王子稲荷神社 / 東京都北区

神社情報

王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之御魂神・宇気母智之神・和久産巣日神
社格等:─
例大祭:2月初午(例祭)・12月31日(狐の行列)
所在地:東京都北区岸町1-12-26
最寄駅:王子駅・王子駅前停留所
公式サイト:─

御由緒

 康平年中に征夷大将軍、源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂く。小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められてきた。
 現在の御社殿は十一代将軍家斉公により新規寄進されたもの。
 落語「王子の狐」の舞台でもある。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2017/03/16(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/02(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:400円
社務所にて。

※初午の日「凧市」開催日は、墨書きと初穂料(800円)が変わる。

[2017/03/16拝受]

[2016/01/02拝受]

歴史考察

関東稲荷総社とされた王子稲荷

東京都北区岸町に鎮座する神社。
旧社格は無格社、東国三十三国稲荷総司との伝承を持つお稲荷さま。
関東稲荷総社として崇敬を集め、江戸時代には関八州稲荷の頭領と云われた。
徳川将軍家の祈願所とされ、江戸庶民からも大変人気の高い神社であった。
落語「王子の狐」の舞台としても有名で、現在は大晦日の「狐の行列」や、初午の日などの火伏の凧の知名度も高く、火防守護の御神徳で知られる。

源義家(八幡太郎)が関東稲荷総司と崇める

社伝によると、創建年代は不詳。

康平年間(1058-1065)、源義家(八幡太郎)が奥州征伐(前九年の役)の際に、当社を深く信仰して、「関東稲荷総司」と崇めたと伝わる。

源義家(みなもとのよしいえ)は、源頼義の長男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称した。
関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。

治承四年(1180)、源頼朝が祖先である源義家の鎧や薙刀等を奉納したと伝える。
「関東稲荷総司」「関東稲荷惣社」として崇敬を集めた。

ここで云う「関東」とは、関東だけでなく東北(陸奥国)までを含む範囲だと解釈されており、この事から「東国三十三国稲荷総司」とされ、江戸時代までは「東国三十三国」の扁額が掲げられていたと云う。東国の稲荷の総元締めを称していた。

当地は古くは「岸村」と呼ばれていたため、「岸稲荷」と称されていたと云う。

王子村への改称で王子稲荷と称される

元亨二年(1322)、現在の「王子神社」を領主・豊島氏が社殿を再興。
紀州熊野三山より王子大神を勧請し「若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)」と称した。

「王子大神」とは、熊野権現(「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」)の御子神(みこがみ)の呼称で、熊野古道沿いに参詣者の守護する神とされ祀られた。

この事で「岸村」と呼ばれていた当地は「王子村」と改称。
現在の王子の地名は「王子神社」に由来している。

東京十社・東京の北方守護を担う。熊野信仰の神社として創建。豊島氏が王子大神を勧請・王子の地名由来。徳川将軍家からの庇護・徳川吉宗からの崇敬・飛鳥山の寄進と桜の名所。浮世絵に描かれた飛鳥山。古写真で見る当社。例大祭の槍祭。御朱印。御朱印帳。

村名が王子村となった事で、当社も「岸稲荷」から「王子稲荷」と呼ばれるようになっていく。
その後は「王子神社」と共に崇敬を集めた。

戦国時代になると、後北条氏(小田原北条氏)が当地の領主となる。
後北条氏は当社を篤く崇敬し、当社に朱印状を与えていた。

徳川将軍家から多大なる庇護

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅亡。
同年、関東移封によって、徳川家康が江戸入り。

天正十九年(1591)、「王子権現(現・王子神社)」と当社に朱印地200石を寄進。
将軍家祈願所に指定され、大いに崇敬を集めた。

慶長十四年(1609)、二代将軍・徳川秀忠によって「金輪寺」が、当社と「王子権現社」の別当となる。
当社と「王子権現社」は「王子両社」と称され、共に崇敬を集めていく。

寛永十一年(1634)、三代将軍・徳川家光が社殿を造営。
寛永十八年(1641)、家光が朱子学者の林羅山に命じて『若一王子縁起』三巻を作成させ、当社に寄進している。

(「王子神社」境内の掲示より)

『若一王子縁起』は、家光が「王子権現社」・「王子稲荷社」・別当寺「金輪寺」の社殿を造営する際、それ以前の縁起が消失していた事から作成された絵巻物となっており、現在伝わる当社の御由緒はこの縁起による。原本は江戸時代の火災で焼失。現在は模写された模本が現存しており、北区指定有形文化財となっている。

元禄十六年(1703)、五代将軍・徳川綱吉が社殿を造営。
天明二年(1782)、十代将軍・徳川家治が社殿を修繕。
文政五年(1822)、十一代将軍・徳川家斉が極彩色の社殿を造営。
この社殿が修復されながら現存している。

このように歴代の徳川将軍によって大いに崇敬され、「王子権現社」「王子稲荷社」「金輪寺(別当寺)」は神仏習合の中で、江戸北部の守護として共に信仰された。

東京十社・東京の北方守護を担う。熊野信仰の神社として創建。豊島氏が王子大神を勧請・王子の地名由来。徳川将軍家からの庇護・徳川吉宗からの崇敬・飛鳥山の寄進と桜の名所。浮世絵に描かれた飛鳥山。古写真で見る当社。例大祭の槍祭。御朱印。御朱印帳。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(巣鴨絵図)

こちらは江戸後期の王子・巣鴨周辺の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は図の左上に描かれている。

(巣鴨絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社で、「王子稲荷社」と記されている。
右手手にあるのが「王子権現社」であり、この一角は一帯となって崇敬を集めた。
当社と「王子権現社」は「王子両社」と称され、崇敬を集めるようになる。

東京十社・東京の北方守護を担う。熊野信仰の神社として創建。豊島氏が王子大神を勧請・王子の地名由来。徳川将軍家からの庇護・徳川吉宗からの崇敬・飛鳥山の寄進と桜の名所。浮世絵に描かれた飛鳥山。古写真で見る当社。例大祭の槍祭。御朱印。御朱印帳。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(王子村)
稲荷社
舊くは岸稲荷と號す。こは村名の條にも云る如く荒川の流廣潤なりし時、其岸に鎮座の神なれはかく號せりと、祭神食保姫命稚産靈尊倉稲魂命にて本地は正観音薬師吒枳尼天なり。祭禮二月初午及十二月晦日狐火會あり。道春所撰の権現縁起に、末社多かる中に何れの世にかありけん、此社の傍に稲荷明神を遷し祝ひければ、毎年臘晦の夜諸方の命婦此社へ参り来る。其ともせる火の山中に連り續けること許多の松明を並るか如く、敷石の螢を放ち飛しむに似たり、其道の山を通ひ河邊を通へる不同を見て、明年お豊凶を知ると聞ゆ云々。是に據は當社は権現の末社の如く聞えたれど左にはあらす。金輪寺中興宥養を王子兩社の別當に補せらると云に據ても知らる。道春偶誤記せしならん、當社へ御成ある時は其日一日開帳す。又十年に一度御成跡にて十五ヶ日の開帳を免さる。
社寶。兜二。面頬二。薙刀二振。以上三品は源義家所持の品にて、治承四年頼朝奉納ありしと云。享保五年八月十一日有徳院殿金輪寺へ御立寄の時上覧ありしより、御代々の台覧に供ふと云。兜面の圖左に載す。
衛府太刀一振(中略)。鞘巻大刀一振(中略)。宗近刀一振(中略)。刀一振(中略)。刀一振(中略)。曲玉九顆(中略)。馬頭観音銅像一幅(中略)。吒枳尼天畫像一幅(中略)。
鳥居二基。神楽殿。供所(中略)。寶篋塔(中略)。鐘楼(中略)。水屋。表門(中略)。
本宮。今の本社後年造營ありし後、其まま立置るる宮なれば本宮と號せり。神體稲を荷ふ老翁の像なり、本地十一面をも安す。こは本社遷座の後別に安置せるものといふ。
末社。辨財天(中略)。白狐神。四所明神清龍明神合社。
装束榎。社地より東の方田間にあり。もとは二株ありしか一株は十七年前に枯て小樹を植繼り、古木の方は圍み二抱餘。土人の説に毎年十二月晦日の據此榎に狐聚りて衣裳を改むるゆへ斯唱ふと云。

長々と記されているので一部は中略とさせて頂いた。

王子村の「稲荷社」と記されているのが当社。
注目すべきは「是に據は當社は権現の末社の如く聞えたれど左にはあらす。」の文字。
王子権現社」と共に崇敬を集めたため、当時から当社は「王子権現社」の末社だと云われる事が多いものの、実際は末社ではなく独立した神社であると記されている。
「金輪寺中興宥養を王子兩社の別當に補せらると云に據ても知らる。」とあるように、「金輪寺」が別当寺で、「王子権現社」と当社を合わせて「王子両社」と称された。

(新編武蔵風土記稿)

多く記載されている宝物はイラスト付きで掲載されている。
これらの宝物は、源義家(八幡太郎)の持ち物であり、子孫である源頼朝が当社に奉納したものと伝わっている。

江戸名所図会に描かれた当社や装束榎

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている

(江戸名所図会)

「王子稲荷社」として見開きで描かれている。
総門がありその先に鳥居、そして石段、社殿となっている。
社殿の右手には立派な御神木、裏手は高台になっていて「いなり」とある。
現在の「御穴様」で、当時は杉の大木に囲まれていた事が分かる。
現在の右手には、立派な弁天池と弁天も置かれていたりと、今以上に見事な境内であった事が伺える。

(江戸名所図会)

次ページに描かれているのは、「装束畠衣装榎」。
当社の管理下であり、多くの狐様が描かれている。

毎年大晦日の夜に、関八州(東国)の狐がこの古榎の辺りに集まり、装束を改めて当社にやって来ると言い伝えられており、「王子稲荷の狐火」として有名であった。
当地の村民たちは狐火の数で吉凶を占ったと伝わっている。

この大榎は明治時代に枯死したものの、その跡には「装束稲荷神社」(王子2-30-14)となっている。

浮世絵に描かれた当社や装束榎

関八州稲荷頭領・関東稲荷総社として崇敬を集めた当社は、庶民からも絶大な人気を誇った。
江戸の中でも屈指の人気神社であり、浮世絵などの題材にも多く取り上げられている。

(歌川広重・名所江戸百景)

こちらは歌川広重による『名所江戸百景』。
当社の境内からの見晴らしを描いており、奥に見えるのは筑波山。
境内には杉の木や松の木を多く見る事ができ、綺麗に整備された境内なのが伝わる。

(歌川広重・東都名所)

同じく広重によって描かれた『東都名所』より「王子稲荷境内全図」。
当社の境内を3ページに渡って描いている。
『江戸名所図会』に描かれた構図と似ているが、こちらはカラーなのでより様子を伺う事ができる。
門前には茶屋や料理屋が立ち並び、大変な人気であった。

(二代歌川広重・東都三十六景)

こちらは二代歌川広重による『東都三十六景』。
神門、鳥居、石段、社殿といった構成で、こちらは現在の境内にかなり近い。
構図上、境内がかなり詰まったように描かれている。

(歌川国貞・江戸自慢三十六興)

こちらは歌川国貞による『江戸自慢三十六興』より「王子稲荷初午」。
現在も「初午の日」は例祭であり、その例祭に駕籠で乗り付ける女性を描いている。
江戸中期より授与されるようになった「火防守護の凧守」は、奴を凧御守にした形の面白さもあって評判となり、初午の縁日は「凧市」と呼ばれ、今現在も続いている。

(歌川広重・名所江戸百景)

当社の管理下であった装束榎に集まる狐を描いたもの。
大晦日の夜に、こうして関八州の狐が装束を改めるために集ったという伝承を描いている。

こうした関東稲荷総社と称され、狐の伝承が残る当社は、江戸庶民より屈指の人気を誇っていった。

明治以降の歩み・古写真から見る当社

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

江戸屈指の人気を誇り、関東稲荷総社ともされた当社が無格社であったのは、王子両社として共に崇敬を集めた「王子神社」が、准勅祭社・郷社に列しており、江戸の頃より同じ別当寺の管轄であったため、当社は「王子神社」の末社と見られる事も強かったためであろう。

(日本之名勝)

こちらは明治三十三年(1900)に史伝編纂所より出版された『日本之名勝』に掲載されている当社。
戦前の境内を知る事ができる貴重な写真となっている。
石段が2つあり、上述した浮世絵などに描かれていた様子と変わらない。
鬱蒼と杉が生い茂った境内だった事が分かる。

この頃には落語『王子の狐』の舞台として人気を博すようになる。
初代三遊亭圓右が上方噺の「高倉狐」を東京に写した演目。
初代三遊亭圓右は、明治から大正にかけて活躍した噺家で、戦後になっても10代目金原亭馬生や7代目立川談志が行っていたりと、人気の噺の一つとなっている。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって本殿が大破。
昭和三十五年(1960)、本殿が再建される。

その後も境内整備が進み現在に至っている。

平成五年(1993)、「王子稲荷の狐火」の伝承を元に町おこしイベントの一環として大晦日に「王子狐の行列」が開始され、現在も人気を集めている。

境内案内

徳川家斉による極彩色で美しい拝殿

最寄駅の王子駅からは徒歩で数分の距離の住宅街に鎮座。
表参道には神門があるが、こちらの神門は平日は閉じられている事が多い。
境内に隣接するように、当社が運営する「いなり幼稚園」があり、平日は園児のために石段より下の部分を開放しているためで、こちらから入る事はできない。
神門の右手に手水舎、奥に鳥居と石段という組み合わせになっている。
休日などは開門されている事が多い。

神門が閉じられている場合は、左手の「いなり坂」より迂回すると南側の鳥居「いなり坂口」へ。
社殿の左手に出るので、こちらから参詣する形。

神門が開いている場合は、入ってすぐ右手に立派な手水舎。
開いていない場合は、石段のすぐ先に簡易の手水石が置かれている。
こちらで身を清めて参拝となる。

拝殿は極彩色が美しく立派なもの。
文政五年(1822)に、十一代将軍・徳川家斉が造営した拝殿が修復されながら現存。
極彩色の彫刻や金色の彫刻など、徳川将軍家の威光が伝わる。
昭和六十二年(1987)には社殿の総塗り換えが165年ぶりに行なわれた。
本殿は戦時中に大破してしまい、昭和三十五年(1960)に再建されたもの。

社殿の右奥には本宮や御石様と御穴様

社殿の右手が境内社などに繋がる参道となる。
朱色の鳥居を潜って右手に進むと「本宮」が鎮座。
江戸時代に描かれた当社にも社殿の右手に「本宮」が置かれており、配置は変わらない。

その右手に奉納鳥居が連なる。
その奥に稲荷社が三社。
江戸時代より当社には稲荷社の末社が多く鎮座しており、それらが残っているのだろう。

その左手奥に「御石様」。
いわゆる「おもかる石」と呼ばれるもの。
石を持ち上げた際に重く感じた場合は叶わず、軽く感じた場合は叶うと伝えられる。

この横に石段が続く。
「御穴様」と称される「狐穴」。
かつてはこんもりと茂った杉の大木に包まれて昼でも暗く、山中には沢山の狐が安住し、神使として大切にされていたと云う。
その跡がこの「御穴様」と称される「狐穴」であり、現在も大切にされている。
現在と配置は少し違うものの江戸時代の浮世絵などにもこうした様子が描かれている。

初午の凧市と火伏凧・大晦日の狐の行列

御朱印は社務所にて。
初午の日「凧市」開催日は、墨書きと初穂料(800円)が変わる。

当社は、「初午の日」が例祭となっている。
2月の午の日は「凧市」と呼ばれる縁日となり、社務所で「火防けの凧守」が授与される。
境内でも凧屋が店を出し大いに賑わう事で知れられる。

初午(はつうま)とは、2月最初の午の日の事。稲荷信仰の総本社である「伏見稲荷神社」の御祭神・宇迦御霊神が伊奈利山へ降りた日が2月11日であり、この日が初午であった事から、稲荷信仰の祭の日として知られる。当社も初午の日が例祭日となっていて「凧市」として賑わう。

12月31日(大晦日)には、「狐の行列」が行われる。
末社である「装束稲荷神社」より、狐のお面や装束を身に着けた人々が行列して当社へ正月の参詣をするというイベント。
広重の浮世絵などにも描かれ、古くから伝えられている「王子稲荷の狐火」にちなんだものとなっていて、平成五年(1993)より継続され人気イベントとして知られる。

江戸時代の頃には、大晦日の夜に諸国の狐が装束榎の辺りに集まり、装束を改めて当社に参詣すると言い伝えられ「王子稲荷の狐火」として有名で、村民たちは狐火の数で吉凶を占ったと伝わっている。こうした伝承に基いて行われているイベント。

所感

古くから関東稲荷総社として、関東・東国におけるお稲荷さまの総社とされた当社。
江戸時代に入ると徳川将軍家から庇護され、王子両社として「王子神社」と共に崇敬を集めた。
何より江戸庶民から絶大の人気を誇る神社であり、広重作の浮世絵からもその様子が伝わる。
初午の「凧市」で授与される「火防守護の凧守」は、火防守護の御神徳があるとして人気が高く、近年は大晦日の「王子狐の行列」が人気イベントとして定着しており、こうした祭事などが行われる時は、大変な賑わいを見せる。
普段は神社運営の「いなり幼稚園」が境内にあり、子供の賑やかな声が聞こえる地域の鎮守といった雰囲気であるが、祭事があると賑わいを見せ往年の様子を偲ぶ事ができるのが嬉しい。

神社画像

[ 神門・社号碑 ]


[ 一の鳥居・石段 ]

[ 手水舎 ]

[ 二之鳥居 ]


[ 狛犬 ]


[ 手水石 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿・拝殿 ]

[ 本殿 ]

[ 境内社鳥居 ]

[ 本宮 ]


[ 奉納鳥居 ]

[ 亀山稲荷神社・嬉野森稲荷神社・北村稲荷神社 ]

[ 奉納鳥居 ]

[ 御石様 ]



[ 御穴様 ]





[ 社務所 ]

[ 神楽殿 ]

[ 史料館 ]

[ 石灯籠 ]

[ 南鳥居(いなり坂口) ]

[ 神狐像 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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