小野神社(小野宮) / 東京都府中市

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神社情報

小野神社(おのじんじゃ)
小野宮(おのぐう)

御祭神:天下春命・瀬織津比賣命
旧社格:延喜式内社(小社論社)・郷社
例大祭:9月中旬の日曜日
所在地:東京都府中市住吉町3-19-3
最寄駅:中河原駅
公式サイト:─

御由緒

住吉町三丁目にある本殿一間四方、拝殿二間四方の神社で、旧小野宮の鎮守です。祭神は瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)・天下春命(あめのしたはるのみこと・稲倉魂命(うかのみたまのみこと)です。小野神社は多摩川をはさんで多摩市にもあり、「一之宮小野神社」といい、どちらが元の小野神社なのか古来から議論されています。江戸時代の地誌によれば、「往古多摩郡本宿村の小野宮と云処に鎮座ありしを、水災に依て遷され、村を一宮と称す」とあり、小野宮にあったものが多摩川の氾濫により、南側の一之宮に遷座されたものと思われます。しかし全ての村人が移ったわけではなく,残った人々が守りつづけたものと思われます。府中観光協会より)

参拝情報

参拝日:2016/05/18

御朱印

初穂料:300円
谷保天満宮」社務所にて。

※当社には神職の常駐はないが、本務社の「谷保天満宮」にて御朱印を拝受できる。

府中小野神社

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歴史考察

延喜式内社論社の小野神社

東京都府中市住吉町にある神社。
古代の社格では延喜式内社の小社論社、旧社格は郷社となっている。
多摩川を挟んで多摩市にある「小野神社(武蔵国一之宮小野神社)」とは大変関わりが深い。
かつてはこの地域の旧地名と共に「小野宮」と呼ばれ、小野宮の鎮守であった。
現在は規模が小さく「谷保天満宮」の兼務社となっている。

多摩川流域で水神を祀る古社

当社は多摩川を挟んで鎮座する多摩市の「小野神社(武蔵国一之宮小野神社)」と関わりが深い。
そのため、そちらの御由緒が当社の御由緒と重なると思ってもよいだろう。

創建年代は不詳とされているが、境内にある寛政七年(1795)に建てられた「小野宮廟碑」には、安寧天皇の時代(前548年-前511年)に、武蔵国造の兄武日命が創建したとされている。
古代より土着の神をお祀りしたものと思われる。

御祭神である天下春命は、知々夫国造の先祖とされる神。
「小野宮廟碑」よると、当社を創建した兄武日命は天下春命の末裔との事だ。
開拓の神として知られ、武蔵国の開拓祖神をお祀りしているという事なのだろう。

もう一柱の瀬織津比賣命は水の神として知られる。
河川流域などにお祀りされる事が多く、多摩川流域に鎮座し、多摩川の氾濫によって度々被災したと伝えられる当社にとって、多摩川を鎮める水神をお祀りするのは自然な事であろう。

なお、現在はこの二柱が主祭神となっているが、天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』では、当社について「瀬織津比咩 一座」と記しており、これが事実であるのならば、かつては瀬織津比賣命のみお祀りされていた事になる。
そうなると、やはり多摩川の氾濫を鎮めるための神様をお祀りした、土着の神社であったと云える事ができるだろう。

多摩の小野神社との関係

多摩川を挟んで鎮座する「小野神社」は、武蔵国一之宮として崇敬された神社でもあり、現在も武蔵国総社である「大國魂神社」では、多摩の「小野神社)」を一之宮として奉斎している。
一方で府中市にある当社こと「小野神社」は、一之宮として奉斎はされておらず、二社の関係性が興味深い。

確実に云える事はなく、一般的には2つの説が存在している。

  • どちらかが本社でどちらかが分祠という説。
  • 多摩川の水害によって遷座が行われた結果、二社に別れたという説。

いずれにせよ、両社がかなり繋がりの深い神社だったのは間違いなく、かつては同一の神社だったと推定するのが自然だろう。

個人的には、創建時の「小野神社」は当社であったのではと推測している。
当社は府中を横切る府中崖線(はけ)の多摩川積層低地、いわゆる「はけ下」と呼ばれる地域であり、多摩川が氾濫した際にはけ下は特に水害の危険にさらされる事となる。
そのため幾度と氾濫した多摩川において、当社が被災した事は想像に難くない。

そこで水害の危険がはけ下よりは少ない、対岸に遷座する事になったのではないだろうか。
本来ならば、対岸よりも府中崖線の立川段丘側(はけ上)に鎮座したほうが、水害の被害は少ないのだろうが、上述の通り「小野神社」は、多摩川の氾濫を鎮める水の神をお祀りしていたと思われるため、多摩川沿いに遷座する事になったと推測する。
結果、神社としては多摩市の「小野神社」に遷ったものの、一部の村民・氏子はこの地に残り、かつての鎮座地であった府中市の「小野神社」を崇敬したため、二社になった。

確証たるものがないので、あくまで推測になるが、何にせよ両社が大変深い繋がりを持っていたのは間違いない。

武蔵国一之宮。延喜式内社論社。大國魂神社で一之宮として奉斎。武蔵国一之宮の変遷の謎・武蔵国三国説。朱色の社殿・再建された随神門。御朱印。御朱印帳。

史料に記された小野神社

当社と多摩の「小野神社」は、上述の通り古来繋がりの深い神社であったと推測されるため、史料に登場する「小野神社」がどちらを指しているのかは定かではない。
どちらも比定されるという事で論社の扱いとなっている。

宝亀三年(772)の太政官符には、「多磨郡□野社」の記述があり、これが「小野神社」の史料としては初見であろう。
正史である『日本三代実録』には、元慶八年(884)に従五位上から正五位上に昇格との記載がある。

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、小社に列格する「武蔵国多磨郡小野神社」と記載されており、これが当社とされているが、多摩市の「小野神社」も比定社(論社)となっている。
そのため当社は式内社を名乗っており、社号碑や扁額にも「延喜式内」の文字が見える。
imageどちらがというのは大事ではなく、両社共に多摩川鎮護の土着の神様であったと見るのが良いだろう。

時代と共に衰退

どういった形にしろ、「小野神社」という神社は、次第に衰退していく事になる。
特に多摩の「小野神社」は、武蔵国一之宮として崇敬されたにも関わらず、一時はかなり荒廃していたようで、中世の頃になると「武蔵一宮氷川神社(大宮氷川神社)」が武蔵国一之宮とされる事が多くなっており、それが現在にも続いている。

武蔵国一之宮。氷川神社総本社。勅祭社。宮中の四方拝の一社。2kmにも及ぶ氷川参道。大宮の地名由来。御朱印。御朱印帳。

そして対岸にあった当社は、より一層衰退したものと思われる。
これには当社からほど近い位置に鎮座している武蔵国総社「六所宮(現:大國魂神社)」の存在が挙げられるだろう。

府中には武蔵国の国府が置かれ、武蔵国の一之宮から六之宮までお祀りする総社「大國魂神社」が大変な崇敬を集める事となる。
崇敬の対象として近くの総社が高まったため、自然と当社は力を失い衰退していく。
それに重なるように戦災や度重なる多摩川の氾濫などもあったのであろう。

江戸時代に入ると、二代将軍徳川秀忠が武蔵国一之宮として多摩の「小野神社」を再興。
総社の「大國魂神社」も、多摩の「小野神社」を一之宮として奉斎したものの、当社は祀られる事がなかった。
そのため、さらに当社は衰退していく事となり、いつしか地域の鎮守の色合いが強くなっていったようだ。

その頃の当地は当社があった事で当社共々「小野宮」と呼ばれた。
小野宮の鎮守として、規模が小さいまま存続する事となる。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

府中小野神社 国立国会図書館デジタルコレクションより)

「小野神社」と描かれた当社。
現在も規模は小さいのだが、この当時もかなり小さな神社だった事が分かる。
境内の配置としては現在にかなり近い。
小野宮の鎮守といった形で、ひっそりと佇んでいたのだろう。
それでも当社前には町家が出来ており、当社を中心に氏子が集まっていた事が見て取れる。
また、上述したように御祭神を「瀬織津比咩 一座」と記しており、やはりその当時は多摩川鎮護のために水神をお祀りしていたのだろう。

ちなみに多摩の「小野神社」は、こちらには「一宮大明神」して描かれており、徳川家の庇護もあって規模は小さいながらも一之宮の称号を付け呼ばれていた事が分かる。
こうした様子からも多摩の「小野神社」のほうが崇敬を集めたものと思われる。

神仏分離と現在

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、郷社に列している。

江戸時代に描かれたものや現在の規模を見ても分かる通り、かなり規模の小さな神社。
規模としては無格社、よくて村社にも思える当社が、郷社に列したのは、やはり式内論社としての古社であった事が挙げられるだろう。
同年には武蔵国一之宮とされた多摩の「小野神社」も郷社に列しており、両社の深い繋がりから、どちらも同じ社格にしたものと推測できる。

現在は近くにある「谷保天満宮」の兼務社となっている。
神職は常駐していない。

住宅街に佇む小さな鎮守

当社を含めこの周辺はかつて「小野宮」と呼ばれていた。
そのため近隣には「小野宮」という地名をチラホラと見かける事ができる。
そんなのどかな住宅街の一角にひっそりと鎮座している。
image社号碑には「延喜式内郷社小野神社」の文字、大正十四年(1925)に奉納されたようだ。
境内の一角は公園になっており、奥には児童公園があったりと、地域に溶け込んだ鎮守。

参道右手に比較的新しい手水舎があるものの、手水舎には水が張られていない。
image神職が常駐していないという事もあり、参拝者も少ないので仕方ない面もあるだろうか。

拝殿はやや小ぶりな造りとなっており、扁額には「延喜式内」の文字。
image社殿の神紋は三つ巴紋となっていて、多摩の「小野神社」は一之宮の社格のせいか菊紋だったので、同じ小野神社でも神紋が違うようだ。
本殿は一間社流れ造りとなっていて中々立派。
image朱色の稲垣に囲まれていて鮮やかである。
造りとしては『江戸名所図会』に描かれた社殿とかなり似た造りとなっている。

社殿の裏手には「稲荷神社」。
image『江戸名所図会』にも「いなり」の文字が裏手にあったので、古くから境内社として鎮座していたようだ。

社殿の裏手に民家と隣接するように石碑が置かれている。
imageかなり古い碑で字が掠れていて読解困難な部分が多かったのだが「小野宮廟碑」とあり、寛政七年(1795)のもののようだ。
当社の社史が記されていて中々興味深い。
『江戸名所図会』に描かれた当時にもあったものなのだろう。

他に祭事で使う太鼓が納められた倉や、常夜灯などが置かれている。
image児童公園と一体化しているのが特徴的。
境内としては大変狭く、地方の小さな鎮守といった形である。
神職の常駐はしていないのだが、社務所も存在していない。

御朱印は本務社である「谷保天満宮」の社務所にて。
「延喜式内社」と墨書きされている。

東日本最古の天満宮・関東三大天神。交通安全祈願発祥の地。日本一キレイでかわいい御朱印帳。谷保の由来・読み方。あじさい園・梅園・弁天池。御朱印。御朱印帳。

所感

延喜式内社の論社である当社。
武蔵国一之宮とされる多摩の「小野神社」とは大変深い繋がりがあるのが分かる。
どちらの「小野神社」も、おそらく幾度も氾濫を起こした多摩川を鎮護するためにお祀りされたものと思われ、古来よりこの地の守り神として崇敬を集めたのであろう。
いずれも規模は小さくなり、特に当社はかなり廃れてしまったのが分かる。
しかしながら、狭い境内ではあるが整備されているし、狛犬や手水舎など比較的新しいものも多く、地域の方から鎮守として崇敬されているのが伝わる。
現在は小野宮と呼ばれた地の鎮守としての色合いが強いが、「小野神社」の歴史を知る上で大切な地であるし、「小野神社」が衰微していった歴史をその目で見る事ができ、なんとも感慨深い。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿・拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 稲荷神社 ]
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[ 神輿庫・大太鼓庫 ]
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[ 児童公園 ]
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[ 常夜灯 ]
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[ 小野宮廟碑(寛政七年)]
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[ 入口碑(境内裏手) ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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