立川諏訪神社 / 東京都立川市

立川市

神社情報

立川諏訪神社(たちかわすわじんじゃ)

御祭神:建御名方神
社格等:郷社
例大祭:8月28日直近の金・土・日曜
所在地:東京都立川市柴崎町1-5-15
最寄駅:立川駅・立川南駅
公式サイト:http://suwajinja.or.jp/

御由緒

千二百年の伝統、由緒ある関東の名社
大国主神の第二御子神建御名方神は、諏訪湖の畔に住むきわめて武勇に富んだ神と崇められ、信州諏訪大社に祀られましたが、勤請により嵯峨天皇弘仁二年(811)立川柴崎村出口 – 今の諏訪の森公園 – に分祀されました。これが立川諏訪神社の始まりで、古い歴史を持つ由緒ある御社です。「武蔵国風土記」「江戸名所図絵」にもその名をとどめ、東国きっての名社として、大勢の人々の信仰をあつめました。江戸後期の文人・大田蜀山人は、支配勘定として多摩を視察したおり、諏訪神社を訪れ、次の歌を献詠しています。
諏訪の社は弘仁二年に鎮まりませしとききて―
ひろまれる 人のすめらき ふたとせに
すは此の神の やとりたまふか(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/11/29

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

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歴史考察

立川のお諏訪さま

東京都立川市柴崎町に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、旧柴崎村の鎮守。
柴崎村は後の立川村であり、立川市南部の総鎮守とも云える。
正式名称は「諏訪神社」であるが、他との区別から「立川諏訪神社」とさせて頂く。
かつては立川市内最古の木造建築物の本殿や、江戸時代の拝殿・覆殿などが有していたが、平成六年(1994)に不審火による火災で焼失してしまい、現在の社殿は平成十四年(2002)に再建されたものとなっている。

平安時代初期に諏訪大社より勧請

社伝によると、弘仁二年(811)に諏訪信仰の総本社である信濃国「諏訪大社」より勧請。
現在の「諏訪の森公園」(当社の北側)に創建されたと伝わっている。
柴崎村(現在の立川市南部)の鎮守であった。

諏訪の森公園 | 立川市
諏訪の森公園をご紹介します。諏訪神社から道路一つ隔てた北側に広がる公園です。

戦国時代末期に古い文献などは焼失してしまっているため、ここからは御由緒に記されていない筆者の推測になるが、その当時の立川周辺の歴史を踏まえて考察してみたい。

当社が創建された平安時代は、武蔵七党のひとつとされる西党に属する地方豪族の立川氏が、現在の立川市南部の地頭となり当地周辺を支配していた時代である。
現在の立川市南部とはすなわち柴崎村の事であり、立川氏の支配域と重なる。
そのため立川氏が武神である建御名方神(たけみなかたのかみ)を崇敬したと推測できる。
立川氏の支配は、戦国時代末期(後北条氏の滅亡により立川氏も滅亡)まで続いたため、立川氏や柴崎村の村民たちから崇敬を集めたのであろう。

天正十四年(1586)、武蔵野野火によって社殿や旧記録類が焼失。
その後しばらく再建されず、衰微したと思われる。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
後北条氏の配下であり、八王子城下の立川氏も滅亡している。

江戸時代になり現在地に再建

江戸時代に入ると、甲州街道の整備や玉川上水・砂川分水の開通など、柴崎村(立川)周辺が整備。
こうして当社も再建への下地が整う事となる。

寛文十年(1670)、当社の本殿が再建。
創建時の地(現在の諏訪の森公園)よりもやや南である現在の鎮座地に再建。
なお、この本殿は、平成六年(1994)に不審火で焼失するまでは、立川市内最古の木造建築物として残っていた。

元禄年間(1688年-1704)、当社に今も伝わる獅子舞が始まる。
江戸時代には奉納相撲も行われていた記録が残っている。
このように再建されて以後、柴崎村の鎮守として崇敬を集めた。

寛政年間(1789年-1801年)には、支配勘定に就いた大田南畝(大田蜀山人)が多摩を視察した折に当社を訪れ、以下の歌を献詠している。

ひろまれる 人のすめらき ふたとせに すは此の神の やとりたまふか

江戸時代の史料から見る当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(柴崎村)
諏訪明神社
社地除。五石六升二合。村の南小名出口にあり。本社一間四方、拝殿五間に二間、本社を距る事三十間。許に鳥居を立。祭神健御方尊。弘仁二年七月廿七日初て當村に鎮座せり。其日を以て例祭とす。草相撲と云を修行せり。村内の鎮守。神職宮本信濃持。
末社。山王社。稲荷社。共に小社。
八幡社
社地除。二石九斗二升六合。村の中央小名横町にあり。小社といへども前に拝殿あり。四間に二間本社を距ること十五歩程に鳥居をたつ。建長四年八月十五日鎮座すと云。神體本地彌陀の像二軀あり。一は背の方假面の如くくぼに、金像にて長六寸許、僧空海鋳作といふ。近き頃村民與八郎といふもの、圓径八寸許の鏡を造りて、像の後背にたてり。鏡背に武州多磨郡立川郷芝崎村八幡宮鏡一面。家内安全、元文四年巳未八月五十嵐與八郎と雕たり。一は銅像長四寸八分、背に銘文あり、縁起によるに八幡の神體弘法の鋳作黄金佛一軀ありしが、野火のために本社拝殿燼となりしとき、其像を失へり。時の領主立川宮内の女、深く是をなげきて別に銅像一軀を鋳て神體となす。後寶永年中に及て社頭修造の時、はからず社地の松根より舊像を掘得たりと云。其時鍬の刃のあたりし疵痕なりとて、今に胸の邊にあり。是より神體二軀となれりと云。銅像の圖古佛とみゆれば上にのす。(図は省略)

柴崎村の「諏訪明神社」として記されているのが当社で、柴崎村の鎮守であった事が分かる。
弘仁二年(811)に創建の旨、奉納相撲が行われていた事などが記されている。
同村にあった「八幡社」は明治になってから当社に合祀されている。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

%e8%ab%8f%e8%a8%aa%e7%a4%be(江戸名所図会)

立川の「八幡宮・諏訪社・満願寺」が描かれている。
右上に描かれているのが「諏訪社」であり当社。
中央に描かれているのが「八幡宮」で後に当社に合祀。
左下に描かれているのが「満願寺」で明治の廃仏毀釈で廃寺。
柴崎村の様子であるが、古くから立川と呼ばれていた事や、大変のどかな農村だった事が伝わる。

この後の安政四年(1857)、拝殿と本殿を保護する覆殿が造営されている。
これも平成六年(1994)に不審火で焼失するまでは残っていた。

明治以降の歩み・平成の再建

明治になり神仏分離。
当社は郷社に列した。

明治十四年(1881)、柴崎村を立川村と改称。
当社は立川村の鎮守として崇敬を集める。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、神奈川県北多摩郡立川村・砂川村が成立。

このように立川は一時的に神奈川県の管轄であった。

明治二十六年(1893)、神奈川県から東京府に移管される。

明治四十年(1907)、同村にあった八幡神社が当社に合祀される。
『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』にあった八幡社であり、当時は合祀政策が押し進められた時代であったため、村の鎮守であった当社に合祀されたのであろう。
社殿を当社境内に移築という形を取っており、不審火で焼失するまで当時のが残っていた。

明治四十三年(1910)、浅間神社を合祀している。

昭和十五年(1940)、立川町(旧立川村=旧柴崎村)が立川市となる。
当社は立川市の鎮守となり、立川の総鎮守となっていた事が分かる。
昭和三十八年(1963)に砂川町(旧砂川村)が立川市に編入された。

昭和四十三年(1968)、神楽殿が竣工。
当社は震災・戦災などの多大な被害も免れ、寛文十年(1670)造営の本殿、安政四年(1857)造営の拝殿・覆殿、移築された八幡神社の社殿など、古い建物が多く平成の世まで残っていた。

%e8%ab%8f%e8%a8%aa立川市公式サイトより)

こちらは昭和五十年代の当社の写真。
本殿は立川市有形文化財に指定されているものであった。

しかしながら、平成六年(1994)に不審火によって社殿が焼失。
本殿・拝殿、さらに明治に移設された八幡神社や境内社の稲荷神社も焼失してしまう。

平成十四年(2002)、氏子崇敬者の支援を受けて現在の社殿を造営・竣工。
とても立派な社殿で、諏訪神社だけでなく八幡神社と稲荷神社が並ぶ形の社殿で、再建となった。

再建された社殿と共に、今も多くの崇敬を集めて現在に至る。

南に面した表参道と随神門

立川駅から南東に少し歩いた先に鎮座する。
img_3031こちらは南に面した表参道。
駐車場側の東参道、諏訪の森公園側の北参道、後は西参道があるが、表参道は南側。

鳥居を潜ると緑に囲まれた比較的長い参道。
img_3028この参道の先、左手に手水舎。
img_2999正面に随神門が立つ。

随神門には、左右に神社へ悪霊が侵入するのを防ぐ門番の随神が剣と弓矢をもって鎮座。
img_3021この随神門の先が神域となる。

再建された三社一殿の立派な社殿

随神門を抜けると平成十四年(2002)に再建された社殿。
img_3009平成六年(1994)に不審火によって旧社殿などは焼失し、氏子崇敬者らによって再建となった。

とても立派な社殿であり、当社への篤い崇敬を窺わせてくれる。
img_3008拝殿は中央に諏訪神社、左に八幡神社、右に稲荷神社が並ぶ三社一殿の形。
img_3004中央が諏訪神社。
img_3007彫刻も精微でとてもよい造りとなっている。
img_3006左が八幡神社。
img_3005右が稲荷神社。

これより先は立入禁止につき撮影をしていないが、本殿は諏訪神社・八幡神社・稲荷神社が独立しており、それらが1つの覆殿に納められている形となっていた。
本殿の両脇には蔵があり、焼失した旧社殿の焼け残った木材を安置しているという。

境内社・目の神様・土俵など広い境内

随神門を潜った右手に境内社が並ぶ。
img_3011左から疱瘡神社・日吉神社・金刀比羅神社・浅間神社。
『新編武蔵風土記稿』に末社として、山王社とあるので日吉神社はそちらになるのだろう。

この右奥に目の神様が祀られている。
img_3012古くから眼病に御利益があると信仰されていた。

同じ並びに神楽殿。
img_3014昭和四十三年(1968)に竣工。

境内の左手には土俵が置かれている。
img_3020『新編武蔵風土記稿』にも「草相撲と云を修行せり」と記されているように、古くから奉納相撲が行われており、現在も立川市相撲連盟によって奉納相撲が行われる。
また元禄年間(1688年-1704)より続くという獅子舞も、この土俵で行われる。

他にも立派な参集殿、結婚式場なども用意。
広い境内も相まって、立川を代表する神社となっている。
また境内の駐車場近くには空手道場・練成館も置かれている。

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御朱印は授与所にて。
img_3017大変丁寧に対応して頂き有り難い。

所感

旧柴崎村(立川村)の鎮守である当社。
柴崎村は後に立川村となり、その立川村が立川市となったため、立川の総鎮守と云う事ができるだろう。
その後、砂川町が立川市に編入されたため、立川市南部を鎮守しているのが当社となる。
清々しい空気のある境内とまだ新しさを感じる社殿は、とても綺麗に整備されている。
近年まで震災や戦災を免れた社殿などが残っており、不審火による焼失という憂き目にあったが、氏子崇敬者によって立派に再建された社殿が、当社へ対する崇敬の篤さを伝えてくれる。
この日も地域の方の参拝が途絶える事はなかった。
立川を代表する良社である。

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神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 鳥居 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 参道 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 随身門 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 八幡神社 ]
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[ 稲荷神社 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 目の神様 ]
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[疱瘡神社・日吉神社・金刀比羅神社・浅間神社]
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[ 神楽殿 ]
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[ 絵馬掛 ]
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[ 授与所 ]
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[ 参集殿 ]
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[ 土俵 ]
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[ 社務所 ]
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[ 旧社号碑 ]
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[ 石碑 ]
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[ 東鳥居 ]
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Google Maps

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