神社情報
鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮(ちょうかいざんおおものいみじんじゃ わらびおかくちのみや)
御祭神:大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神)
社格等:出羽国一之宮・延喜式内社(名神大社)・国幣中社・別表神社
例大祭:5月3日
所在地:山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51
最寄駅:南鳥海駅(距離有り)
公式サイト:http://www9.plala.or.jp/thoukai/
御由緒
社伝によれば、第十二代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第二十九代欽明天皇二十五年(564)の御代と伝えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ヶ所に鎮座する。
大物忌神社は貞観四年(862)十一月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。
中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治三年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治四年(1871)五月吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、同十三年(1880)七月に山頂本殿を国幣中社に改め、同十四年(1881)に吹浦・蕨岡の社殿を口ノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。昭和三十年(1955)に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく二十年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成九年(1997)に造営された。
平成十九年(2007)当神社の社殿及び随神門・神楽殿が国の登録有形文化財に指定され、平成二十年(2008)には、山上本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が、国の史跡に指定された。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2019/06/03
御朱印
初穂料:各300円
「鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮」社務所にて。
※吹浦口之宮で里宮2社(吹浦口之宮・蕨岡口之宮)の御朱印を頂ける。(各300円)
※里宮2社の御朱印を見開きで頂く事もできる。
御朱印帳
初穂料:2,000円
「鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮」社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
鳥海山と鳥海湖をデザインした御朱印帳。
3色展開で、サイズは大サイズ。
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
授与品・頒布品
交通安全御守護ステッカー
初穂料:300円
「鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮」社務所にて。
歴史考察
出羽国一之宮・里宮の蕨岡口之宮
山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡に鎮座する神社。
出羽国の一之宮で、延喜式神名帳に記載された式内社(名神大社)。
旧社格では国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
鳥海山頂の「山頂御本社」と、鳥海山麓の里宮(口之宮)である「吹浦口之宮」「蕨岡口之宮」を総称して「鳥海山大物忌神社」と称しており、こちらでは「蕨岡口之宮」を中心に書かせて頂く。
出羽富士とも称される鳥海山を神体山として、古くから鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきた。
現在は境内全体が国の史跡に指定されている。
蕨岡に伝わる伝承・鳥海山に宿る大物忌神
社伝によると、第十二代景行天皇の御代に大物忌神が当国に出現したと云う。
鳥海山の山岳信仰の中心を担う「鳥海山大物忌神社」は、現在は鳥海山頂の「山頂御本社」・鳥海山麓の里宮(口之宮)「吹浦口之宮」「蕨岡口之宮」を総称して「鳥海山大物忌神社」と称するが、古くから鳥海修験や拠点となった多くの登拝口(主要でも吹浦・蕨岡・小滝・矢島の4箇所)があり、各登拝口ごとに異なる伝承が伝わる上、江戸時代までは対立していた歴史もあるため、定説や創建年代の特定は困難となっている。
神社の創祀は第二十九代欽明天皇二十五年(564)の御代と伝えられている。
大物忌大神を祀る神社として創建された。
鳥海山に宿るとされる神。
『記紀』には登場しない神で謎が多いが、鳥海山はヤマト王権の支配圏の北辺であり、大物忌神は国家を守る神、穢れを清める神ともされたと云う。
活火山であった鳥海山は度々噴火を繰り返し、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火の度に朝廷より高い神階が授けられた。
当社では稲荷神である倉稲魂命や「伊勢神宮外宮」の豊受大神と同神としている。
鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。
山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。
古くは鳥海山と呼ばれておらず、山そのものが「大物忌神」と神の名で呼ばれていたと見られており、山岳信仰によって朝野からの崇敬を集めた。
鳥海山は、山頂に雪が積もった姿が富士山に似ているため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれる。
但し、鳥海山は場所によって全く違う表情を見せるのが特徴で、上画像は秋田県湯沢市側から見た鳥海山。
こちらは吹浦近くから見た鳥海山。
更に蕨岡近くから見た鳥海山で、全く違う姿を見せている。
蕨岡の独自伝承として、宝永六年(1709)の縁起で、役行者が開山したとしている。
また別の縁起でも天武天皇の御代に役行者が山中に出没する鬼を退治し開山したとある他、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたとも記してあり、蕨岡の伝承では役小角が開山した事を前提として縁起が記されていた。
飛鳥時代の呪術者で、役行者(えんのぎょうじゃ)の名でも知られる。
修験道の開祖とされている伝説的な人物。
全国に様々な伝説を持ち、多くの修験道の霊場に開祖したり修行したという伝承が残る。
式内社に列する古社・出羽国一之宮
平安時代に編纂された歴史書『日本三代実録』には当社の記録が残る。
貞観四年(862)、『日本三代実録』に階位を授かる記述が見られ、更に官社に指定された。
『日本三代実録』には「大物忌神社が飽海郡山上にある」として記載されていて、山頂に鎮座していた事が窺える。
日本の正史とされる六国史(りっこくし)の第六にあたる歴史書。
平安時代に編纂され、編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行・三統理平とされる。
延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には「出羽国飽海郡 大物忌神社」として記載。
式内社の中でも最高位である名神大社に列した。
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。
『延喜主税式』には、祭祀料2,000束を国家から授かっている事が記載。
当時、国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥国一之宮「鹽竈社(現・志波彦神社・鹽竈神社)」、伊豆国一之宮「三島社(現・三嶋大社)」、淡路国二之宮「大和大国魂社(現・大和大国魂神社)」と他に3社しかなく、当社が国家から特別の扱いを受けていた事が窺える。
いつしか出羽国(現・山形県と秋田県)の一之宮として崇敬を集めたとして知られる。
日本最北の一之宮として崇敬を集めた。(画像は「吹浦口之宮」の社務所)
令制国で最も社格の高いとされた神社。
「一の宮」「一宮」とも。
神仏習合と各登拝口で発展した鳥海修験
鳥海山の山岳信仰は、平安時代より徐々に神仏習合。
中世には本地垂迹により「鳥海山大権現」と称され、社僧が奉仕をしたと云う。
日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする考え。
次第に鳥海山において行われた修験道「鳥海修験」が発展。
神そのものとして信仰を集めた鳥海山は、各登拝口ごとに修験が発展しいく事になる。
・吹浦口(山形県飽海郡遊佐町)現在の「鳥海山大物忌神社吹浦口之宮」
・蕨岡口(山形県飽海郡遊佐町)現在の「鳥海山大物忌神社蕨岡口之宮」
・小滝口(秋田県にかほ市)現在の「金峰神社」
・矢島口(秋田県由利本荘市)現在の「木境大物忌神社」
他に滝沢口・院内口などの登拝口があった。
各登拝口の修験者は、それぞれの信徒が一定の勢力を構成した上、天台宗系の本山派と真言宗系の当山派に分かれて対立を深め、争いが度々行われた他、それぞれ別の伝承などが生み出されていく事にも繋がる。
登拝口最大勢力となった蕨岡
江戸時代に入ると、鳥海山の各登拝口の信徒が一定の勢力を構成。
各登拝口の中でも特に蕨岡が最大勢力となる。
蕨岡の信徒は、山頂の鳥海山大権現の学頭別当と称して、直接的に鳥海山の山頂に奉仕。
蕨岡からの登拝の他、鳥海山中での厳しい修行も行われた。
現在も隣接する「龍頭寺」を学頭として、鳥海山表ロ、更に「順峯・蕨岡三十三坊」を称した。
現在も「龍頭寺」が残り、そうした神仏習合の中での信仰の面影がこの一帯には残る。
鳥海山の山頂へ直接奉仕したのが蕨岡の信徒であり、最大勢力として鳥海山山岳信仰の中心を担った。
江戸時代には一之宮や山頂争いが各登拝口で勃発
登拝口の最大勢力となった蕨岡であるが、他登拝口との対立を深め、多くの争いの中心にもなった。
承応三年(1654)、蕨岡と吹浦の論争が過熱し、遂には庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。
吹浦の信徒は、鳥海山の山頂に祀られている鳥海山大権現を、月山大権現と共に麓に勧請し「両所宮」(現・吹浦口之宮)として祀る信仰で、鳥海山と月山の神を神仏習合の中で「両所大菩薩」として祀っていた。
吹浦からの登拝は行っていたものの鳥海山中での修行は基本的に行わず、麓の両所宮を重視した信仰であったため、山頂の本社(権現堂)には関与していなかったとされる。
蕨岡と吹浦の信仰の違いが明確であったため、お互い対立をする形となっていた中、蕨岡の信徒が吹浦からの登山者を差し止めた事から両者の論争となり、庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された形。
翌年、判決が出ることとなった。
元禄十四年(1701)、山頂社殿建替えの話が出ると、順嶺・蕨岡と逆嶺・矢島の間で論争が発生。
修験作法には順峯と逆峯があるが、熊野山(和歌山県)から大峯山に入って吉野山(奈良県)へ出る修行を順峯と呼び、逆に吉野山から大峯山に入って熊野山へ出る修行を逆峯と呼ぶ。
鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称していた。(その後、幾度か順逆論争も発生している)
矢島が逆嶺側で建て替えるとして陳訴したのがきっかけであったが、結果的に裁断によって、順嶺の蕨岡がこれまで通り山頂社殿を建て替える事となった。
元禄十六年(1703)、蕨岡と矢島の間で、嶺境の論争が再燃し幕府寺社奉行書に裁決を提出。
こうした論争の中で、鳥海山の山頂に直接奉仕しているのは蕨岡の信徒と云う認識の中、蕨岡の信徒は山頂社殿を「出羽国一宮大物忌神社」、蕨岡を「鳥海山表口別当」、吹浦を「末社」と称した程に勢力を誇った。
宝永四年(1707)、社家・進藤曾太夫邦實は、吹浦の地位が低迷している事を嘆き、回復を計るために「一之宮」の名号を吹浦に許されることを庄内藩に訴願。
しかし、太夫の訴願は幕府の判決を戻すとして、太夫は出羽一国追放とされてしまう。
二代目歌川広重が『諸国名所百景』で描いた鳥海山
山岳信仰や修験道の霊場として信仰された鳥海山は、浮世絵としても描かれている。
二代目・歌川広重の浮世絵に鳥海山を見る事ができる。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などで代表される歌川広重(初代)の門人。
はじめは重宣(しげのぶ)と称していたが、安政五年(1858)に初代が没すると、広重の養女お辰の婿になり、二代目広重を襲名した。
広重の晩年の作品『名所江戸百景』にも参加し、一部は二代目の作とされている。
山形県側から見た鳥海山の様子。
諸国の名所を取り上げた『諸国名所百景』に選出される程の名所であった。
なお、出羽国から選出されたのは鳥海山のみである。
神仏分離で吹浦が復権し国幣中社へ・その後の歩み
明治になり神仏分離。
江戸時代後期には鳥海山の山頂に直接奉仕していた蕨岡と比べて、地位が低迷していた吹浦であったが、神仏分離への対応では蕨岡に先行する形で、一気に復権する事となる。
明治二年(1869)、吹浦の信徒は全て神道を奉ずる事となる。
明治三年(1870)、吹浦の奉仕者達は神職となり、社号を「大物忌神社」へ改称。
明治四年(1871)、吹浦の「大物忌神社」(現・「鳥海山大物忌神社吹浦口之宮」)が国幣中社に列する。
山頂の権現堂(現・本社)の管理も蕨岡ではなく吹浦が行う事となった。
明治十三年(1880)、松方正義の意見により左大臣・有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を「大物忌神社」の本殿とし、吹浦と蕨岡の「大物忌神社」を、それぞれ里宮(後の口之宮)とする旨を通達が出され、翌年に実施された。
明治以降は登拝が盛んに行われ、鳥海山への山岳信仰は盛り上がりを見せた。
明治二十九年(1896)、蕨岡の本殿を造営。
当時は現在より東の山手に鎮座したいたと云う。
吹浦ではなく蕨岡の大物忌神社(現・蕨岡口之宮)の古写真。
現在の姿とほぼ変わらないのが特徴的で、今も当時の姿をそのまま残している事が窺える。
昭和二十八年(1953)、本殿を東の山手から現在地へ移築。
昭和三十年(1955)、「鳥海山大物忌神社」は、鳥海山頂の「山頂御本社」と、鳥海山麓の里宮(口之宮)「吹浦口之宮」「蕨岡口之宮」の3つの社の総社号とされた。
昭和四十七年(1972)、鳥海ブルーラインが開通。
以後は観光の対象と見られる事が多くなり、徐々に山岳信仰としては薄れる事となった。
そうした中でも蕨岡の一帯は今も宿坊など神仏習合時代の面影を残す。
平成十九年(2007)、当社(蕨岡口之宮)の社殿・随神門・神楽殿が国登録有形文化財に指定。
平成二十年(2008)、境内が国の史跡へ指定。
その後も境内整備が行われ現在に至る。
境内案内
蕨岡口之宮の周囲は宿坊集落の面影を残す
最寄駅は南鳥海駅になるが距離がかなりあるため、交通面を考えると自家用車での参拝が望ましい。
麓の位置に一之鳥居。
境内よりかなり西側にある上に、車の場合は境内まで行けるので利用する事はないと思うが、徒歩の場合はこちらを利用する事になる。
文化十一年(1814)に奉納された石鳥居。
「羽州一宮鳥海山石鳥居一基」の刻銘。
その先に長い長い石段。
こうした石段や上り坂がずっと続く事になる。
緑に囲まれた古い参道は、電柱部分を除けば江戸時代の面影を残す。
二之鳥居・国登録有形文化財の随身門
上寺とも呼ばれる一画の中央に位置するのが当社の境内。
右手には神仏習合時代に学頭とされた「龍頭寺」も残っていて、かつて鳥海山表ロ、「順峯・蕨岡三十三坊」を称した面影も残る。
木造の二之鳥居。
上述した大正時代の古写真とほぼ変わらぬ姿。
社号碑には「国幣中社大物忌神社」の文字。
二之鳥居を潜った先に立派な神門。
江戸時代後期に建立された随神門。
神仏習合時代は仁王門として使用。
扁額には「出羽一之宮」とあり、庄内藩主・酒井忠器の寄進。
庄内藩の第八代藩主。
庄内藩は出羽国田川郡庄内(現・山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。
随神門を潜ると左手に手水舎。
現在は神職の常駐もないため平時は使用不可。
国登録有形文化財である豪壮な本殿
参道を進むと石段があり、左手に三之鳥居。
本殿はこの三之鳥居の先に鎮座。
三之鳥居の先は広い前庭があり、その先に本殿。
本殿は実に豪壮な造り。
いわゆる神明造の社殿になり、その規模がかなり大きい。
桁行総長は13.8m、梁間の実長も16.9mにも及び、床高も2.3m余りと高い、大きな本殿。
明治二十九年(1896)に造営されたもので、こちらも国の登録有形文化財。
横から見るとその大きさに驚かされる。
かつて登拝口最大勢力とされた蕨岡の隆盛のありさまが偲ばれる社殿。
本殿の手前に一対の狛犬。
個性的な表情をした狛犬で苔むした台座。
奉納年の刻銘がないものの蕨岡村からの奉納な事が記されている。
庄内藩の恩人を祀る境内社の荘照居成神社
本殿の右手に境内社。
朱色の鳥居がありその先に社殿。
末社の荘照居成神社(稲荷社)と摂社の風神社の合祀殿。
この社殿は遊佐町の指定有形文化財。
お稲荷様という扱いになるが、御祭神として江戸時代の旗本・矢部定謙を祀る。
天保十一年(1840)から、当時の江戸幕府の老中・水野忠邦の主導により、川越藩(埼玉県川越市)・庄内藩(山形県鶴岡市)、長岡藩(新潟県長浜市・新潟市)の「三方領知替え」(大名三家の領地を互いに交換させること)が問題となっていた。
定謙は江戸南町奉行となり、老中の命により領知替えの検証を行った結果、領知替えの必要性を認めず、再吟味を具申し、十二代将軍・徳川家慶の裁断により中止が決定。
定謙没後の弘化三年(1846)庄内藩の恩人として当社に祀られる事となった。
その手前にさざれ石。
かなり小ぶりで可愛らしいさざれ石だが、戦後になってから矢部定謙の終焉の地(伊勢桑名藩)である三重県桑名から奉納されたもの。
矢部定謙は老中・水野忠邦と対立したために罷免。
天保十三年(1842)、伊勢桑名藩預かりとなったものの、お預から3ヵ月後、定謙は病死した。
抗議のため自ら絶食したという説もある。
定謙の死後、水野忠邦の改革失敗が明らかになり、定謙の見識の正しさが証明された。このため、幕末期の官僚からはその非業の死を惜しまれることになった。
その右手に境内社が三社。
末社となる火鎮神社・松ヶ岡神社・白山神社。
国有形文化財の神楽殿(旧鐘楼)・江戸時代の宝篋印塔
参道の右手に朱色の神楽殿。
江戸後期に造営された神楽殿で、国の登録有形文化財。
江戸時代の頃までは鐘楼として使用されていて、神仏分離の後、神楽殿に改められたもの。
手水舎の近くに宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
酒田の豪商・本間光丘(ほんまみつおか)寄進の石塔で、死後の極楽往生を願うもの。(建立後の1年後に光丘は亡くなっている)
約400段の朽ちた石段の先には峯中碑伝や拝殿跡
参道の正面には長い長い石段があり、松岳山と呼ばれた山中へ入っていく。
現在の本殿が下に遷されるまでは、この長い石段の先に拝殿などが設けられていた。
現在はほぼ使用する人が居らず、かなり朽ちた石段。
石段だけでなく金属製の手すりも朽ちていて、触れると崩れ落ちるくらい脆い。
蜘蛛の巣や大量の虫に囲まれながら、終わりが暫く見えない石段をひたすら上る。
約400段の朽ちた石段を上った先に少し開けた一画。
ここに置かれているのが峯中碑伝(ぶちゅうひで)。
峯中修行の記念碑。
鳥海山道者を案内する先達(先途)の位を得るためには、「胎内修行」と呼ばれる10ヶ月に渡る修行をしないといけず、山中で厳しい修行を行う鳥海修験の一端を表している。
その右手に獣道とも言えないような一画。
この奥に拝殿跡へ続く道なき道があるのだが、道として成立しておらず遭難の危険性すらあるため、ここで引き返すのが得策だと思われる。(先には碑が置かれているだけ)
実写版『るろうに剣心』のロケ地にも
当社の境内は、2014年公開の映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』のロケ地にも使用。
御朱印は吹浦口之宮の社務所にて
境内には社務所もあるが神職などは常駐していない。
トイレとして開放してあり内部は斎館にも。
御朱印については以下の掲示。
「吹浦口之宮」にて対応して頂け、「蕨岡口之宮」では対応不可。
御朱印は「吹浦口之宮」の社務所にて。
とても丁寧に対応して頂けた。
現在、鳥海山頂の「山頂御本社」と、鳥海山麓の里宮(口之宮)である「吹浦口之宮」「蕨岡口之宮」を総称して「鳥海山大物忌神社」と称するが、「吹浦口之宮」の社務所で、「吹浦口之宮」「蕨岡口之宮」のどちらの御朱印も頂く事ができる。
2019年6月に参拝時は吹浦口之宮と蕨岡口之宮の御朱印を見開きで頂いた。
右が吹浦口之宮の御朱印で、左が蕨岡口之宮の御朱印となり、中央に「鳥海山大物忌神社」の墨書き。
鳥海山と鳥海湖がデザインされた大サイズの御朱印帳
「吹浦口之宮」の社務所では、オリジナルの御朱印帳も用意。
鳥海山と鳥海湖をデザインした秀逸な御朱印帳で、3色展開。
他にも色々と授与品を用意しているので、授与品類は「吹浦口之宮」で頂く形となる。
所感
出羽国一之宮でとして古くから多くの信仰を集めた当社。
活火山の鳥海山はヤマト王権の頃から信仰の対象だったようで、古くは山を大物忌神と云う神の名で呼んでいたように、山自体を神として信仰していた事が窺える。
神仏習合、そして鳥海修験の発展によって、蕨岡は登拝口の最大勢力となる。
山頂に直接奉仕したのが蕨岡であり、中世以降の山岳信仰の中心を担ったとも云える。
「順峯・蕨岡三十三坊」と称する程の勢力であったが、明治の神仏分離にいち早く対応した吹浦に遅れを取り、結果的に現在のような山頂の御本社と、里宮である吹浦・蕨岡の2社を総称して「鳥海山大物忌神社」と呼ぶようになった。
現在は神職の常駐がなく交通の面でも蕨岡まで参拝に訪れる方は少ないようで、2019年6月に参拝した時は数時間蕨岡に滞在したのだが、参拝者は誰一人おらず境内を独占状態だった。
神仏習合の名残をまだまだ色濃く残す貴重な一画で、当時の信仰の一端を知る事ができる良い神社。
「龍頭寺」を始めとして宿坊集落の面影を残す周辺も散策しつつ楽しむと、なお楽しい。
「吹浦口之宮」とはまた違った空気を纏った神社である。
神社画像
[ 一之鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 社号碑・二之鳥居 ]
[ 随神門 ]
[ 手水舎 ]
[ 三之鳥居 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 荘照居成神社・風神社 ]
[ 火鎮神社・松ヶ岡神社・白山神社 ]
[ さざれ石 ]
[ 神庫 ]
[ 石碑 ]
[ 神楽殿 ]
[ 石碑 ]
[ 宝篋印塔 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]
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