神社情報
菖蒲神社(しょうぶじんじゃ)
御祭神:稲田姫命
相殿神:誉田別命・素戔嗚命・倉稲魂命・金山彦命・速玉男命・菊理姫命・軻遇突智命・伊弉諾命・伊弉冉命・天津児屋根命・水波女之命・菅原道真公
社格等:村社
例大祭:4月15日(例祭)・7月第2日曜(夏祭)・9月15日(秋祭)
所在地:埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲552
最寄駅:久喜駅(久喜駅からバスで20分程)
公式サイト:http://shobu-jinja.com/
御由緒
当社は、元は袋田明神社と号していた。『風土記稿』菖蒲町の項には「袋田明神社 祭神は稲田姫命と云、神体銅鏡にて本地薬師の像を彫れり、裏に寛文九年(1669)と見ゆ、合殿に鷲宮・久伊豆の両社を置り、吉祥院持、末社稲荷天神合社 雷電、大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社」と記されている。別当の吉祥院は袋田山安穏寺と号する真言宗の寺院で、草創の年時は不詳であるが、開山は弘鑁、開基は菖蒲城主佐々木源四郎という。佐々木氏は金田を称し、後に小田原北条氏にくみして天正十八年(1590)豊臣秀吉に滅ぼされたという。
当社の鎮座地は、菖蒲城主佐々木氏の陣屋跡と伝えられる地のすぐ南西に位置している。また、吉祥院もこの陣屋跡の西側に隣接していることから、当社も吉祥院同様に佐々木氏により中世末期に再建されたものと推測される。
神仏分離を経て、当社は明治三年に村社となった。更に同四十二年と大正二年に地内の無格社が合祀されたが、その多くは後に合祀が解かれ元地に戻された。
当社の大元となった袋田明神社の社名は、氏子の間では、見沼代用水を隔てた新堀の地に祀る久伊豆神社の祭神大己貴命のお袋(母親)が稲田姫命であることに由来すると伝えられている。あるいは、見沼代用水の開削以前に旧河川のこの辺りを袋状に流れ、一面に田が広がっている所に坐す神に由来するとも考えられるが、明らかでない。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/07/12
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※書き置き対応になる事もあるとの掲示あり。
御朱印帳
初穂料:1,000円
社務所にて。
御朱印帳を用意している。
社号に因んだ菖蒲をデザインした薄紫のものと、白を基調としたものの2種類。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
藤の名所で知られる菖蒲町鎮守
埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲に鎮座する神社。
旧社格は村社で、菖蒲町の鎮守。
元は「袋田明神社」と称していた神社で、明治以降に地名から現社名に改称。
境内には「菖蒲の藤」と呼ばれる、樹齢300年以上の藤(県指定天然記念物)があり、藤の名所としても知られる。
かつて袋田明神社と称された由来
創建年代は不詳。
稲田姫命を祀り、古くは「袋田明神社」と称された。
「袋田明神社」の社名由来は御祭神にあると伝わる。
近在に「お酉様の本社」と称される「鷲宮神社」(久喜市鷲宮)と、「久伊豆神社」の総本社とされる「玉敷神社」(加須市騎西)が鎮座しており、いずれも大己貴命を祀る神社。
大己貴命のお袋(母親)が、当社の御祭神・稲田姫命と目される事から「袋田」となった説。
別説として、見沼代用水の開削以前に旧河川のこの辺りを袋状に流れ、一面に田が広がっていたため、「袋田」の名がついたともされる。
菖蒲の地名由来にもなった菖蒲城
康正二年(1456)、古河公方・足利成氏が、金田式部則綱に命じて「菖蒲城」を築城。
5月5日の「菖蒲の節句」に城が竣工された事から「菖蒲城」と名付けられたと伝わる。
武蔵国埼玉郡新堀村(現・埼玉県久喜市菖蒲町新堀)に築城された城で、当社からも程近い。
6代秀綱の時に後北条氏(小田原北条氏)に与した忍城主・成田氏長の配下となる。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐によって滅亡。
菖蒲城も廃城となっている。
当社の別当寺であった「吉祥院」(現・久喜市菖蒲町菖蒲)の御由緒には、菖蒲城主・佐々木源四郎(後の金田氏)が開基したと云う伝承が残っている。
そのため、当社も「吉祥院」と同様に、菖蒲城主・金田氏(佐々木氏)によって再建されたと推測されている。
新編武蔵風土記稿より見る当社
江戸時代なると当地周辺は「菖蒲町」と呼ばれるようになる。
当社は菖蒲町の鎮守として崇敬を集めた。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(菖蒲町)
袋田明神社
祭神は稲田姫命と云。神體銅鏡にて本地薬師の像を彫れり。裏に寛文九年九月と見ゆ。合殿に鷲宮、久伊豆の両社を置り。吉祥院持。
末社。稲荷天神合社。雷電。大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社。
菖蒲町の「袋田明神社」と記されているのが当社。
御祭神が稲田姫命だという事や、「吉祥院」が別当寺であった事などが記されている。
注目すべきは、合殿として「鷲宮」「久伊豆」の両社を祀っているという部分であろう。
明治以降の歩み・菖蒲神社へ改称
明治になり神仏分離。
明治三年(1870)、村社に列する。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、南埼玉郡菖蒲町・新堀村が合併し、菖蒲町が成立。
当社は菖蒲町の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十年(1907)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、現在の鎮座地とほぼ同じ場所に鎮座しているのが分かる。
菖蒲町菖蒲といった地名も当時からあり、当社周辺は町屋として発展した事も窺える。
現在と道路の位置などがかなり違うのも特徴的。
周辺には多くの神社を見る事ができるが、これらは後に当社に合祀される事となる。
明治四十二年(1909)、周辺の無格社が当社に合祀される。
大正二年(1913)、同様に周辺の無格社が合祀。
同年、藤の下にあった池を埋め立て、藤棚を設ける。
これが現在当社の名所となっている藤棚である。
戦後になり境内整備が進む。
昭和二十七年(1952)、当社境内の藤が「菖蒲の藤」として県の天然記念物に指定。
平成に入ってからは樹勢回復事業が行われている。
境内案内
モラージュ菖蒲・雪みるくなど人気施設の近くに鎮座
最寄駅の久喜駅からはバスで20分程の距離と遠いが、大型ショッピングモール「モラージュ菖蒲」なども近く、行列のできるかき氷店で有名な「雪みるく」なども同じ県道12号沿いにあるため、比較的交通量や人の往来が多いエリア。
県道12号沿いに鎮座しており、県道沿いは北西鳥居となり、表参道は南西向き。
「菖蒲神社」と記された社号碑と鳥居が立っている。
境内手水舎は用意されていない。
鳥居を潜った先、参道の両脇に古い手水石が置かれている。
いずれも使用はできないためそのまま参拝へ向かう。
参道の両脇に一対の狛犬。
大正十四年(1925)に奉納されたもの。
風化によって足がかなり細くなっているが補修されつつ現存している。
木造社殿や多くの境内社
参道の正面に社殿。
参拝記念の看板が設置されており、撮影される方も多い様子。
彫刻も細かく、木造の基礎部分がかなり黒くなっているのが特徴的。
毎年1月15日に左義長(どんど焼き)が行われるため、その影響で黒く見えるのかもしれない。
幣殿・本殿と続く権現造りとなっている。
境内社は社殿の左手に複数鎮座。
一番手前にある大きな社が八雲神社で、当社の御祭神・稲田姫命の夫である素盞嗚命を祀る。
天神社・稲荷社・大黒社の合殿社。
聖徳太子を祀る聖徳社。
導きの神・猿田彦命を祀る庚申社。
こんぴらさんの相性で知られる琴平社。
一番奥に再び八雲社が鎮座していて、こちらも御祭神は素盞嗚命となっている。
県指定天然記念物の菖蒲の藤
境内の右手には立派な藤棚が整備。
大正二年(1913)、藤の下にあった池を埋め立て藤棚を設けたところ、急激に樹勢が盛んになり、大正天皇の御即位にちなみ「君万歳の藤」と名付けられた。
昭和二十七年(1952)、「菖蒲の藤」として県の天然記念物に指定。
野田フジという品種で、推定樹齢は300年以上、幹周りは150cmにも及ぶ。
藤棚の一画には児童遊園や休憩所も整備。
地域の憩いの場となっており、近くには慰霊碑なども置かれている。
御朱印は社務所にて。
藤の名所にちなみ、御朱印には藤のスタンプが押されている。
所感
菖蒲町の鎮守として崇敬を集めた当社。
創建年代は不詳ながら、菖蒲の地名由来にもなった菖蒲城主によって再建されたと推測されているように、古くから当地において大切な神社であった事が窺える。
樹齢300年以上の藤は、藤棚が整備されてから見事なものになったそうで、現在は「菖蒲の藤」として知られ、藤の名所となっている。
藤の季節に訪れた事がないので写真でしか見た事がないのだが、実に見事のようだ。
菖蒲町には2008年に「モラージュ菖蒲」といった大型ショッピングモールも開業し、人の往来も増えてきているように思う。
そうした町の鎮守として地域から崇敬を集めているのが伝わる良い神社である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 手水石 ]
[ 狛犬 ]
[ 拝殿 ]
[ 拝殿・本殿 ]
[ 本殿 ]
[ 境内社 ]
[ 八雲神社 ]
[天神社・稲荷社・大黒社 ]
[ 聖徳社 ]
[ 庚申社 ]
[ 琴平社 ]
[ 八雲社 ]
[ 稲荷碑 ]
[ 藤棚 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 休憩所 ]
[ 石碑 ]
[ 御神木 ]
[ 西鳥居 ]
[ 石碑 ]
[ 社務所 ]
[ 石碑 ]
[ 児童遊園 ]
[ 案内板 ]
コメント