神社情報
大泉氷川神社(おおいずみひかわじんじゃ)
御祭神:素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命
相殿神:香具槌命・火生霊命
社格等:村社
例大祭:10月第2日曜
所在地:東京都練馬区大泉町5-15-5
最寄駅:大泉学園駅
公式サイト:─
御由緒
当社の創立年月日は定かでありませんが、武蔵国一の宮氷川神社への崇敬の念から勧請したもので、明治維新におよび、村民はここを当村(橋戸村)の鎮守と定め、明治七年(1874)に村社となりました。
祭神は須佐之男命、大己貴命、稲田姫命で、相殿に愛宕神社(祭神・香具槌命、火産霊命)、境内社に稲荷神社、白山神社、弁天社、御嶽神社があります。
明治十三年(1880)社殿の改築が行われましたが、社殿の老朽化に伴い、昭和五十年にいたり鉄筋コンクリート造り、銅板葺・流造に改築されました。
稲荷神社は江戸時代、橋戸村に所領をもっていた伊賀組衆の守護神として祀られていましたが、明治維新後、村民に下げ渡されました。もと村内愛宕社にあったといいます。
稲荷神社の鳥居右手に嘉永二年(1849)伊賀組衆百八名が奉納した御手洗石があります。それには、天正十八年(1590)徳川家康の入府に従って、江戸周辺に給地を賜った伊賀衆の由緒が漢文で刻まれています。同時に奉納した石鳥居は破損して境内に保存されています。
境 内にはそのほか昭和七年市域合併記念の石灯籠や荘氏由緒碑があります。
当社は南に白子川を望む丘陵に位置し、四季を通じて深い緑につつまれています。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/05/11
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
旧橋戸村(現・大泉町)鎮守の氷川さま
東京都練馬区東大泉に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧橋戸村(現・大泉町)の鎮守。
境内社は江戸時代に橋戸村を領地としていた伊賀衆の守護神であった稲荷神社があり、伊賀組が奉納した水盤などが現存。
平成元年より「平成大造改修」が行われ、境内の多くが新しく整備された。
正式名称は「氷川神社」であるが、他との区別から「大泉氷川神社」とさせて頂く。
武蔵一宮氷川神社より勧請・村民の屋敷内に鎮座
創建年代は不詳。
村民が「武蔵一宮氷川神社」への崇敬の念から当地へ勧請したと伝わる。
当地は古くは、武蔵国新座郡橋戸村と呼ばれ、橋戸村鎮守の一社であった。
江戸時代の頃は、庄氏とされた村民・忠右衛門の屋敷内にある祠として祀られていた。
庄氏の一部が当地に帰農し名主となり、屋敷内に「武蔵一宮氷川神社」の御分霊を祀ったものと推測できる。
伊賀衆(伊賀組)の領地となった橋戸村
武蔵国新座郡橋戸村と呼ばれた当地であるが、その名が初めて文献で見る事ができるのは慶長元年(1596)の古文書とされる。
以来、江戸時代にかけて橋戸村と隣接する白子村(現・和光市)は、伊賀衆(伊賀組)の領地とされた。
天正十年(1582)「本能寺の変」の直後、危機に陥っていた徳川家康を、服部正成(服部半蔵)など伊賀衆が護衛しながら三河国へ逃がした通称「神君伊賀越え」の功績を認められ、江戸時代に入ると「伊賀組同心」として幕府に召し抱えられ、江戸周辺の知行地を与えられた。
橋戸村を領地とした伊賀衆の守護神であったのが、現在は当社に遷された境内社の稲荷社。
嘉永二年(1849)に伊賀衆が奉納した水盤が現存している。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(橋戸村)
氷川社
村民庄忠右衛門が宅地の内にある小祠。祭神は在五中将なり。其家にては、中将東国下向の時、庄春日江古田と云三人のもの慕ひ来りて、此地に祭りしと相伝れども信ずべからず。
橋戸村の「氷川社」と書かれているのが当社。
村民・庄忠右衛門の敷地内にある小祠であったと記されている。
これが上述した当地の名主であり庄氏とされた村民・忠右衛門の事。
興味深いのが「祭神は在五中将なり」と記されている事。
業平が東国に下向する際、3人が慕って来て当地に業平を祀ったと云う伝承があると云うが、『新編武蔵風土記稿』では「信ずべからず」と記されている。
氷川社で在原業平が御祭神というのもおかしな話なので、やはり創作であろう。
現在の「大泉八坂神社」(現・大泉町1丁目)の事で、こちらが鎮守であったようだ。
当社と同じく忠右衛門が管理していたようで、忠右衛門の屋敷内にあった当社も、この「天王社」と共に、橋戸村の鎮守であったのだろう。
明治以降の歩み・平成大造改修
明治になり神仏分離。
明治七年(1874)、村社に列する。
橋戸村の鎮守として崇敬を集めた。
明治十三年(1880)、社殿の改築が行われる。
明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、橋戸村・小榑村が合併し、榑橋村(くれはしむら)が成立。
明治二十四年(1891)、榑橋村と上土支田村が合併し、大泉村へ成立。
当地は大泉村大字橋戸となる。
村内を流れる小井戸川(現・白子川)と、その源流の泉(井頭池)に因み、当初は「小泉村(おいずみむら)」として提案されたものが、転じて「大泉」になったと云う。
現在の練馬区の大泉地区と呼ばれる一帯に当たる。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
大泉村という地名と、かつての旧村名である橋戸の地名が残る。
まだ当社付近は街道が整備されておらず、田畑と入り組んだ道があった農地だった事が窺える。
明治四十一年(1908)、同村の愛宕下「愛宕神社」・中耕「稲荷神社」、富士下「浅間神社」の3社を合祀。
昭和七年(1932)、板橋区が成立を機に、大泉村橋戸は北大泉町(後の大泉町)に変更。
昭和五十年(1975)、社殿を造営。
鉄筋コンクリート造にて新築された。
平成元年(1989)から平成五年(1993)にかけて、境内の「平成大造改修」が行われる。
境内の多くがこの頃に整備されたもので、境内の様相が一変し、現在に至る。
境内案内
平成大造改修で整備された参道や境内
最寄駅は大泉学園駅だが、徒歩20分ほどと距離がある。
都道沿いに鎮座していて、社頭は「平成大造改修」で整備され、まだ新しさを感じる造り。
一之鳥居や社号碑は平成三年(1991)に建てられたもの。
鳥居を潜ると多くの石灯籠が置かれた参道。
いずれも氏子崇敬者による奉納。
参道を進むとその先に二之鳥居。
こちらの社号碑には「村社氷川神社」の文字。
石段や途中の一対の石灯籠などは古いものを利用し整備されている。
石段を上ると正面に社殿、右手に手水舎。
手水舎はセルフで水を出す仕組み。
柱にボタンが設置されているので、このボタンを押すと水が出て清める事ができる。
鉄筋コンクリート造で再建された社殿
その先に小上がりの石段があり、正面に社殿。
社殿は昭和五十年(1975)に造営されたもの。
明治十三年(1880)の木造社殿の老朽化が目立ったため、鉄筋コンクリート造によって再建。
綺麗な状態を維持している。
参拝した当日は本殿の一部改修が行われていて工事中であった。
社殿の前に一対の狛犬。
こちらも「平成大造改修」で奉納されたもの。
阿吽の狛獅子となっている。
多くの境内社・伊賀衆奉納の水盤と鳥居
社殿の左手に境内社。
社務所の右隣にあるのが弁天社。
水は張られていないものの、弁天池として利用できるような造り。
その右手に境内社が2社。
さらに右手に稲荷神社。
この稲荷神社が、かつて橋戸村を所領した伊賀衆の守護神だったお稲荷様。
明治維新後に村民に下げ渡され愛宕下「愛宕神社」に遷されたが、「愛宕神社」が当社に合祀されたため、現在は当社の境内社として鎮座している。
この稲荷神社の前にあるのが、伊賀衆が奉納した古い水盤。
嘉永二年(1849)に奉納したものが、当社に稲荷神社と共に移された。
その近くに同じく伊賀衆奉納の鳥居の柱。
左右の円柱には伊賀衆を始めとした99人の奉納者の氏名が刻まれている。
稲荷神社の隣に御嶽神社。
昭和五十二年(1977)に整備された碑が残る。
神楽殿など・御朱印は社務所にて
他に境内施設として神楽殿。
平成三年(1991)に「平成大造改修」の一環で建造されたもの。
境内の裏手からは氏子地域の住宅街へ繋がっていて、境内の一部は駐車場としても利用されている。
所感
橋戸村の鎮守として崇敬を集めた当社。
『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代は名主・忠右衛門の屋敷内にあった小祠であったようで、「天王社(現・大泉八坂神社)」が橋戸村の鎮守として記されている。
明治になり当社が村社になっていて、橋戸村の鎮守として整備された事が窺える。
その後、明治の合祀政策によって周辺の神社を合祀しており、その中には、伊賀衆の守護神であった稲荷神社や、伊賀衆が奉納した水盤・鳥居なども移された。
戦後造営の社殿や「平成大造改修」によって整備された境内は、まだ新しさを感じ、かつての姿からは様相が一変したとの事だが、そうした中にも古い奉納物などが残されているのは有り難い。
こうして境内を綺麗に整備できたのも、氏子崇敬者からの篤い崇敬の賜物であろう。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 二之鳥居・社号碑 ]
[ 石段 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 弁天社 ]
[ 境内社 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 水盤 ]
[ 鳥居柱 ]
[ 神輿庫 ]
[ 御嶽社 ]
[ 神楽殿 ]
[ 社務所 ]
[ 古札納所 ]
[ 裏参道 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
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