小網神社 / 東京都中央区

中央区

概要

強運厄除や銭洗い弁天で知られる小網神社

東京都中央区日本橋小網町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧小網町の鎮守。
江戸時代までは「万福寺(長寿院)」の境内社として神仏習合のもとで崇敬を集めた。
小網町(現・日本橋小網町)の地名由来は当社にあると伝わる。
現在は「強運厄除」の御神徳で知られ、境内には東京銭洗弁天が置かれ多くの崇敬を集める他、日本橋七福神の福禄寿も担う。
毎年11月28日の祭は「どぶろく祭」と呼ばれ、当日に頒布される「みみずく」は強運厄除の授与品として大変な人気となっている。

神社情報

小網神社(こあみじんじゃ)

御祭神:倉稲魂神・市杵島比売神・福禄寿
社格等:村社
例大祭:5月28日(5年に1度宮神輿渡御)・11月28日(どぶろく祭)
所在地:東京都中央区日本橋小網町16-23
最寄駅:人形町駅・水天宮前駅・茅場町駅・三越前駅
公式サイト:https://www.koamijinja.or.jp/

御由緒

 武蔵国豊島郡入江のあたりに万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。開基の年代は明らかではありませんが、恵心僧都の歴史を考えれば、今からおよそ一千年前ということになります。
 文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕にたち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。 夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して日夜祈願をつづけました。すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。
 領主・太田持資公(道灌)も、この御神徳を聞き、折に触れて、当神社を詣でました。そして土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。慶長年間(西暦1596~1615年)には、これらにちなみ周辺地域が小網町と名づけられ、当神社を氏神と崇めました。
 明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、小網稲荷神社として明治6年7月5日、村社に指定されました。現社殿・神楽殿は、大正期の明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門により、昭和4年に造営されました。その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築となっています。特に、向拝に施された「昇り龍」と「降り龍」の彫刻は見事なもので、「強運厄除の龍」として拝されています。戦後の宗教法人化に伴い、名称は「小網神社」となりました。社殿・神楽 殿などは現在、中央区の文化財に登録されています。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2024/03/04(御朱印拝受)
参拝日:2023/04/21(御朱印拝受)
参拝日:2022/10/25(御朱印拝受)
参拝日:2022/05/30(御朱印拝受)
参拝日:2021/12/09(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2019/11/18(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/12/12(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円(通常/限定)・800円(見開き限定)・1,000円(切り絵御朱印)
社務所にて。

※通年で切り絵御朱印2種類あり。
※「小網神社」「弁財天」「日本橋七福神・福禄寿」の3種類の御朱印あり。
※例大祭やどぶろく祭など祭事に応じて限定御朱印あり。
※以前は初穂料300円だったが500円に変更。

最新の御朱印情報
※4月27日より社紋龍の御朱印帳を頒布開始。
3月1日-「福禄寿喜利絵御朱印」
2月18日-「弁財天喜利絵御朱印」
※新デザインに変更。

1月1日-「辰年喜利絵御朱印」
2022年10月-通年で「喜利絵(きりえ)御朱印」
※小網神社の切り絵御朱印。詳細は公式Instagramにて。

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:2,000円(龍)・2,500円(みみずく)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意。
強運厄除の龍をデザインしたもので、赤・青・黒・金の4色展開。
他にもみみずく柄など数種類用意。
※4月27日より社紋龍の御朱印帳を頒布開始。

授与品・頒布品

交通安全ステッカー
初穂料:800円
授与所にて。

すすきのみみずく守をモチーフにした交通安全ステッカー。

歴史考察

万福庵と網師の翁の伝承・小網稲荷大明神

社伝によると、文正元年(1466)に創建と伝わる。

当地には古くから恵心僧都の開基と伝わる「万福庵」と云う寺院があったと云う。
観世音菩薩と弁財天を安置していたとされ、後に「万福寺」と号する。

恵心僧都(えしんそうず)
源信(げんしん)と云う高僧の尊称。
平安時代中期の天台宗の僧。
浄土真宗では七高僧の第六祖とされ源信和尚・源信大師と尊称される。
天慶五年(942)に生まれ、寛仁元年(1017)に入滅したとされる。
この事から「万福庵」は平安時代中期に創建したと推測される。「万福庵」に安置されていた観世音菩薩と弁財天の像も恵心僧都作だったと云う。

当社の御由緒には「万福庵」と「網師の翁」の伝承が残る。

網師の翁の伝承
文正元年(1466)に「万福庵」の周辺で悪疫が流行。
そうした中、網師の翁が海上で網に掛かった稲穂を持ち「万福庵」を訪問し、数日滞在。
ある夜「万福庵」の庵主の夢枕に、庵の開基である恵心僧都が現れ「網師の翁を稲荷大神として崇めるように」と告げたため、翌朝になって翁を訪ねると既にその姿はなかった。
そこで網師の翁を「小網稲荷大明神」として祀ったところ、暫くして村の悪疫が鎮まったと云う。

この網師の翁を小網稲荷大明神として祀った「小網稲荷社」が当社である。

当時は「万福庵」の中に祀られた境内社のような扱いだった事が窺える。

太田道灌による小網山稲荷院万福寺の命名

その後、こうした御神徳を聞いた領主・太田道灌が「万福庵」と当社へ参拝。
土地を寄進し、「万福庵」を「小網山稲荷院万福寺」と名付けたとされる。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。

以後、観世音菩薩と弁財天を祀る「万福寺」と、小網稲荷大明神を祀る「小網稲荷社」は、神仏習合の中で共に地域からの崇敬を集めた。

小網町の地名由来・江戸時代に浅草新寺町に移転

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
江戸湾の入江であった当地にも町家が立ち並ぶようになる。

慶長年間(1596年-1615年)、付近の町名が「小網町」と名付けられる。

小網町の地名由来
「万福寺」の境内にあった「小網稲荷社」(当社)が地名の由来。
網師の翁を小網稲荷大明神として祀った事に由来していると云う。
他説もあり、徳川将軍の御前で網を引いた漁師が御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得たと云う故事により、町角に漁網を一張干しておく風習から「小網町」と称されたという説もある。

慶長十六年(1611)、「万福寺」が日本橋田所町(現・日本橋堀留町)に移転。

正保元年(1645)、「万福寺」は浅草新寺町(現・元浅草)に新地を拝受。
浅草新寺町(現・元浅草)の地に再び移転し「長寿院」と号した。

「万福寺」の境内にあった当社も同様に移転している。

江戸切絵図から見る当社と小網町

江戸時代の当社や小網町については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(日本橋北神田浜町絵図)

こちらは江戸後期の日本橋や人形町周辺の切絵図。
小網町は図の右下あたりに描かれている。

(日本橋北神田浜町絵図)

小網町周辺を拡大し北を上にしたものが上図。

江戸の入江だったという当地は「小網町」という町名となり記されている。
そうした小網町の三丁目に、赤い円で記した「稲荷」が置かれているのが分かる。
こちらは当社ではなく、現在も大変小さく残る「明星稲荷神社」(現・日本橋小網町4-9)。

当社が置かれていた「万福寺」は既に浅草新寺町へ移転していて、町の鎮守であった当社も同様に浅草新寺町へ遷座している。

一方で浅草新寺町へ移転した「万福寺」と当社も切絵図で確認する事ができる。

(浅草御蔵前辺図)

こちらは江戸後期の浅草-下谷-上野周辺の切絵図。
右が北の地図となっていて、「万福寺」は右に描かれている。

(浅草御蔵前辺図)

「万福寺」を中心に拡大し、北を上にしたものが上図。

中央に赤い円で囲ったのが当社が置かれていた「万福寺」であり、「長寿院」とも号した。
現在の住居表示にすると台東区元浅草4丁目周辺。

青い円には、この辺りを「稲荷町」または「新寺町」と呼ぶという事が記してある。

浅草新寺町(あさくさしんてらまち)
現在の元浅草周辺。
現在の浅草通り(当時は新寺通り)沿いを浅草新寺町と俗称した。
明暦三年(1657)に発生し江戸の大半を焼いた「明暦の大火」の後、江戸の町並みは再編され、多くの寺院がこの周辺に移ってきて新たな寺町を形成したのが由来となっている。

神仏習合の元、浅草新寺町に移転した「万福寺」の境内に「稲荷社」(当社)が置かれていたのだろう。

明治の神仏分離と小網町への再遷座

明治になり神仏分離。
当社は「万福寺」から独立し「小網稲荷神社」に改称。

「万福寺」は廃寺
神仏分離の影響で「万福寺」は廃寺となってしまう。
「万福寺」で祀っていた弁財天は当社に遷された。
「東京銭洗い弁天」の起源は、この「万福寺」に祀られていた「万福舟乗弁財天」。

明治二年(1869)、浅草新寺町から創建の地である小網町へ再遷座。
明治六年(1873)、小網町の鎮守として村社に列する。
明治九年(1876)、現在の鎮座地に遷座した。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
青円で囲んだ箇所には「小網町」の文字も見える。
当社はこうした小網町一帯の鎮守であった。

江戸時代に一時的に元浅草の地に遷ったものの、創建の地であり当社が由来である小網町に戻る形で崇敬を集めた。

関東大震災や戦時中の「強運厄除」の御加護

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
区内の9割以上が焼け野原となる大被害が発生し、当社の社殿も倒壊。

当社の御神体を拝み大勢が助かった伝承
関東大震災発生直後、宮司は当社の御神体を抱え近くの新大橋に避難。
大挙して避難してきた人々がいたものの、当社の御神体を拝んだ事で混乱がなく、新大橋自体も落ちずに大勢の人が助かったと云う。
新大橋の袂にある避難記念碑にも「小網神社の御神体を伏して拝み、加護を願った」と記さている。

昭和四年(1929)、現在の社殿が再建。
これが改修されつつ現存している。

戦時中の強運厄除の御神徳
戦時中は戦地へ赴いた氏子が、当社での出征奉告祭に参列し当社の御守を受けた兵士が全員生還。
更に当地周辺が焼野原となった東京大空襲では、社殿を含む境内建物が奇跡的に戦火を免れている。
関東大震災や戦時中のエピソードから、「強運厄除の神様」として信仰を集める。

戦後になり「小網稲荷神社」から「小網神社」へ改称。
その後も境内整備が進み現在に至る。

現在は日本橋七福神の福禄寿も担っている。

御利益いっぱい!七福神めぐり……日本橋七福神のホームページ

境内案内

日本橋小網町の小さな神社

最寄駅の人形町駅から徒歩5分程の距離で、日本橋小網町の路地に鎮座。
日本橋小網町の地名由来は「小網稲荷大明神」と称された当社に由来。

南東に面して鳥居。
規模はとても小さいが、「強運厄除」の御神徳によって平日でも常に多くの参拝者が訪れる。
日本橋や人形町界隈には数多くの神社が残るが、中でも屈指の人気を誇る。

鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
小さいながらも最低限の設備が整い、ぎゅっと詰まった境内となっている。

強運厄除の龍が彫刻された見事な社殿

鳥居を潜ったすぐ正面に社殿。
狭い境内にありながら見事な社殿となっている。
旧社殿は関東大震災で倒壊したものの、昭和四年(1929)にこの社殿が再建。
向拝には彫りの深い見事な彫刻や木鼻が施されている。
特に拝殿虹梁の昇り龍・降り龍は実に見事。
「強運厄除の龍」として信仰を集めている。
こうした社殿は中央区の文化財に指定。

小網神社社殿及び神楽殿 附棟札・造営関係資料(こあみじんじゃしゃでんおよびかぐらでん つけたりむなふだ・ぞうえいかんけいしりょう)

社殿と同時期の狛犬と神楽殿

社殿の前には一対の狛犬。
昭和四年(1929)に奉納。
社殿と同時期のもの。

社殿の右手には神楽殿。
こちらも社殿と同様に中央区の文化財に指定。

財運向上の御利益・東京銭洗い弁天

境内には弁天像が置かれている。(画像は2023年までの境内)
「東京銭洗い弁天」と称される弁天様。

江戸時代まで当社が置かれていた「万福寺」であったが神仏分離の影響で廃寺。「万福寺」が祀っていた弁財天は当社に移され、「万福舟乗弁財天」と称された。この「東京銭洗い弁天」もそうした一環のもの。

「銭洗いの井」で金銭などを清め、財布などに収めておくと財運を授かると云う。
今も多くの人々が金銭を清めに訪れる。
こうした金運の御利益も当社の人気を支える。

2024年からは東京銭洗い弁天の一角が整備。
銭洗いできる場所が拡張され1度に複数人が可能な形に。

日本橋七福神の福禄寿

参道の左手には福禄寿像。
「福徳」「人徳」「財徳」など、徳を授ける神として「日本橋七福神」の福禄寿を担う。

御利益いっぱい!七福神めぐり……日本橋七福神のホームページ
当社では通年で「日本橋七福神・福禄寿」の御朱印を頂ける。

3種の通年御朱印・限定御朱印も

御朱印は社務所にて。
当社の御朱印は通常時は3種類用意。

小網神社の御朱印は上に「小網神社参拝記念章」の印、拝殿の「強運厄除の龍」。
「日本ばし 強運厄除」の印も押印される。

祭事などに応じて限定御朱印も用意。
こちらは2019年10月28日に斎行された「万福舟乗弁財天大祭」を記念した限定御朱印。

コロナ禍で2021年は全ての限定御朱印の授与が中止となった。

2022年例大祭の限定御朱印。
見開きサイズと片面サイズでコロナ禍で暫く限定御朱印を中止していたため、久しぶりの限定御朱印となった。

喜利絵(切り絵)御朱印を複数授与

2022年10月より2種類の切り絵御朱印の授与を開始。(小網弁財天の御朱印は2024年にリニューアル)
喜利絵(きりえ)御朱印と名付けられた御朱印で限定ではなく通年授与。
小網神社の切り絵御朱印。(下に白の台紙を置いている)
小網弁財天(銭洗弁財天)の切り絵御朱印。(こちらは2024年にリニューアルしているため頒布終了)

2024年元日からは辰年限定の切り絵御朱印を授与。
辰年らしい龍の御朱印。
カラフルな台紙付きなので龍も色鮮やかに。

2024年2月18日からは小網弁財天(銭洗弁財天)の切り絵御朱印をリニューアル。
弁天像のお姿をデザイン。

2024年3月1日からは福禄寿の切り絵御朱印も授与。
こちらも福禄寿像のお姿に健康手水の鶴亀。

龍やみみずくなどの御朱印帳・強運厄除の授与品

オリジナルの御朱印帳も用意。
龍をデザインした御朱印帳は赤・青・黒・金の4色展開。
御朱印と同様の「強運厄除の龍」。
他にもみみずく柄など複数御朱印帳を用意している。

授与所には「強運厄除」にちなんだ様々な授与品が置かれている。

強運厄除のエピソード
・関東大震災時、宮司が当社の御神体を抱え、近くの新大橋に避難したところ、大挙して避難してきた人々に混乱がなく、新大橋自体も落ちずに大勢の人が助かった。
・戦時中は戦地へ赴いた氏子が、当社での出征奉告祭に参列し、当社の御守を受けた兵士が全員生還。
・更に当地周辺が焼野原となった東京大空襲では、社殿を含む境内建物が奇跡的に戦火を免れる。

こうしたエピソードから「強運厄除」の御神徳があるとされ、御朱印にも「強運厄除」を押印。
各種御守の他、金運御籤や、まゆ玉おみくじ、パワーストーンのブレスレットなど様々で、授与所はいつも参拝者で混雑となる。

11月28日のどぶろく祭・強運厄除のすすきのみみずく守

毎年11月28日に開催される当社の新嘗祭は「どぶろく祭」として知られる。

どぶろく祭
毎年11月28日に開催。
※但し、28日が土曜日となった場合には27日に開催、日曜日の場合は29日に開催となる。
当社の新嘗祭の一環で、新穀と共に神前お供えされるどぶろく(神饌田でその年に収穫した新米で作ったにごり酒)を、参拝者にふるまうところから「どぶろく祭」と呼ぶ。
祭りの当日は毎年、国指定無形文化財の里神楽舞が神前で奉納。
また強運厄除の「みみずく」も授与。(2021年以降は指定日の電話予約制)

新穀と共に神前お供えされるどぶろく(神饌田でその年に収穫した新米で作ったにごり酒)を、参拝者にふるまうところから「どぶろく祭」と呼び、強運厄除の「みみずく」も授与される。

強運厄除の「すすきのみみずく守」
強運厄除・営業繁栄の御利益で知られる授与品。
自らの「み」(身)と家族の「み」(身)に「つく」=「みみつく(みみずく)」として「どぶろく祭」の日に授与される。
朝からみみずくを求める人々で長蛇の列となり昼前には終了となる事が多い。(2021年以降は指定日の電話予約制に変更)

2021年以降は電話受付での授与となっている。
詳細は公式ブログにて。

小網神社blog
東京・日本橋に鎮座する強運厄除の神さま・東京銭洗い弁天の社 小網神社のブログです。【小網神社blog】
以前授与されたどぶろく祭限定御朱印
令和元年(2019)のどぶろく祭りでは限定御朱印も授与。
どぶろく祭り当日の11月28日から授与開始で無くなり次第終了であった。(コロナ禍ではみみずく守の頒布は中止)

所感

小網町の鎮守として崇敬を集めた当社。
小網町の地名由来ともされており、「万福寺」の境内の中で神仏習合のもと崇敬された。
江戸時代前期から明治にかけては浅草新寺町に移転していたものの、神仏分離によって当地に戻ってきており、その後村社となった事からも、小網町の鎮守として崇敬されていた事が伝わる。
境内は大変狭いながらも、戦前の造営で彫刻が見事な社殿が残り、鳥居、手水舎、狛犬、神楽殿、銭洗い弁天などぎゅっと詰まった境内となっているのが特徴。
現在は「強運厄除」の御神徳の神社として知られる事からパワースポットともされており、平日でも多くの参拝者で賑わい、祭事になると長蛇の列ができる程、今も篤く人々からの信仰を集めている。
日本橋周辺にはこうした小さな神社が数多く残るが、その中でも特に人気の一社であり、当地周辺の信仰を伝える良い神社である。

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