神社情報
大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)
御祭神:菅原道真公
社格等:村社
例大祭:8月1日(八朔祭)
所在地:茨城県常総市大生郷町1234
最寄駅:三妻駅から車で10分程
公式サイト:http://www.tenmangu.or.jp/
御由緒
社伝によりますと、菅原道真公の三男景行公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜三年(903)二月二十五日に亡くなられました。
景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介として常陸国にやってきました景行公は、延長四年(926)に現在の真壁町羽鳥に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(929)当時飯沼湖畔に浮かぶ島を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です。
日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神ともいわれています。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2017/06/03
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
天神信仰らしい梅の御神紋をあしらったもの。
紺を基調として梅と松をデザインしている。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
日本三大天神にも数えられる御廟天神
茨城県常総市大生郷町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、大生郷村(後に合併し菅原村)の鎮守で、飯沼周辺三十一ケ村の総鎮守。
菅原道真公の三男・景行が創建し、菅公の遺骨が納められている事から「御廟天神」とも呼ばれる。
遺骨を御神体とし遺族によって祀られたのは当宮のみである事から、「太宰府天満宮」「北野天満宮」と共に日本三大天神にも数えられる事がある。
境内の裏手が神苑として整備され「菅原道真公御廟所」が置かれている。
菅原道真公の遺骨を祀り創建
社伝によると、延長七年(929)に創建とされる。
菅原道真の三男・菅原景行が、道真の遺骨を祀り創建したと伝わる。
延喜三年(903)、菅原道真が太宰府にて逝去。
景行は遺言通り、遺骨を持ち諸国を巡ること20数年。
延長四年(926)、常陸国の筑波山の北側(現在の茨城県桜川市真壁町羽鳥周辺)に塚を築き、その地方の豪族と共に、一時的に道真の遺骨を納めた。
延長七年(929)、当地にあった飯沼湖畔に浮かぶ島を遺言の地として、社殿を造営。
道真の遺骨を遷し祀る事にした。
これが当宮であるとされる。
以後、飯沼周辺の鎮守として崇敬を集めた。
下妻城主多賀谷氏によって再建
天正四年(1576)、下妻城主多賀谷氏と後北条氏との間で戦が発生。
この兵火によって社殿が焼失。
天正十年(1582)、多賀谷氏により社殿が再建。
兵火によって社殿を焼失された罪滅ぼしに鎧太刀と共に三十六歌仙絵を奉納。
徳川将軍家と寛永寺による社殿修復
江戸時代に入ると、慶長九年(1605)、伊奈忠次より黒印地三十石を拝受。
慶安元年(1648)、徳川将軍家の朱印地に改められる。
徳川将軍家によって庇護され、徳川将軍家の菩提寺である上野「寛永寺」と深い繋がりを持つようになる。
正徳四年(1714)、「寛永寺」により社殿の修復される。
その後も「寛永寺」が修復や寄進を行っている。
飯沼新田開発の祈願所となり周辺の総鎮守に
享保九年(1724)、飯沼新田開発の祈願所となる。
享保十三年(1728)、飯沼新田開発が終わると祈願所であった当宮は、飯沼新田開発に携わった飯沼周辺31ヶ村の総鎮守とされた。
各村に当宮の分社が造営され崇敬を集めたと云う。
明治以降の歩み・古写真で見る当宮
明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、大生郷村・大生郷新田・伊左衛門新田・笹塚新田・五郎兵衛新田・横曾根新田が合併して菅原村が成立。
明治四十年(1907)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
地域一帯の村が合併し当宮が地名の由来となった「菅原村」の文字を見る事ができ、「大生郷(おおのごう)」という地名も見る事ができる。
こうした地域一帯の鎮守を担った。
明治四十二年(1909)、「稲荷社」「大國社」を合祀。
明治四十三年(1910)、「厳島神社」を合祀。
上の古写真は、大正二年(1913)に常総鉄道株式会社より出版された『常総鉄道名勝案内』から当宮の写真。
茅葺屋根の立派な社殿だった事が窺える。
これが江戸時代に「寛永寺」が修復した社殿であろう。
大正八年(1919)、火災によって社殿が焼失。
社宝や古文書なども多くが失われた。
昭和四年(1929)、社殿が再建。
上の古写真は、昭和十六年(1941)に「いはらき新聞」より出版された『茨城県神社写真帳』から当社の写真。
黒潰れと低解像度で分かりにくいとは思うが、先程の古写真の社殿とは姿がかなり違い、火災によって焼失後に再建された社殿なのが分かる。
戦後になり境内整備が進む。
昭和三十年(1955)、拝殿が再建。
これが現在の拝殿となっている。
平成十四年(2002)、菅公御神忌千百年祭を斎行。
神苑の整備が行われ、見事な神苑が一部完成している。
境内案内
石段の上に鎮座する綺麗な境内
最寄駅の三妻駅からは車で10分程の距離に鎮座。
少し路地に入った先に一之鳥居と社号碑があり、駐車場はこちらではなく社殿の裏手側となっている。
石段(男坂)を上った先に二之鳥居。
こちらが表参道になっているが、社殿後方や右手からの上る事ができる。
二之鳥居を潜って右手に手水舎。
手水舎の奥には水神社と思われる小祠が置かれている。
社殿は戦後に再建された拝殿と戦前の本殿の組み合わせ。
拝殿は昭和三十年(1955)に再建されたもの。
注連縄や提灯などが飾られ賑やかな装い。
本殿は、昭和四年(1929)に再建されたものが現存。
大正期の古写真に残る江戸時代に造営された社殿よりは規模は小さくなっているだろうが、それでも立派な造りである。
神牛像や刀研石・境内社など
拝殿前には刀研石という碑。
かなり風化が進み記されている文字を読む事はできないが、羽鳥から当地に遺骨を遷した縁起が記されている碑。
社殿の後方に境内社が幾つか並ぶ。
古くから境内社である稲荷社。
太子講の碑や庚申塔が並ぶ一画。
香取鹿島社・八雲社・大国社・熊野社・春日社の合殿、その右手に天神宮。
他にも多くの小祠が置かれている。
二之鳥居を潜ってすぐ左手に「親鸞上人礼拝の杉」。
浄土真宗開祖である親鸞上人が植えたと伝わる大木で、樹齢700年以上であったと云う。
明治三十五年(1902)の台風で折れ、大正八年(1919)の火災の際に類焼しており、現在は一部のみ保管されている。
菅公の遺骨を納めた御廟所と美しい神苑
石段を上った高台の境内はここまでであるが、社殿の後方を下ると神苑が整備されている。
平成十四年(2002)、菅公御神忌千百年祭を記念して神苑の整備が行われた。
綺麗な藤棚が整備され、その奥が神池。
神池には多くの蓮が浮かぶ。
通りを挟んで御廟所と弁天池。
左手に菅原道真公御廟所。
菅公の遺骨を納めたという墓所。
神苑の整備と共に新しく整備された一画。
菅原道真公を神格化した天満大自在天神の文字。
その裏には享和二年(1802)に建立された以前の御廟も置かれている。
神苑内には境内社。
明治に合祀された厳島社が再整備されている。
美しく整備された一画で、氏子崇敬者による崇敬が伝わる。
右手の坂を上ると大黒社。
こちらも明治に合祀されたものが再整備されたのであろう。
現時点でも美しく綺麗に整備された神苑や御廟所であるが、まだ整備途中との事。
完成予想図では社殿後方のみでなく、右手にも同規模の神苑が造られる予定のようだ。
所感
大生郷など地域一帯の鎮守として崇敬を集める当宮。
御由緒では道真公の三男・景行によって、遺骨を祀って創建したという伝承が残る。
菅原道真公の遺族によって、遺骨を祀っている事から、日本三大天神の一社にも数えられる事もある(諸説ある)。
江戸時代には徳川将軍家や「寛永寺」による社殿修復、飯沼新田開発の祈願所として崇敬を集め、以後当地周辺の中心神社として発展した。
現在も神苑整備など地域からの崇敬の篤さが伝わり、当地周辺には当宮への案内の看板なども多く置かれている。
当地周辺を代表する一社であろう。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 仏像 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 水神社 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 神牛像 ]
[ 常夜灯 ]
[ さざれ石 ]
[ 願串奉納所 ]
[ 社務所 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 刀研石 ]
[ 石碑 ]
[ 稲荷社 ]
[ 庚申塔・太子講碑 ]
[ 合殿 ]
[ 境内風景 ]
[ 石碑 ]
[ 親鸞上人礼拝の杉 ]
[ 案内板 ]
[ 藤棚 ]
[ 神苑・神池 ]
[ 厳島社 ]
[ 大黒社 ]
[ 神苑 ]
[ 菅原道真公御廟所 ]
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