神社情報
西高井戸松庵稲荷神社(にしたかいどしょうあんいなりじんじゃ)
御祭神:受持命
社格等:─
例大祭:9月15日
所在地:東京都杉並区松庵3-10-3
最寄駅:西荻窪駅
公式サイト:https://www.shimotakaido.org/shouan/
御由緒
西高井戸松庵稲荷神社
この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命です。
松庵村は万治年間(1658〜1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある萩野松庵がその人ともいわれています。
境内入口には元禄三年(1690)、元禄六年(1693)銘の庚申塔があり、元禄三年のものには、「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄三年以前にはすでに新田開発の村のとして開かれていたものと考えられます。
この神社は明治維新の際に廃寺となった円光寺(天台宗江戸八丁堀湊町普門院末)の境内にあったもので「新編武蔵風土記稿」の松庵稲荷の項には「上屋二間ニ二間半内ニ小祠ヲ置社前ニ鳥居ヲ立村内ノ鎮守ニシテ例祭ハ期日ヲ定メズ」と記されています。
昭和九年に、隣村中高井戸村の鎮守稲荷神社を合祀以後、西高井戸松庵稲荷神社と称し、同十年には社殿を改築し、今日にいたっています。
社前の五日市街道は江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれ、炭をはじめとする生活物資の輸送に大きな役割をはたしてきました。
なお、神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があり、元禄九年をはじめとする没年が記されているのが見られます。
祭日は九月十五日です。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/06/29
御朱印
初穂料:300円
「下高井戸浜田山八幡神社」社務所にて。
※普段は神職が常駐していないため、本務社「下高井戸浜田山八幡神社」にて拝受できる。
歴史考察
狐のミイラを祀るお稲荷様
東京都杉並区松庵に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧松庵村の鎮守で、後に中高井戸(西高井戸)の鎮守も合祀されている。
正式名称は「稲荷神社」であるが、当社が鎮守していた地域から「西高井戸松庵稲荷神社」とも称される。
境内には狐のミイラを祀る小祠が置かれている事でも知られる。
現在は神職は常駐しておらず、「下高井戸浜田山八幡神社」の兼務社となっている。
松庵村の開墾とその鎮守
創建年代は不詳。
万治年間(1658年-1660年)に松庵村(松庵新田)が開墾される。
その際に鎮守として祀られたものと推測され、当時は「円光寺」(現・廃寺)の境内に鎮座していた稲荷社であった。
当社の境内入口に元禄三年(1690)と元禄六年(1693)銘の庚申塔が置かれている。元禄三年(1690)の庚申塔には「武州野方領松庵新田」と刻まれている事から、かつては農地として開墾された「松庵新田」と呼ばれた一画の鎮守だった事が窺え、その後松庵村として成立したものであろう。
「円光寺」の境内にあった稲荷社であり、神仏習合のもとで村の鎮守として崇敬された。
新編武蔵風土記稿より見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(松庵村)
圓光寺
年貢地二段。村の東よりにあり。(中略)
稲荷祠
上屋二間に二間半。内に小祠を置。社前に鳥居を立。村内の鎮守にして、例祭は期日を定めず。
松庵村の「圓光寺(円光寺)」の項目内に「稲荷祠」と記されているのが当社。
鳥居と上屋を有しその中に小祠が祀られていたと云う。
村内の鎮守とあり、松庵村の鎮守であった事が分かる。
(中高井戸村)
稲荷社
年貢地九坪秤。村の西よりにあり。僅かなる祠を東向に立。社前に鳥居あり。當村の鎮守にして村民の持なり。
中高井戸村の「稲荷社」と記されたのは、昭和九年(1934)に当社に合祀される稲荷社。
中高井戸村の鎮守であった事が記してあり、後に当社に合祀された事から、当社は旧松庵村と旧中高井戸村の鎮守になったと云えるだろう。
松庵村と中高井戸村は隣り合わせの村で、「圓光寺」とこの「稲荷社」もかなり近い位置に面していたものと思われる。
明治以降の歩み・旧中高井戸村(西高井戸)鎮守を合祀
明治になり神仏分離。
当社が鎮座していた「円光寺」と分離し、村の鎮守として「稲荷神社」と称される。当社は無格社であった。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、上高井戸村・中高井戸村・下高井戸村・大宮前新田・久我山村・松庵村が合併し、高井戸村が誕生。
当地は高井戸村松庵となる。
明治三十年(1897)、「円光寺」が廃寺。
この際に近くにあった築山を取り去っており、その築山ではかつて狐が子を育てていたと伝わり、親狐の亡骸が拝殿下より発見された。
明治四十二年(1909)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、現在の鎮座地と同じ場所に鎮座しているのが分かる。
当社の前を通るのが五日市街道であり、通りを挟んで神社の記号を見る事ができる。
おそらくこれが後に当社に合祀される、中高井戸村の鎮守「稲荷神社」であろう。
高井戸村の地名の他に「松庵」その隣に「中高井戸」の文字を見る事ができる。
その際に隣町の旧中高井戸村は、杉並区西高井戸に改められた。
昭和九年(1934)、中高井戸村(当時は西高井戸)の鎮守であった「稲荷神社」を合祀。
当社は、旧松庵村と旧中高井戸村の鎮守となる。
昭和三十六年(1961)、親狐のミイラを祀る末社を建立。
昭和四十五年(1970)、住居表示が実施され西高井戸の地名は消滅し松庵となる。
西高井戸(旧中高井戸村)鎮守の「稲荷神社」が合祀された歴史と、消え行く旧地名を残すため氏子が社号碑を建立し、その由来を記している。
現在は神職は常駐しておらず、「下高井戸浜田山八幡神社」の兼務社となっている。

境内案内
氏子によって綺麗に維持された境内
最寄駅の西荻窪駅から南へ向かった先にある五日市街道沿いに鎮座。右には当社の由来を記した「稲荷神社」の社号碑。
一之鳥居として石鳥居があり、一之鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
手水舎は水も張られている。無人の兼務社ながら、氏子によって毎日大切に管理されているのが伝わる。
その先に朱色の二之鳥居。その両脇には二対の神狐像。
稲荷信仰の神使である狐が当社を守る。
どちらも氏子によって奉納されたものとなっている。
この日は夏越大祓の前日であったため、二之鳥居の先には茅の輪も用意。普段は無人の兼務社でも、こうして大祓が近づくと茅の輪が用意されているのは、今も氏子崇敬者から篤い崇敬を集めている証拠であろう。
昭和初期の社殿が現存・神狐の彫刻も
社殿は昭和十年(1935)に改築されたものが現存。改築される前年の昭和九年(1934)には、かつて隣村であった西高井戸(旧中高井戸村)鎮守の「稲荷神社」を合祀しており、松庵と西高井戸の鎮守となった事で改築された。
拝殿には彫りの深い彫刻も見る事ができる。
正面には稲荷信仰らしく神狐の彫刻が施されているのが特徴。
本殿も同年に改築されたもので綺麗に維持されている。
狐のミイラを安置して祀る末社
境内末社として狐のミイラを祀る社が置かれ「お狐さま」と称されている。一之鳥居を潜ってすぐ左手(手水舎の向かい)がその末社。
氏子崇敬者から大変大切にされている一画で、ここには悲しい伝承が残る。
ある時、隣村の村民が子狐を捕らえて食べてしまい、明治三十年(1897)には「円光寺」が廃寺となり、築山を取り去る事となった。
親狐は子狐と別れた悲しみのあまり、前足を咥えた状態で、拝殿の床下から発見される。
以来、「お狐さまのミイラ」と称され、大切にされたと云う。
昭和三十六年(1961)に、その「お狐さまのミイラ」を祀る末社を建立。非公開ながら、現在はこの中に前足を口に咥えたままの状態で真綿の上に安置されていると云う。
大変多くの狐の置物が置かれ、特に崇敬の念を感じる一画となっている。
神楽殿や元禄の庚申塔・御朱印は本務社にて
社殿の裏手には神楽殿。この北側には、かつて当社が境内に置かれ現在は廃寺となった「円光寺」住職の墓所も置かれている。(墓所のため撮影はしていない)
その他、入り口には元禄年間の庚申塔。元禄三年(1690)と元禄六年(1693)銘が刻まれている。
境内には立派な社務所(参集殿)も用意。但し、普段は神職が常駐していないため、御朱印はこちらで頂く事はできない。
御朱印は、本務社「下高井戸浜田山八幡神社」にて拝受できる。

所感
松庵村の鎮守として崇敬を集めた当社。
松庵村が開墾された頃に鎮守として創建されたと見られ、かつては神仏習合のもとで「円光寺」の境内に置かれた稲荷祠であった。
明治の神仏分離で「円光寺」と分離し、その後「円光寺」は廃寺となる。
昭和には隣村であった旧中高井戸村(当時は西高井戸)の「稲荷神社」を合祀する事となる。
現在も当社が「西高井戸松庵稲荷神社」と称されるのは、今は地名から消えた西高井戸側の氏子にも配慮し、その歴史を伝えるためであろう。
現在は無人の兼務社となっているが、日頃から氏子によって大切に手入れしているのが窺え、綺麗に整備と維持がされた境内は素晴らしく、特に狐のミイラを祀る末社からは、多くの崇敬の念を感じる事ができる。
こうした兼務社にも、当地の歴史と氏子の想いが残っているのが良く伝わる良い神社である。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 一之鳥居 ]
[ 手水舎 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 茅の輪 ]
[ 神狐像 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 末社(お狐さまのミイラ) ]
[ 神楽殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 社務所(参集殿) ]
[ 案内板 ]
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