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概要
日野四ツ谷(栄町一帯)鎮守の権現さま
東京都日野市栄町に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、日野の四ツ谷地区(現・栄町一帯)鎮守。
かつては「日野宮権現」と呼ばれたたため、今も通称「権現さま」と呼ばれる事が多い。
諸説あるものの、当社の「日野宮権現」が「日野」の地名由来説の1つ。
当社の氏子区域である四ツ谷地区には、古くから鰻を食べてはいけないという禁忌がある事でも知られる。
現在は「日野八坂神社」の兼務社となっている。
神社情報
日野宮神社(ひのみやじんじゃ)
御祭神:天御中主尊・高魂尊・日奉宗頼・日奉宗忠
社格等:─
例大祭:9月第3土曜・日曜
所在地:東京都日野市栄町2-27-19
最寄駅:日野駅
公式サイト:─
御由緒
創立年代はよく判っていません。武蔵七党の中の西党の祖日奉宗頼が武蔵国の国司となり、その孫西内大夫宗忠が西党の始祖となって、その子孫が祖神を祀って日野官権現と称したといわれています。
この神社がある四谷地区には「うなぎ」を食べてはいけないという習慣が伝えられています。その理由として、近くを流れる多摩川が洪水を起こしそうになった時、「うなぎ」が堤にできた穴を埋めて防いでくれたとか、薬師堂に安置してある勢至菩薩が「うなぎ」を召使いとしているからだとか、四谷の鎮守の日野宮のご本尊が虚空蔵菩薩(本地仏)で、その召使いが「うなぎ」であるからとか諸説があります。
日野宮神社には三体の仏像が安置されています。これらは平成5年(1993)までは四谷自治会館(元の四谷阿弥陀堂)永い間大切に奉られていたものです。
この自治会館が取壊しとなったため、日野宮神社へ遍座されたものです。このうち一体は虚空蔵菩薩、あとは阿弥陀如来座像と阿弥陀如来立像が安置されています。
阿弥陀如来立像は永正14年(1517)に造立されたもので市内に残る室町時代の仏像として貴重なもので市の重要文化財に指定さてれいます。
尚、これらの仏像を見学に2度にわたって秋篠宮殿下がこの日野宮神社を訪れています。(日野市観光協会より)
歴史考察
武蔵七党の西党・祖神を祀り創建
創建年代は不詳。
武蔵七党の西党が祖神を祀り創建したと伝わる。
平安時代後期から室町時代にかけて武蔵国を中心に勢力を拡大した武士団の総称。
文献によって構成氏族の違いはあるが、7つの氏族より構成されたため武蔵七党と称された。
武蔵七党の1つで武蔵国西部の多摩川流域を地盤とした武士団。
武蔵国の国司となった日奉宗頼(ひまつりのむねより)を祖とした事から、別称で日奉党(ひまつりとう)とも称された。
当社は西党の祖神を祀った神社として創建された事は御祭神からも窺える。
いずれも西党と関わりの深い御祭神となっている。
天地開闢の際に高天原に最初に出現した神。
造化の三神。
至高の神とされ日奉氏の遠祖にあたると伝える。
天地開闢の際に高天原に出現した造化の三神の1柱。
高魂尊の子孫が日奉氏(他に大伴氏も高魂尊の子孫と伝わる)と伝わり、西党の祖神と云える。
武蔵国の国司となった西党の祖。
宗頼の孫で西党の始祖。
西党の祖神を祀る当社は「日野宮権現(ひのみやごんげん)」と称され崇敬を集めた。
日野宮権現は日野の地名由来の1つ
日野宮権現と称された当社は、日野の地名由来の1つに挙げられる。
日野の地名由来は諸説あるが、有力なものは以下の通り。
当社こと「日野宮権現」が「日野」の地名由来になったと云う説。
府中にあった国府の烽火台が置かれたことによるという飛火野(とぶひの)からきた説。
いずれにせよ日野の中でもかなり古い歴史を持つ神社で、多摩川流域を地盤とした武士団・西党の祖神を祀る神社として崇敬を集めた事が窺える。
日野の始まりの地とも云う事ができるであろう。
当社周辺の栄町遺跡・中世の村落の鎮守
当社周辺、現在の栄町周辺には「栄町遺跡」と呼ばれる遺跡が広がっている。
発掘調査では特に中世の遺構・遺物が数多く発掘。
14世紀の遺構・遺物が多いため、この時代に当社周辺に村落があった事が分かる。
当時の日野はまだ甲州街道が整備され日野宿ができる前。
甲州街道が整備される前の日野の村落の広がりを窺い知れる。
当時は当地周辺に村落があり多くの村民が住んでいた地域だったと推測でき、当社はこうした遺跡村落の鎮守として崇敬を集めたものと見られている。
日野四ツ谷の鎮守・四ツ谷の地名由来
慶長十年(1605)、甲州街道が整備され日野宿が成立。
日野一帯は甲州街道沿いに発展するようになる。
当地は日野本郷の四ツ谷と呼ばれた一帯となり、当社は四ツ谷の鎮守とされた。
江戸時代より前に武田家の家臣であった天野・加藤・小島・宮原が当地に移り住み、4つの家があった事から四家(四ツ谷)となったと伝わる。
新編武蔵風土記稿から見る日之宮権現社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(日野本郷)
日之宮権現社
薬王寺領の内小名四ツ谷にあり。社は一間四方にて、二間四方の上屋あり。社地すべて樹木しげりて、最寂寥たるさま古社とみえたり。されど勧請の年歴、及祭神を詳にせず。或は云當社は日野宗頼が草創の地なり。この宗頼は當國七党の内、西大夫日野宗忠が子孫にして、その先は天御中主尊よりいで、姓は日奉なり。子孫當國に繁衍し、宗頼を追慕して日ノ宮とはいひしなり。當國の地名この社より起りしも、しるべからざることは巳に前に辨せり。
日野本郷の「日之宮権現社」と記されているのが当社。
「最寂寥たるさま古社とみえたり」とあるように、江戸時代の当時から見ても古社であったのが分かったようで歴史の古い神社なのがよく伝わる。
「薬王寺領の内小名四ツ谷にあり」とあるように四ツ谷地区は「薬王寺」領であった事も分かり、当社の別当寺はその「薬王寺」(現・栄町1丁目)であった。
「薬王寺」や当社があった日野本郷は日野の元々の中心地。
甲州街道が整備され日野宿が出来た事で日野の中心は日野宿に移る事になったが、江戸時代より昔の日野の中心は「薬王寺」や当社があった日野本郷であった。
鰻を食べてはいけない禁忌が伝わる四ツ谷地区
四ツ谷地区(現・栄町周辺)には、古くから「鰻を食べてはいけない」と云う禁忌が伝わる。
鰻を食べてはいけないとされる理由は諸説ある。
日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えの中で、神の正体とされる仏を本地仏と呼んだ。
当社には神仏分離後の現在も本地仏として虚空蔵菩薩が安置。
かつては当社近くにあった「四ツ谷阿弥陀堂」に安置されていた虚空蔵菩薩像と伝わる立像で、日野市有形民俗文化財に指定、江戸時代に造立されたもの。
いずれにせよ鰻を忌み嫌い避けたのではなく、鰻への感謝の気持ちで食べないという風習があった事が分かる。
各地に禁忌と呼ばれるものは伝承として残ってはいるが「鰻を食べてはいけない」という禁忌が伝わるのは、日本全国でもこの地域のみではないだろうか。
明治以降の歩み・拝殿の再建・三体の仏像が遷される
明治になり神仏分離。
明治二年(1869)、「日野八坂神社」の神職が祭儀に当たるようになる。
当社は無格社であった。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
現在は地名として残っていないが「四ツ谷」の地名も見る事ができる。
当社の氏子地域が四ツ谷地区と呼ばれるのはこの時の名残。
現在の日野駅よりやや南側に日野駅がある。
明治二十三年(1890)に甲武鉄道の駅として日野駅は開業。
当時はまだ日野駅の周囲は閑散とした農地となっていた事が分かり、日野は日野宿が元で発展したように甲州街道沿いに発展していたことも窺える。
江戸時代に日野宿ができる前は、当社を中心に四ツ谷地区が日野の中心であった。
昭和三十年(1955)代後半の古写真。
まだ周囲にアパートなどが建つ前で当社の鎮守の杜の様子が映っている。
昭和四十年(1965)代前半の古写真。
現在も残る御神木とまだ改築される前の旧社殿の様子が窺える。
昭和六十年(1985)、拝殿を再建。
その後も改修されつつ現存。
平成五年(1993)、四ツ谷自治会館(旧・四ツ谷阿弥陀堂)が取り壊しとなる。
古くから「四ツ谷阿弥陀堂」で安置されていた三体の仏像を当社に遷座。
以後、当社の御本尊(本地仏)として安置され現在に至る。
境内案内
現在は都営アパートに囲まれた住宅街に鎮座
最寄駅の日野駅からは北西へ数分歩いた距離。
かつて当社の周辺には何もなく鎮守の杜が遠くからも見えたと云う。
現在は周囲に都営日野栄町二丁目アパートが5号棟まであり都営アパートに囲まれた住宅街に鎮座。
鳥居は明治四年(1871)に建立されたもの。
扁額には「日野宮」の文字。
鳥居を潜ると左右に樹木が植えられた参道。
参道途中、左手は小さな公園に。
地域の子どもたちの遊び場になっている。
参道を進むと正面やや右手に社殿が見えてくる。
社殿には4柱の神が祀られ仏像が3体安置
正面に朱色と白を貴重とした社殿。
昭和六十年(1985)に再建された拝殿。
2013年に参拝した時は朱色の部分が茶色で、2018年前後に一部が朱色に塗り替えられた。
普段は無人社ながら綺麗に維持管理されている。
「日野宮神社」と記された提灯。
本殿も同様に朱色と白に塗り替えが行われている。
当社の御祭神は、天御中主尊・高魂尊・日奉宗頼・日奉宗忠の4柱。
いずれも当社を創建した武士団・西党と関わりの深い御祭神となっている。
当社の社殿には3体の仏像が安置。
室町時代造立の木造阿弥陀如来立像・江戸時代立像の木造阿弥陀如来座像・木造菩薩立像(伝・虚空蔵菩薩像)の三体。
そのうち、木造阿弥陀如来立像と木造菩薩立像(伝・虚空蔵菩薩像)は、日野市の有形民俗文化財に指定。
かつては「四ツ谷阿弥陀堂」と呼ばれていた仏堂に安置されていたものだが、その後「四ツ谷自治会館」となり、平成になってからも大切に維持されていた。
しかしながら、平成五年(1993)に四ツ谷自治会館(旧・四ツ谷阿弥陀堂)が取り壊しとなったため、四ツ谷地区鎮守である当社に三体の仏像を遷座した形となっている。
これらの仏像を見学するために2度に渡り秋篠宮殿下(秋篠宮文仁親王)が当社を訪れている。
境内社・庚申塔や古い石碑・御神木
社殿の右手に境内社が並ぶ。
秋葉神社・阿夫利神社・榛名神社・御嶽神社・中野原稲荷の合殿。
その奥に庚申塔や石碑が並ぶ。
四ツ谷地区の歴史を伝えるもので、庚申塔などは江戸時代のものであろう。
青面金剛に三猿の姿を見る事ができる古い庚申塔。
「日野宮大権現」の石碑。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)という虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申(ひゃくこうしん)と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
社殿の裏手に回ると古い滑り台。
現在は隣に小さな公園が整備されているので使われることもないだろうが、地域の鎮守として親しまれていた事が窺え、境内で遊ぶ子供も多かったのであろう。
拝殿前には一対の狛犬。
岡崎現代型。
昭和六十年(1985)に拝殿が再建されたのを記念して昭和六十二年(1987)に奉納された狛犬。
拝殿手前左手に御神木。
昭和四十年(1965)代前半の古写真にもその姿を見る事ができる。
御朱印は日野八坂神社にて
普段は無人で神職の常駐がないため当社では御朱印の対応は行っていない。
御朱印は本務社である「日野八坂神社」の社務所にて。
朱印はおそらく「惟神(かんながら)」(判別できないので推測)、左下に「宮司之印」。
力強い墨書き。
所感
日野の四ツ谷(現・栄町周辺)と呼ばれる一帯の鎮守である当社。
御由緒については不詳な部分も多いものの、武蔵七党の中の西党の祖神を祀っている事から、多摩川流域に勢力を持った武士団・西党ゆかりの神社であったのは間違いないのであろう。
中世の村落遺跡が発掘されているように、甲州街道が整備され日野宿が成立するより昔の日野の人々は当社周辺に定住していて、当社を崇敬したものと思われる。
「日野」という地名由来の1つにも挙げられる事からも、当社が重要な地であった事が推測できる。
そして興味深いのが現在も伝わる「鰻を食べてはいけない」と云う、四ツ谷地区の伝承。
そうした伝承が今も知られているのも、地域の方による崇敬によるものなのであろう。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
「日野八坂神社」社務所にて。
※御朱印は本務社の「日野八坂神社」にて御朱印を頂く事ができる。
※以前は初穂料300円だったが現在は500円に変更。
参拝情報
参拝日:2021/09/16(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/05/01(御朱印拝受)
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