更に社地が削られた。
平成二十一年(2009)、「愛宕神社」「太田稲荷神社」を合祀。
平成二十二年(2010)、社務所ビルが完成。
令和二年(2020)、「恵比寿太田稲荷社」を境内社として再整備。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
桜田通りに面して鎮座・小さな鎮守
東京タワー近く桜田通りに面して鎮座。
通りに面して「熊野神社」の社号碑と鳥居。
古くは現在の桜田通り側に社地が広がっていたものの、昭和四十年(1965)桜田通りの路面拡張によって社地が削られ、現在の小さな境内となった。
鳥居を潜るとすぐ正面に玉垣があり社殿。
左手の社務所ビルに最新の手水舎が設けられている。
ビルと一体となっている現代的な造りで、水は近づけると自動で出る仕組み。
参道途中に石像。
由緒などは不詳であるが廃寺となった寺から遷されたものであろうか。
戦後に再建された社殿・多くの神を祀る
狭い境内の中にこぢんまりとした社殿。
東京大空襲によって『江戸名所図会』に描かれていた旧社殿が焼失。
昭和二十七年(1952)に本殿が再建されたが、更に昭和三十三年(1958)に再造営。
鉄筋コンクリート造による社殿で改修されつつ現存。
当社には主祭神として熊野権現である神々を祀る他、旧境内社や近隣の神社の神なども祀られている。
主祭神:熊野権現(素戔嗚尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊)
相殿神:塩竈大神(鹽竈神社)・宇迦之御魂大神(三田稲荷神社)・火之加具都知大神(愛宕神社)
太田道灌ゆかりの恵比寿太田稲荷社
社殿の手前右手に境内社。
令和二年(2020)の年末に竣工したばかりの恵比寿太田稲荷社。
太田道灌が戦勝の奉賽として鯛を供えた戦勝祈願した事から「恵比寿稲荷」もしくは「太田稲荷」として信仰されるようになった境内社。
平成二十一年(2009)に本社に合祀されたものの、令和二年(2020)にこうして境内社として再整備された。
恵比寿様らしい鯛の絵馬も。
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
島崎藤村お気に入りの散歩道・近くには東京タワー
当社を含む飯倉の地に関連する人物として島崎藤村がいる。
明治から昭和の戦前までに活躍した詩人。
ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。
さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。
藤村は47歳-65歳の約18年間を飯倉付近で過ごし、生涯の中で最も長く住んだ地域であった。
そのため当社を含んだ一画がお気に入りの散歩道だったと云われていて、『夜明け前』『飯倉だより』『ふるさと おさなものがたり』『飯倉付近』などの作品に、当社を含む飯倉の地を記している。
現在は東京タワーのすぐ近くに鎮座しているため、当社前から東京タワーが見える。
社頭から見ると先端部分しか見えないが、少し坂を下るとビルの間から綺麗な東京タワーの姿。
島崎藤村がお気に入りとしていた散歩道とは随分と様相は変わっているだろうが、現在も散歩コースにもってこいの素敵なエリアである。
『鬼滅の刃』恋柱・甘露寺蜜璃の産土神
当社が鎮座する旧飯倉周辺は漫画『鬼滅の刃』の公式設定でも出てくるエリア。
『鬼滅の刃』に登場する恋柱・甘露寺蜜璃の出身地は公式設定で「東京府麻布区飯倉(港区、麻布台)」と記載。(『鬼滅の刃 公式ファンブック 鬼殺隊見聞録』より)
東京府麻布区飯倉(港区、麻布台)出身のため古くから飯倉鎮守である当社は甘露寺蜜璃の産土神(生まれた土地の守護神)と云う事になる。
奇しくも当社には甘露寺家の揮毫による社号碑が残っている。
明治神宮第6代宮司・甘露寺受長による社号の文字。
甘露寺家第35代当主。
明治から戦前まで華族(伯爵)として、東宮侍従・侍従・侍従次長・明治神宮宮司を歴任。
甘露寺家は古くから公家・華族だった家柄。
甘露寺家の名がこうして境内に残っているのは偶然なのか、何とも興味深い。
八咫烏の御朱印・限定御朱印・港七福神の恵比寿神
御朱印は社務所にて。
現在の社務所はビルになっていて1Fが社務所となっている。
御朱印は「飯倉熊野神社」の朱印、右下に八咫烏のスタンプ。。
左が2015年に頂いた御朱印で、右が2019年に頂いた御朱印。
左は2022年に頂いた通常御朱印で「飯倉熊野神社」の墨書きに変更となっている。
熊野信仰の神使で、初代神武天皇が熊野の山中で道に迷われた天皇をお導きするために使わされたのが八咫烏と伝えられている。
夜明けを呼ぶ鳥、太陽を招く鳥と云われ、人生の闇に迷い悩む人々を明るい希望の世界に導く神の使いの霊鳥として、篤く信仰を集めている。
熊野信仰の神社では、神紋として八咫烏(三足烏)を使うところが多い。
2021年正月期間には限定御朱印も用意。
熊野の神が宿ると古くから信仰される梛(なぎ)の葉をデザインした御朱印。
こちらは2021年新嘗祭の限定御朱印。
2022年のひなまつり御朱印。
2022年の端午の節句御朱印。
2022年の例大祭御朱印。
七夕御朱印。
重陽の節句御朱印と十五夜御朱印。
十三夜御朱印。
年越大祓御朱印。
当社は「港七福神めぐり」の恵比寿を担っているため、開催期間中(毎年元旦-成人の日)は港七福神恵比寿の御朱印が授与される。
毎年、元日-成人の日まで行われている七福神巡り。
期間中は当社にて恵比寿の御朱印を頂ける。
八咫烏と雪輪文様に千鳥格子をデザインした御朱印帳
2023年6月1日からは待望のオリジナル御朱印帳を頒布開始。
表面には梛の葉をくわえた八咫烏、裏面には八咫烏と社号。
全体に雪輪文様の中に当社オリジナルの健康身代り守りに施されている千鳥格子をデザイン。
サイズは大サイズとなっていて、紺色と桃色の2色展開。(筆者が頂いたのは桃色)
御朱印帳にも貼れる熊野牛王神符
令和を記念して「熊野牛王神符」も頒布開始。
烏文字で書かれ古くから熊野信仰で重宝された熊野牛王神符。
通常は半紙大のサイズだが現代に合わせて御朱印帳にも見開きで貼れるサイズで頒布している。
一部では「おからすさん」などと呼ばれる神符。
神使である八咫烏から、烏を多用した烏文字(からすもじ)が使用される。
全国の熊野信仰の神社(かつては神仏習合)で授与され信仰された。
竈の上に貼ると火難除けに、門口に貼ると盗難除に、病人の床に敷けば病気平癒に、折り畳んで懐中すれば厄難から護ってくれるとして重宝された。
さらに裏面に起請文を書く「誓約書」(熊野権現に誓約を誓う)としても使われた。
日本サッカー協会公認サッカー御守
また神使の八咫烏から日本サッカー協会のサッカー御守も授与。
サッカー関係者やサポーターから人気を集めている。
熊野信仰の神使である八咫烏(三足烏)。
八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークでもある。
筆者が頂いたサッカー御守。
2022年のカタールW杯日本代表の初戦前日に頂いたもの。
初戦でドイツを破るドーハの奇跡となり個人的にとても喜んだ。
御神籤・恋みくじ・水みくじ
手水舎の奥には御神籤所。
セルフで御神籤・恋みくじ・水みくじを引く事ができる。
水みくじは鳥居を潜ってすぐ右手につくばい(手水石)があるのでそちらで。水に浸すと文字が浮き出てくる。
所感
旧飯倉村の鎮守であった当社。
飯倉と云う地名は1970年代の住居表示法によって消滅してしまったが、現在も飯倉の名が残る施設などは多く、旧町名の鎮守として当社も「飯倉熊野神社」と称される。
戦後になり社地が削られ、社務所がビルの形になってからは、より一層小さな規模になってしまったのだが『江戸名所図会』に掲載されているように、古くから崇敬を集めていたのは間違いがない。
七福神めぐりにも参加をしており、戦前は麻布稲荷七福神、現在は港七福神で恵比寿を担っている。
かつては祭礼も盛んであったといわれ、現在も例大祭が近づくと盛り上がりを見せる。
かなり規模の小さな神社となっているが、それでもこうした形で維持できているのは喜ばしい。
また熊野牛王神符を現代に適したサイズにして頒布しているのも有り難く、今の熊野信仰を伝える良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円(通常)・800円(熊野牛王神符)
社務所にて。
※毎年元旦-成人の日に開催される「港七福神めぐり」で恵比寿神の御朱印を授与。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
御朱印帳
オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
2023年6月1日より頒布のオリジナルの御朱印帳。
表面には梛の葉をくわえた八咫烏、裏面には八咫烏と社号。
全体に雪輪文様の中に当社オリジナルの健康身代り守りに施されている千鳥格子をデザイン。
サイズは大サイズ。
紺色と桃色の2色展開。
授与品・頒布品
熊野牛王神符
初穂料:800円
社務所にて。
※御朱印帳に貼れるサイズの熊野牛王神符。
梛の葉
初穂料:─
社務所にて。
※年越大祓御朱印を頂いた際に下さった。
干菊
初穂料:─
社務所にて。
※重陽の節句御朱印を頂いた際に下さった。
熊野牛王神符
初穂料:800円
社務所にて。
※御朱印帳に貼れるサイズの熊野牛王神符。
参拝情報
参拝日:2024/09/12(御朱印拝受)
参拝日:2024/06/11(御朱印拝受)
参拝日:2024/02/10(御朱印拝受)
参拝日:2023/12/19(御朱印拝受)
参拝日:2023/09/11(御朱印拝受)
参拝日:2023/07/13(御朱印拝受)
参拝日:2023/06/01(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2023/05/03(御朱印拝受)
参拝日:2022/12/19(御朱印拝受)
参拝日:2022/11/22(御朱印拝受)
参拝日:2022/10/08(御朱印拝受)
参拝日:2022/09/06(御朱印拝受)
参拝日:2022/07/11(御朱印拝受)
参拝日:2022/06/02(御朱印拝受)
参拝日:2022/05/06(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/01(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/29(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2021/11/01(御朱印拝受)
参拝日:2020/01/13(御朱印拝受)
参拝日:2019/07/08(御朱印拝受)
参拝日:2015/10/19(御朱印拝受)
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