穏田神社 / 東京都渋谷区

神社情報

穏田神社(おんでんじんじゃ)

御祭神:淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神・櫛御食野神
社格等:村社
例大祭:9月9日に近い土・日曜
所在地:東京都渋谷区神宮前5-26-6
最寄駅:渋谷駅・原宿駅・明治神宮前駅
公式サイト:─

御由緒

 当社の創建は詳らかではありませんが、旧穏田一円の産土神として古く、天正十八年(1590)徳川家康が関東の領主となり、本能寺の変に際して武功をたてた伊賀衆が翌十九年此の穏田の地を給地に賜ってから、それまで土地の者で維持されてきた神社も以来祭儀が盛んに行われるようになり、土地の鎮守として面目を一新し神徳も顕揚して明治維新に及んでいると云われています。
 江戸時代は第六天社と称していましたが、明治維新の際に穏田神社と改称しました。明治十八年五月六日穏田村八十四番地に鎮座していた熊野神社を合祀しています。熊野神社は、寛文元年(1661)辛丑六月朔日、元広島藩主松平安芸守光晟室自昌院が再建したといわれています。その時の棟札には『東照大権現ノ宮孫猷院殿息女藝州ノ太守四品羽林院源光晟公室自昌院殿英心日妙』と自昌院(加賀・前田家より浅野家へ嫁す)の名を記してありましたが、合祀の際に他の腐朽材と共に投棄されてしまったと社史には伝わっています。現在、境内手水舎の手水石は合祀の際に移したと思われ、手水石に刻まれている梅鉢は前田家の家紋で、自昌院は生涯この紋所を使ったといわれています。当時を偲ぶ唯一の物証であります。
 明治四十四年、社殿・神楽殿・手水舎・社務所・鳥居・石段を新築又は改築しており、当時、社殿・神楽殿・手水舎・社務所等は百数十年を経た古色蒼然たる茅葺きの建物であったといわれています。
 昭和天皇御大典の記念事業として、社殿の増改築・社務所の新築・神楽殿・手水舎等の改修を行い、神社施設を完備しました。千駄ヶ谷町合併に伴い、氏子の誠意により、昭和三年九月二十五日社格申請をし、同年十一月二日に村社に昇格しました。
 昭和二十年五月二十五日の戦災により、神輿庫を除いて神社施設全てが鳥有に帰しました。罹災後、篤志崇敬者や氏子の方々の敬神の真心と献身的なご努力をいただき、社殿・神楽殿・手水舎・神輿庫・社務所・稲荷社が再建されましたが、戦後五十年を経て施設の老朽化も著しく、平成八年全面的な改築の運びとなり、平成十年十一月末、社殿・社務所・神輿庫が新築され、稲荷社・手水舎を移築、十二月八日遷座祭、翌九日には竣工奉告祭が盛大に挙行されました。また、平成十六年には八十四年ぶりに宮神輿が氏子の誠意で修復され、神幸祭が盛大に斎行され現在に至っています。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2017/05/02

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※「穏田神社」の他に、境内社「稲荷神社」の御朱印も頂ける。

[ 社務所掲示 ]

歴史考察

裏原宿に鎮座する旧穏田村の鎮守

東京都渋谷区神宮前に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧穏田村の鎮守。
江戸時代の頃は「第六天社」と称しており、神仏分離に際に「穏田神社」へ改称。
夫婦和合縁結びの神・美容・技芸上達の神として今も地域からの崇敬が篤い。

旧穏田一円の産土神である第六天社

創建年代は不詳。

古くから穏田(おんでん)一円の産土神とされ、「第六天社」と称された。
穏田一帯に人が住むようになってから、村民たちにより維持されていたと伝わる。

「第六天社」と称された当社は、神仏習合の時代に第六天魔王を祀る神社として創建されたと見られる。

第六天魔王(だいろくてんまおう)とは、天魔とも称される魔。
第六天とは仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位にある他化自在天(たけじざいてん)を云う。
仏道修行を妨げている魔王と畏れられ、織田信長は第六天魔王を自称したと云う伝承でも知られる。
第六天魔王を祀る「第六天神社」は、関東圏・特に武蔵国に多く創建された神社。
『新編武蔵国風土記稿』には300社以上もの数を見る事ができる。

悪疫退散の御神徳を念じて祀られる事が多い。
当社もそうした信仰の中で創建されたのであろう。

その後、神仏分離によって多くの神社では、改称・御祭神の変更が行われており、現在は「第六天」の名が残る神社は珍しく、当社もそうした流れの歴史を持つ。

神君伊賀越えの恩賞で伊賀衆に穏田が与えられる

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
天正十九年(1591)、「本能寺の変」で武功をたてた伊賀衆が、恩賞として穏田の地を与えられると、祭儀が盛んに行われるようになったとされる。

伊賀衆とは、伊賀国の地に伝わっていた忍術伊賀流を使う忍者集団。

「本能寺の変」での徳川家康の危機は、「神君伊賀越え」として知られる。

徳川家康は「本能寺の変」に際、僅か34名の少人数で大阪堺を遊覧中であったため、明智光秀の軍や混乱に乗じた落ち武者狩りの可能性など、極めて危険な状態となった。
家康は本能寺の変の一報を聞いた際に取り乱し、一度は光秀の支配下となっていた京都に上り縁深い「知恩院」に駆け込み、自刃することを決意する程であったが、本多忠勝を始めとする家臣たちに説得され、領国である三河国へ帰る事とした。
僅かばかりの供を連れて、伊賀国の険しい山道を経て加太峠を越え、伊勢国に辿り着き、海路で領国の三河国岡崎城へ帰還した。

「神君伊賀越え」では、徳川四天王を始めとする徳川家の側近が供をしていたが、そうした供の中にいたのが、一般的には「服部半蔵」の名で知られる服部正成である。
家康は正成や伊賀衆に護衛されながら伊賀越えを果たしており、伊賀越えの功績を認められ、伊賀衆は正成のもとに伊賀組同心として徳川家に召し抱えられている。

この際に、穏田の地を与えたのであろう。

新編武蔵風土記稿で見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(隠田村)
第六天社
村の鎮守とす。村持下同じ。
熊野社
妙圓寺開山日光勧請する処にして、其後松平安芸守光晟の室再造す。棟札に東照大権現宮孫大猷院殿息女芸州之太守四品羽林源光晟室法号自昌院殿英心日妙と記せり。此所も当時地子屋敷の内なるべし。

穏田村の「第六天社」と記されているのが当社。
穏田村の鎮守であった事と、村持ちで管理されていた事が記されている。

一方で『東京都神社名鑑』などには、別当寺を「妙円寺」(神宮前3丁目)が担っていたと記している。「妙円寺」は、江戸時代中期頃からは宝永三年(1706)に穏田村へ移転したと云い、それ以降に当社の別当寺となった可能性が高く、『新編武蔵風土記稿』の情報が古いままなのであろう。

「熊野社」と記されているのは、明治になって当社に合祀された熊野信仰の神社。
広島藩主・松平安芸守光晟の正室である自昌院が再建したと伝わる。
穏田の近くに松平安芸守の下屋敷があったため、そうした繋がりであろう。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(青山渋谷絵図)

こちらは江戸後期の青山渋谷周辺の切絵図。
右上が北の地図で、当社は図の左上に描かれている。

(青山渋谷絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社で「第六天」として記されている。
橙円で囲ったのが「熊野社」で後に当社に合祀される。

当地の周辺の殆どは百姓地・田畑であり、大変のどかな農村であった。
当社に面しているのが渋谷川で、この渋谷川に水車がかけられ稲作が行われた。

葛飾北斎の浮世絵で描かれた穏田の水車

渋谷川に架けられた水車は「穏田の水車」として有名で、葛飾北斎が浮世絵で描いている。

(葛飾北斎・富嶽三十六景)

葛飾北斎の代表作でもある『富嶽三十六景』に描かれた「穏田の水車」。
当社周辺、現在の原宿神宮前近くから見る富士山を描いている。
渋谷川に架かる水車によって稲作が行われ、正にのどかな田園地帯であった。

こうした水車は大正末期まで続いており、江戸時代以降もしばらくはのどかな田園地帯だった事が伺える。

当社はこうした穏田の鎮守として地域からの崇敬を集めた。

神仏分離で改称・戦後の再建

明治になり神仏分離。
社号を「第六天社」から現在の「穏田神社」に改称。
御祭神を淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)に改めた。

「第六天社」は、神仏習合の色合いが濃いため、関東に鎮座していた多くの「第六天社」は、御祭神や社号の変更を余儀なくされ、各社に合祀されるなど衰退の一途を辿る。
御祭神は、「大六天」の社号から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネに変更される事が多く、当社もそうした流れを汲む変更となった。
オモダル・アヤカシコネは、面足命・惶根命の字を当てる事が多いが、当社では淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神の字を当てている。

明治十八年(1885)、近くにあった「熊野神社」を合祀。
これが上述した江戸切絵図にも記されていた「熊野権現」である。

明治二十二年(1889)、町村制施行に伴い、千駄ヶ谷村・穏田村・原宿村の3村が合併して新たに千駄ヶ谷村が成立。
当地は千駄ヶ谷村大字穏田となった。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社で、当社の鎮座地は現在と変わらない。
当時はまだまだ現在ほど発展していない渋谷・原宿の町並みが分かる。
まだ「穏田」の地名が残っており、この一帯の鎮守を担っていた。

現在の代々木公園の一帯は「代々木練兵場」という陸軍省用地になっており、明治になってから陸軍省はあの一帯の土地の買収を進めていて、当社に合祀された「熊野神社」もあの付近に鎮座していたため、そうした経緯で社地を手放し当社に合祀されたのであろう。

明治四十四年(1911)、社殿・神楽殿・手水舎・鳥居・石段・社務所を新築または改築。
昭和元年(1926)、昭和天皇御大典(即位の礼)の記念事業として境内を整備。
昭和三年(1928)、村社に昇格した。

昭和二十年(1945)、東京大空襲により社殿を焼失。
神輿庫を除いて全てが焼失したと云う。

戦後は旧小松宮家の邸内社の社殿・石灯籠・鳥居などの払い下げを受け整備。
昭和三十一年(1956)、社殿・神楽殿・手水舎・神輿庫・社務所・稲荷社が再建された。

昭和四十四年(1966)、住居表示法が施行され穏田は、現在の神宮前・渋谷・神南の一部となり現在に至る。
穏田の旧地名は消失したものの、当社が「穏田神社」を名乗る事で旧地名の保存がなされている。

平成十年(1998)、現在の社殿が新築。
同時に社務所・神輿庫の新築、稲荷社・手水舎の移築など境内整備が行われた。

平成十六年(2004)、宮神輿が修復され現在に至っている。

境内案内

裏原宿に静かに鎮座・個性的な狛犬

渋谷駅と原宿駅の中間付近に鎮座し、通称キャットストリートと呼ばれる一角の近くに鎮座。
裏原宿と呼ばれる一角であるが、周辺は閑静な住宅街になっており静かな空間。
参道は左右が月極駐車場となっていて、参道の先右手に手水舎。
手水舎の手水石は当社に合祀された「熊野神社」のもので、江戸時代の頃のが移されたと云う。

その先にとても個性的な表情をした狛犬が一対。
奉納年代は不詳であるが、かなり古いものと思われ、独特な造形と顔立ちをした狛犬。
表情は獅子舞のような面持ちでなんとも個性的である。

新築された社殿・再建された稲荷神社

社殿は平成十年(1998)に新築されたもの。
戦災で焼失した旧社殿であったが、昭和三十一年(1956)に再建。
しかしながら老朽化が目立ったため、平成十年(1998)に新築されており、とても綺麗な社殿となっている。

社殿前にも一対の狛犬。
大正十四年(1925)に奉納され、こちらも良い表情をしている。

社殿のほぼ向かいに、境内社の「稲荷神社」。
氏子であった河野カタ氏の寄進による社が鎮座。
漢方医薬の大家で、当社の再建に尽力したと云う。
この一角には河野カタ女史像も置かれている。

御朱印は社務所にて。
「穏田神社」の御朱印の他、境内社「稲荷神社」の御朱印も用意している。
丁寧に対応して頂いた。

所感

穏田の鎮守として崇敬を集めた当社。
現在はキャットストリート近く、裏原宿エリアからも近い閑静な住宅街となっている当地だが、かつては大変のどかな農村であり、そうした様子は北斎の『富嶽三十六景』に描かれている。
あの一枚を見て、今の渋谷・原宿エリアは想像ができない程、当時と今では景色は変わっているが、そうした中でも今も篤い崇敬を集めているのは変わらない。
戦後も度々境内が新しく整備されているのも、そうした崇敬によるものであろう。
御神徳として夫婦和合縁結びの他、美容・技芸上達の神とされているため、こうした御神徳も裏原宿の鎮守として相性がよいのではないだろうか。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 狛犬 ]


[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 稲荷神社 ]


[ 神輿庫 ]


[ 百度石 ]

[ 絵馬掛・御籤掛 ]

[ 旧鳥居柱 ]


[ 社務所 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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