上高井戸第六天神社 / 東京都杉並区

神社情報

上高井戸第六天神社(かみたかいどだいろくてんじんじゃ)

御祭神:面足命・惶根命
社格等:村社
例大祭:9月10日
所在地:東京都杉並区高井戸西1-7-2
最寄駅:高井戸駅
公式サイト:http://www.shimotakaido.org/tenjinja/

御由緒

天神社
 この神社は旧上高井戸村の鎮守で、祭神は面足之命、惶根之命です。明治以前は第六天神と呼ばれていました。
 創立年代は詳らかでありませんが、鎌倉時代の頃ではといわれています。天保年間(一八三〇〜一八四三)には本殿、拝殿が焼失してしまい、しばらく仮殿がありましたが、安政三年(一八五六)に現在の本殿ができ、最近更に中央高速道路新設にともない、鉄筋の覆殿が昭和五十年にできました。
 明治以前の祭日は十一月二十二日で、宵宮になると農作業を終えた近所の人びとが、当番制で五人ずつ拝殿にこもり、お神酒を飲みながら世間話に興じ夜を明かしたということです。この「おこもり」の風習も昭和四十年頃には途絶えてしまいました。また昭和の初め頃まで「雨乞い神楽」がありました。これはお祭りをすると必ず雨が降ると伝えられていたため、日でりが続くとお祭りをして神楽を奉納しました。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/06/29

御朱印

初穂料:300円
下高井戸浜田山八幡神社」社務所にて。

※普段は神職が常駐していないため、本務社「下高井戸浜田山八幡神社」にて拝受できる。


歴史考察

旧上高井戸宿鎮守の第六天神社

東京都杉並区高井戸西に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧上高井戸宿の鎮守。
かつては第六天魔王を祀った「第六天社」だったと推測され、神仏分離を境に「天神社」と改めた。
正式名称は「天神社」であるが、一般的には今も「第六天神社」と呼ばれる事が多い。
他との区別から鎮守であった上高井戸宿から「上高井戸第六天神社」とさせて頂く。
現在は神職は常駐しておらず、「下高井戸浜田山八幡神社」の兼務社となっている。

第六天魔王を祀った第六天社

創建年代は不詳。
社伝によると、鎌倉時代の創建ではないかと云われている。

古くから高井戸村の西側である上高井戸の鎮守を担っていたと伝わる。
かつては「第六天社」「第六天神」と称され、地域からの崇敬を集めた。

「第六天社」と称された事から、神仏習合の時代に第六天魔王を祀る神社として創建されたと推測できる。

第六天魔王(だいろくてんまおう)とは、天魔とも称される魔。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天(たけじざいてん)を云う。
仏道修行を妨げている魔王と畏れられ、織田信長は第六天魔王を自称したと云う伝承でも知られる。
第六天魔王を祀る「第六天神社」は、関東圏・特に武蔵国に多く創建された神社。
『新編武蔵国風土記稿』には300社以上もの数を見る事ができる。
その後、神仏分離によって廃れる事となる。

悪疫退散の御神徳を念じて祀られる事が多い。
当社もそうした信仰の中で創建されたのであろう。

その後、神仏分離によって多くの神社では、改称・御祭神の変更が行われており、現在は「第六天」の名が残る神社は珍しく、当社もそうした流れの歴史を持つ。

江戸時代に高井戸宿が成立

江戸時代に入ると、江戸幕府によって五街道が整備される。

五街道とは、東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道の5つ。

当地は、甲州街道の最初の宿場「高井戸宿」として整備。

慶長七年(1602)、正式に高井戸宿が成立。
慶長九年(1604)、高井戸宿が上高井戸宿・下高井戸宿に分けられる。

西側を上高井戸宿(上高井戸村)・東側を下高井戸宿(下高井戸村)と分けており、当社は、西東側の上高井戸宿(上高井戸村)の鎮守であった。
一方で、西側の下高井戸宿(下高井戸村)の鎮守を担ったのは、現在の当社の本務社となっている「下高井戸浜田山八幡神社」である。
旧下高井戸宿鎮守の八幡さま。太田道灌の命によって創建。江戸時代に甲州街道の高井戸宿が成立・下高井戸宿鎮守となる。住宅街にありながら緑に囲まれた境内。ロケ地としても使われる立派な拝殿と覆殿。夏詣に賛同神社。兼務社4社の御朱印。御朱印。
高井戸宿は、江戸時代初期には甲州街道最初の宿場として旅籠が24軒存在していたが、元禄十一年(1698)に内藤新宿(現在の新宿周辺)が設置され、甲州街道第二の宿場となると、次第に素通りするものも多くなり、旅籠の数も減り、規模も縮小していく事となる。

新編武蔵風土記稿より見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上高井戸宿)
第六天社
除地一段二畝廿二歩。村の北の方にあり。上屋二間に三間南向。内に小祠を置。社前に石鳥居を立。医王寺の持。以下二祠も同寺の持なり。
稲荷祠。二ヵ所本社の左にあり。
神明社
除地一段四畝十二歩。村の東南の方にあり。南向なり。小祠。
浅間社
除地二段七畝二十八歩。村の西よりにあり。

上高井戸宿の「第六天社」と記されているのが当社。
村の北側にあり、社殿や石鳥居を有していた事が分かる。
別当寺は「医王寺」(現・上高井戸1丁目)であった。
当社の左に稲荷祠が2つあり、それも「医王寺」が管理していたと云う。
同じ村内に鎮座していた「神明社」「浅間社」は、後に当社に遷され境内末社となっている。

天保年間(1830年-1844年)、上述の『新編武蔵風土記稿』に記されている社殿を焼失。
その後はしばらく仮殿であったと云う。

安政三年(1856)、本殿が再建される。
これが現存しており、現在は覆殿の中に納められている。

神仏分離の影響と社前に流れていた玉川上水

明治になり神仏分離。
社号を「第六天社」から「天神社」に改称。
御祭神を面足命・惶根命に改めた。

「第六天社」は、神仏習合の色合いが濃いため、関東に鎮座していた多くの「第六天社」は、御祭神や社号の変更を余儀なくされ、各社に合祀されるなど衰退の一途を辿る。
御祭神は、「大六天」の社号から、神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネに変更される事が多く、当社もそうした流れを汲む変更となった。
オモダル・アヤカシコネは、面足命・惶根命の字を当てる事が多い。

明治五年(1872)、村社に列した。
明治十四年(1881)、拝殿を再建。
大変見事な拝殿で、これが現存している。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、上高井戸村・中高井戸村・下高井戸村・大宮前新田・久我山村・松庵村が合併し、高井戸村が誕生。
当地は高井戸村上高井戸となる。

明治三十年(1897)、村内に鎮座していた「神明社(天祖神社)」「浅間社(浅間神社)」を、境内末社として当社境内に遷している。

明治四十二年(1909)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、現在の鎮座地と同じ場所に鎮座しているのが分かる。
高井戸村の地名の他に「上高井戸宿」の文字。
甲州街道の宿場として発展した名残を見る事ができる。

特徴的なのは当社の社前である。
現在は中央自動車道が通っているが、当時当社の前にあったのは道路ではなく「玉川上水」。
古地図にも「玉川上水」と記されており、当社の前に上水が流れていた事が分かる。

玉川上水(たまがわじょうすい)は、承応二年(1653)までに多摩の羽村から江戸の四谷までの全長43kmが築かれた。江戸市中へ飲料水を供給していた上水であり、江戸の六上水の一つに数えられる。
中央自動車道が建築されるまでの当社は、玉川上水を見上げる位置に鎮座していたため、明治時代のこの頃には景勝地として絵葉書になるほどの景色だったと伝わる。

昭和四十七年(1972)、玉川上水の上に中央自動車道が建設される事となり、社殿を道路から離すため、境内のやや北側に曳家によって社殿だけ移している。
この際に、本殿の覆殿と幣殿が新設された。

その後も境内整備が行われ現在に至っている。

現在は神職は常駐しておらず、「下高井戸浜田山八幡神社」の兼務社となっている。

旧下高井戸宿鎮守の八幡さま。太田道灌の命によって創建。江戸時代に甲州街道の高井戸宿が成立・下高井戸宿鎮守となる。住宅街にありながら緑に囲まれた境内。ロケ地としても使われる立派な拝殿と覆殿。夏詣に賛同神社。兼務社4社の御朱印。御朱印。

境内案内

彫刻の精微さが目立つ境内

最寄駅の高井戸駅から徒歩数分の距離で、中央自動車道に面して鎮座している。
神仏分離の影響で、正式名称は「天神社」であるが、社号碑などに「第六天神社」と記してあるように、現在も「第六天神社」として称される事が多い。

現在は社前に一般道とその上を中央自動車道が走っているが、かつては玉川上水が流れており景勝地であった。今は名残を感じる事はできないが境内は大変厳かである。

鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
その先に玉垣があり、その手前に国旗の掲揚台も置かれている。

国旗掲揚台には彫刻が施されている。
柱を支える石造りの彫刻。
左が降り龍。
右が昇り龍となっている。

当社にはこの他にも、彫刻が見事な奉納物が多く、氏子崇敬者からの崇敬の篤さが伝わる。

明和八年の狛犬など二対の狛犬

玉垣の先には一対の狛犬。
大典記念と彫られている事から、大正四年(1915)の大正天皇の即位の礼を記念して奉納されたもの。
大正六年(1917)に奉納が行われた。
どちらも狛犬の台座に細かい彫刻で、阿の方は金太郎であろうか。
吽の方は天狗と義経の図とみられる。

その先に一対の狛犬。
明和八年(1771)に奉納された狛犬で、外置きとしては杉並区内で最も古いと云う。
杉並区の指定文化財となっている。
明和八年の文字と願主・内藤庄右衛門の文字を見る事ができる。

願主の内藤庄右衛門は、高井戸周辺の名家であり代々名を継いでいた。井の頭公園にある「井の頭弁財天」の狛犬も、当社と同年である明和八年(1771)に奉納されたもので、願主は同じく内藤庄右衛門。全く違う造形の狛犬であるが、名家であった内藤家の崇敬の篤さが伝わる。

10年の歳月をかけた素晴らしい拝殿彫刻

社殿はいくつかの年代のものが複合的に混じったものとなる。
拝殿は明治十四年(1881)に再建されたもの。
息を呑むほどに素晴らしい彫刻が施されている。
拝殿に彫刻が施された社殿は数あれど、ここまで彫りが深く重厚でいて精微なものは大変珍しい。
深川の彫工・後藤勇次郎の作であると云い、10年の歳月をかけて彫られたと伝わる。
総欅造で二重扉勾欄付で、ただただ圧倒される素晴らしさ。

本殿は、安政三年(1856)に再建されたものが現存。
外側から見えるのは、鉄筋コンクリート造の覆殿になっていて、この中に本殿が納められている。
昭和四十七年(1972)、玉川上水の上に中央自動車道が建設される事となり、社殿を道路から離すため、境内のやや北側に曳家によって社殿を移した際に、鉄筋コンクリート造で覆殿と幣殿が新設された。

境内社など・御朱印は本務社にて

社殿の右手に境内社。
立派な手水石も用意されているが、使用する事はできない。(金魚が泳いでいた)
鳥居があり、その先に境内社。
社殿の覆殿・幣殿と同様に、昭和四十七年(1972)に鉄筋コンクリート造で整備されたもの。
稲荷神社2社・氷川神社・天祖神社・浅間神社・白山神社・秋葉神社となっている。

このうち「天祖神社」「浅間神社」は、古くから村内に鎮座していた祠で、明治三十年(1897)に境内末社として当社境内に遷ったもの。

他に神楽殿。
立派な社務所(参集殿)も用意されている。
普段は神職が常駐していないため、御朱印はこちらで頂く事はできない。

御朱印は、本務社「下高井戸浜田山八幡神社」にて拝受できる。

旧下高井戸宿鎮守の八幡さま。太田道灌の命によって創建。江戸時代に甲州街道の高井戸宿が成立・下高井戸宿鎮守となる。住宅街にありながら緑に囲まれた境内。ロケ地としても使われる立派な拝殿と覆殿。夏詣に賛同神社。兼務社4社の御朱印。御朱印。

所感

上高井戸宿の鎮守として崇敬を集めた当社。
かつては「第六天社」として第六天魔王を祀っていたものと見られ、神仏分離の影響で「天神社」に改称したものの、今も「第六天神社」の名で呼ばれる事が多く、社号碑にも「第六天神社」と記されているように、氏子から変わらぬ崇敬を受けた事が分かる。
かつては社頭に玉川上水が流れていて、景勝地としても知られていたようだが、現在は一般道とその上にある中央自動車道によって、そうした名残を見る事はできない。
しかしながら、境内には氏子からの崇敬の篤さと歴史を伝える奉納物が至るところで見る事ができる。
息を呑むほどに素晴らしい拝殿彫刻や、明和の狛犬、大正狛犬や掲揚台の彫刻など、見どころが多い。
現在は神職の常駐がない兼務社ではあるが、本当に素晴らしい境内が綺麗に維持されていて、これぞ地域から愛される鎮守というのが伝わる良社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 参道・掲揚台 ]

[ 掲揚台彫刻 ]


[ 狛犬 ]




[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]


[ 狛犬(明和八年) ]





[ 神楽殿 ]

[ 手水石 ]

[ 石碑 ]

[ 境内社 ]



[ 常夜灯 ]

[ 石碑 ]

[ 神輿庫 ]

[ 石碑 ]

[ 社務所(参集殿) ]

[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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