神社情報
一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)
御祭神:一言主大神
社格等:村社
例大祭:9月13日(例祭)・例祭近日中の別日(奉祝祭/からくり綱火)
所在地:茨城県常総市大塚戸町875
最寄駅:水海道駅から車で約15分
公式サイト:http://www.hitokoto.or.jp/
御由緒
一言主大神は大国主命の最愛の長子で、円満の徳を具え、大義名分の道理をわきまえた神であり、御父神をたすけて、国土を経営し国利民福を計って、一般民衆を案ぜられ、よき政治を行い国家守護神となられました。
大神は俗に恵美須神とも称え、御父神大黒神と常に並び、福の神運の神・商売の神・災禍の神・農作の神・縁結の神・平和の神と称え奉り一般大衆の最も崇敬し篤く信仰するところであります。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2019/02/20(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/06/03(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
御朱印
初穂料:300円
授与所にて。
※祭事に応じて限定御朱印あり。
御朱印帳
初穂料:1,200円(刺繍)・1,000円(和紙)
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意している。
月夜に桜や紅葉などをデザインしたもの。
裏面には当社の社紋と社号。
京都デザインファクトリー成願義夫氏によるデザイン。
他に和紙が表紙の御朱印帳も用意されている。
授与品・頒布品
交通安全ステッカー
初穂料:500円
授与所にて。
歴史考察
茨城県西部有数の神社・三竹山一言主神社
茨城県常総市大塚戸町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、大塚戸村やその周辺の総鎮守。
一言の願いでも聞き入れる神とされる一言主大神を祀る。
御由緒から「三竹山一言主神社」と称される事も多い。
崇敬者からは古くからの呼び名「一言明神」「一言大明神」と呼ばれ信仰を集めている。
現在は茨城県西部有数の神社と知られ、日頃から参拝者も多く、初詣や例祭になると大勢の人で賑わう。
平安時代に創建・三岐の竹の伝説と三竹山
社伝によると、大同四年(809)に創建と云う。
大和国葛城山「葛城一言主神社」(現・奈良県御所市)より勧請と伝わる。
奈良県御所市森脇に鎮座する神社。
式内社(名神大社)の古社で、崇敬者からは「いちごんさん」と通称される。
全国の一言主神社の総本社。
御由緒には「三岐の竹」と呼ばれる伝説が残っている。
現在の社殿がある辺りに怪しい光が現れ、雪の中から忽然とタケノコが生じ、1本が3つに枝分かれした「三岐の竹」となった。
あまりに不思議で怪しいため、村民たちがお祓いをして湯立の神事を行うと「吾は大和國葛城山に居る一言主大神なり。今東國の万民の災禍を救わんが為に来れるなり。即ち此の三岐の竹を以て永く契とせよ。」と宣託をされたため、村人は数町の間を宮内と号して人の出入りを禁じ、社殿を造営して一言主大神をお祀りした。
その後も時折、当地に三岐の竹が生ずることから、境内を「三竹山」と称した。
古くから境内を「三竹山」と称した事から「三竹山一言主神社」とも称される。
扁額にも「三竹山一言主神社」。
また境内社として「霊竹殿」が鎮座。
社殿内には三岐の竹が数本納められている。
一言の願いも聞き入れる一言主大神
当社の御祭神は「一言主大神(ひとことぬしおおかみ)」。
御由緒にあるように大和国葛城山にいた神とされていて、当社に一言主大神を勧請した「葛城一言主神社」(現・奈良県御所市)は、全国の「一言主神社」の総本社とされる。
一言主大神は『古事記』『日本書紀』などにもにも登場する神として知られる。
雄略天皇四年(460)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行った際、天皇一行と全く同じ格好をした一行が、向かいの尾根を歩いているのを見つけた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり。」と答えた。
天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。
こうした記述から、古くより「託宣神」「言霊の神」として信仰。
歴史書によって内容の違いはあるものの、出雲の古代氏族・賀茂氏の祖神であったと考えられている。
「出雲大社」の御祭神で知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)の子。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に、天津神に国土を献上した事から大国主命と共に国譲りの神話で登場する神。
当社では古くから「一言明神」「一言大明神」と呼ばれる事があり、現在も一部崇敬者はそう呼ぶ。
鳥居の扁額にも「一言大明神」の文字。
こうした伝承などから「一言願えば良き事につけ、良からぬ事(心配事・病気・災難等)につけ、良く聞き分けて御利益を授けてくれる神」と云われ、「万能神」として信仰されている。
中世には荒廃と再建を繰り返す
中世には、戦乱の中で荒廃と再建を繰り返したと伝わる。
長禄三年(1459)、社殿を守谷城の城主・相馬弾正胤広が再建。
初代の相馬師常は、千葉常胤(千葉氏中興の祖)の次男。
師常が父・常胤より相馬郡相馬御厨(現・千葉県北西部)を相続されたことに始まる。
伝承によると師常は平将門の子孫とされる信田師国の養子であったと云う。
天文十九年(1550)、兵火によって拝殿が損傷。
永禄年間(1558年-1570年)、兵火によって拝殿が半焼。
戦乱の世の中で、幾度かの兵火に遭ったようだが、その度に再建されている。
当地は大塚戸村という地で、村人や領主などから崇敬を集めた。
江戸時代には社殿の大改修が行われる
江戸時代に入ると社殿の大改修が行われる。
元禄十三年(1700)、社殿の大規模な修復が行われた。
これが現存する本殿で、水海道市(現・常総市)の市指定文化財となっている。
慶応三年(1867)、拝殿が再建。
大塚戸村や地域一帯の総鎮守として多くの崇敬を集め、江戸時代には現在も伝わる「からくり綱火」などが行われており、当地一帯で有名な神社となっていた。
別当寺は近くにあった「善光寺」(現・廃寺)が担っていた。
江戸時代より伝わる「からくり綱火」
江戸時代初期には、現在も伝わる「からくり綱火」が始まったと伝わる。
綱によるからくり人形と仕掛け花火が結合した特殊伝統芸能。
「大塚戸の綱火」として、茨城県指定無形文化財となっている。
万治二年(1659)、他部落(大塚戸村向山坪)の「三峰神社」(現在は当社の境内に合祀)の造営の際に奉納されたのが起源とされ、その後、当地一帯の総鎮守である当社に移行し続けられた。
江戸時代の頃から「からくり綱火」が知られており、地域一帯の総鎮守として崇敬を集めた。
有名な霊社へと発展・戦後の最盛期
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治二十二年(1889)、市町村制施行に伴い、大塚戸村・菅生村が合併し菅生村が成立。
当社はそうした地域一帯の総鎮守を担った。
明治四十年(1907)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は今も昔も変わらないが、現在のほうが社地は広くなっている。
菅生村の一画にあり、大塚戸の地名も見る事ができる。
今も昔ものどかな一画であり、道路なども当時と今はほぼ変わらず、古い地形を残していると云えるだろう。
明治四十二年(1909)、大塚戸に祀られている多くの神社を合祀。
大正七年(1918)に出版された『利根川勝地案内』には、当社について以下のように記されている。
一言主神社は、北相馬郡菅生村字大塚戸に鎮座す。境内を三竹山と称し、地方に於て有名なる霊社なり。(以下略)
「地方に於て有名なる霊社」と記されているように、既に著名な神社となっていた事が窺え、例祭の「からくり綱火」や神威が知られ、多くの崇敬者がいた事が窺える。
上の古写真は、昭和十六年(1941)に「いはらき新聞」より出版された『茨城県神社写真帳』から当社の写真。
黒潰れと低解像度で分かりにくいとは思うが、戦前の社殿を見る事ができる。
まだ増改築される前の社殿であり、今よりは簡素な社殿だった事が窺える。
戦後になり境内整備が進む。
昭和四十五年(1970)、本殿の屋根を茅葺から銅板葺に改修。
更に拝殿の増改築を行った。
その後も境内整備が進み現在に至っている。
現在は茨城県西部有数の神社と知られ、日頃から参拝者も多く、初詣や例祭になると大勢の人で賑わう。
境内案内
参道のレトロなアーチ・大塚戸のムクノキ
最寄駅は水海道駅となるが、車で約15分ほどの距離に鎮座しているため、自家用車推奨。
当社から数10km離れた場所にも当社への案内板が置かれていたりと、地域を代表する神社である事が窺える。
県道252号沿いに目立つアーチが置かれている。
「一言主神社入口」と書かれたアーチ。
古い昭和の温泉街を思わせるような歓迎アーチで、昭和の最盛期を偲ぶ。
大きな看板も設けられていて、地域を代表するスポット。
アーチの向かい、通りを挟んだ場所にムクノキの大木。
「大塚戸のムクノキ」と呼ばれ、高さは約20m。
市指定の天然記念物。
アーチを潜ると長い参道が続く。
参道途中には多くの大型駐車場。
当社への参詣者の多さを伝えてくれる。
1960年代から1970年代にかけて当社には多くの講社が結成され、最盛期には大変多くの観光バスなどが訪れたと云い、アーチや大型駐車場はそうした歴史を伝えてくれる一画。
1970年代の最盛期は、例祭になると大型バス500台も詰めかける程であったと云う。
(現在も初詣で例年15万人の参拝客が訪れる)
その先に大鳥居。
大鳥居の先までは、参道を兼ねた車道。
大鳥居を潜った先にも大きな駐車場があり、右手に境内が広がる。
右手にも駐車場が設けられていて、参拝者の多さが伝わる。
三竹山と称される境内・多くの奉納品
当社の境内は古くから「三竹山(みたけやま)」と称される。
現在の社殿がある辺りに怪しい光が現れ、雪の中から忽然とタケノコが生じ、1本が3つに枝分かれした「三岐の竹」となった。
すると一言主大神から宣託を受けたため、当社を建立。
その後も時折、当地に三岐の竹が生ずることから、境内を「三竹山」と称した。
境内に入ると多くの鳥居と狛犬が置かれている。
これらはいずれも崇敬者からの奉納物で、当社への篤い崇敬が伝わる。
一之鳥居と社号碑。
二之鳥居は建立年は不詳ながら古いもの。
扁額には「一言大明神」の文字。
現在も崇敬者からは一言明神と称され親しまれている。
狛犬は新旧のものが参道だけで4対(計8体)。
特に二之鳥居横の狛犬が古い。
文久二年(1862)奉納。
更に三之鳥居。
三之鳥居の先、右手に手水舎。
手水舎には多くの千社札。
崇敬者の多さによるものであろう。
社殿の前に注連縄が巻かれた四之鳥居。
この先がとても立派な社殿。
風格のある社殿・本殿は江戸時代のものが現存
社殿は実に立派で風格のある造り。
拝殿は、慶応三年(1867)に寄進され造営されたものを増築し使用。
昭和四十五年(1970)に明治百年記念事業として増改築が行われた。
桧皮葺(ひわだぶき)風銅板葺の屋根が実に美しい。
柱にも細かい装飾がされていて、扁額の彫刻も見事。
本殿は、長禄三年(1459)に再建されたものを基に、元禄十三年(1700)大修理が行われ現存。
昭和四十五年(1970)には本殿の屋根を茅葺から銅板葺に改修。
朱色の本殿に美しい極彩色の彫り物が施されている。
本殿背面には鶴に牡丹の彫り物。
脇障子には当社の創建の由来となった「三岐の竹」の彫り物が施されているのが特徴。
水海道市(現・常総市)の市指定文化財となっている。
三岐の竹を納める霊竹殿・
社殿の左手に奉納された「三岐の竹」。
その奥に三岐の竹が数本納められていると云う「霊竹殿」。
当社の創建由来となった三岐の竹。
伝承の後も度々、三岐の竹が生じる事から、境内を「三竹山」と称するようになったと云う。
その左手に「大黒社」。
御祭神の大国主命は、一言主大神の父神とされる。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に、天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる神。
国津神(天孫降臨以前より国土を治めていた土着の神)の最高神ともされ、古くから「出雲大社」の御祭神として知られる。
民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合していった。
縁結びの木・御神水と御神木
社殿の左手より後方へ向かう事ができる。
潜ると案内板。
右手からは本殿をよく見る事ができ、幾つかの境内社や御神木。
鳥居を潜った先に稲荷社・香取社の合殿。
その隣に縁結び社。
左にはなぎの木が植えられている。
縁結びの木とされる。
その右手にお水取りができる一画。
境内の地下水が湧き出る形。
自由にお水取りが可能。
その奥に立派な杉の御神木。
本殿の真裏にあり、樹齢は不明との事だが立派な大樹。
天高く聳えていて美しい。
社殿の正面からも御神木が伸びているのが分かる。
多くの境内社や信仰を伝える祠
先程の案内板の左手には多くの境内社が祀られた合社。
明治四十二年(1909)、大塚戸に祀られている13社が当社境内の合祀されたもの。
三峰社・愛宕社・八幡社・三王社・妙見社・天神社・八坂社・大日霊社・白髭社・厳島社・道祖社・別雷社・浅間社。
その奥に石棺。
大塚戸古墳から発掘された石棺。
古墳時代後期のもので、古くから当地に人の定住があった事が窺える。
更に奥に御神砂。
土地の四方に撒き清めるために使うもの。
お砂取りが可能。
その奥に古い小祠や庚申塔などが多く置かれている。
当地周辺の小祠や碑が遷されたもの。
当地の信仰の歴史を伝える一画となっている。
御朱印や美しい御朱印帳・豊富な授与品
オリジナルの御朱印帳も用意している。
月夜に桜や紅葉などをデザインした美しい御朱印帳。
他に和紙の御朱印帳や御朱印袋も用意している。
授与品も豊富。
オリジナルの御守の種類も多く、天然石パワーブレスレットも人気。
交通安全お守りも多く用意しており、当地周辺を運転していると、当社の交通安全ステッカー(鳥居と九曜紋の2種類あり)を貼っている車を大変よく見かける。
常に御祈祷を希望する方がいて、地域からの崇敬の篤さを伝えてくれる。
また毎月第3日曜には「骨董市」も開かれている。
所感
茨城県西部有数の神社として知られる当社。
古くは「一言明神」と称され、地域から崇敬を集めた。
江戸後期から近代には既に当地周辺で有名な霊社として知られており、関東における一言主信仰の中心として栄えた事が窺える。
中でも最盛期を迎えたのが、戦後の1960年代-1970年代で、関東圏を中心に多くの講社が結成され、観光バスなどが多く訪れたと云い、現在も参道入口のアーチや境外にも置かれた駐車場などから、昭和の最盛期の面影を見る事ができる。
そうした講社は現在廃れているが、今なお崇敬者が多く、日頃から多くの参拝者が訪れる人気の神社。
地域の信仰が集まった境内は素晴らしく、茨城県西部を代表する実に良い神社である。
神社画像
[ 参道入口アーチ ]
[ 大塚戸のムクノキ ]
[ 参道 ]
[ 大鳥居 ]
[ 境内入口 ]
[ 一之鳥居 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 三之鳥居 ]
[ 四之鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 常夜灯 ]
[ 水盤 ]
[ 大黒社 ]
[ 霊竹殿 ]
[ 御籤掛 ]
[ 三岐の竹 ]
[ 控所 ]
[ 境内社参道 ]
[ 合社 ]
[ 天水桶 ]
[ 石棺 ]
[ 古札納処 ]
[ 小祠 ]
[ 御神砂 ]
[ 小祠・庚申塔 ]
[ 境内社鳥居 ]
[ 境内社手水舎 ]
[ 稲荷社・香取社 ]
[ 縁結び社 ]
[ 御神水 ]
[ 御神木 ]
[ 授与所 ]
[ 祭器庫 ]
[ 古木 ]
[ 参集殿 ]
[ お手洗い ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
[ 参道茶店 ]
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