亀戸天神社 / 東京都江東区

神社情報

亀戸天神社(かめいどてんじんしゃ)

御祭神:天満大神(菅原道真公)
相殿神:天菩日命(菅原家の祖神)
旧社格:准勅祭社・府社
例大祭:8月25日
所在地:東京都江東区亀戸3-6-1
最寄駅:亀戸駅・錦糸町駅
公式サイト:http://kameidotenjin.or.jp/

御由緒

 天満大神(菅原道眞公)、天菩日命(菅原家の祖神)を奉祀する亀戸天神社は一般的には広く「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」と呼ばれ、親しまれております。
 古くは東宰府天満宮、本所宰府天満宮、あるいは亀戸天満宮と称されておりましたが、明治六年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和十一年亀戸天神社と正称いたしました。
 御祭神・菅原道眞公は、承和十二年(845)六月二十五日、京都菅原院(鳥丸通り)に誕生され、幼少のころから学才にすぐれていたことは並々ならぬものがありました。
御年5歳にして「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」と詠ぜられるほどの卓抜な才能を発揮したと伝えられ、やがて帝の御覚えもめでたく、次第に重用され、重要な政務を任命され、のち正三位右大臣兼近衛大将に進み、さらに御年五十七歳で従二位に昇叙せられました。
 政見に対するすぐれた才能と相まって、菅公は多くの漢詩や和歌を作られ『類聚国史』や『三代實録』の撰修をはじめとする学問上の功績は、わが国の歴史・文学の上にさん然と輝いております。
 しかし当時権勢を誇った藤原氏の讒言にあって延喜元年(901)に大宰権師として九州大宰府に遷せられました。
 その時、住み慣れた紅梅殿の庭前の梅を見て「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠ぜられたことはあまりにも良く知られております。
 大宰府にあっては天を恨まず人を怨まず、ひたすら清節のやがて現われることを期しましたが、そのかいもなく延喜三年(903)二月二十五日梅香る大宰府に誠心の一生を閉じられました。御年五十九歳のことでした。薨去後、人々は菅公を神として讃仰し、近世に至ってはことに学問の神として信仰を集めております。
 正保年間、九州太宰府天満宮の神人菅原信祐(道眞公の裔孫)は霊夢に感じ、菅公ゆかりの飛梅で神像を刻み、社殿建立の志願をもって諸国を廻り、寛文元年(1661)江戸に達し本所亀戸村にあった天神の小祠に奉祀いたしました。
 時あたかも徳川幕府の大事業である本所開発にあたり、天神様を崇敬すること篤かった将軍家綱は現在の地に社地を寄進しました。そして、寛文二年十月二十五日、太宰府の社にならい、社殿、楼門、廻廊、心字池、太鼓橋等を営み、以来350年余後の今日まで、数ある東国天満宮の宗社として尊崇されてまいりました。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2017/03/03(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/04(御朱印拝受)
参拝日:2015/04/28(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※初天神・梅まつり・藤まつり・例大祭の開催中は、押印などが追加される。

[2017/03/03拝受]
(梅まつり限定/東京十社めぐり御朱印帳)

[2016/01/04拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/04/28拝受]
(藤まつり限定)

御朱印帳

初穂料:1,000円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を複数用意している。
名物の藤にちなむ紫ベースの御朱印帳。
さらに東京十社専用の御朱印帳(1,200円)も用意されていた。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

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考察

東宰府天満宮と称された亀戸天神

東京都江東区亀戸に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後に府社。
現在は東京十社のうちの一社、関東三大天神・東都七天神の一社であり、東京を代表する天神さま。
古くは「太宰府天満宮」に対して、東の宰府として「東宰府天満宮」と称されており、現在も「亀戸天神」「亀戸天満宮」と称され親しまれている。
境内は梅や藤の名所でもあり、梅まつり・藤まつりは人気が高い。

菅原道真の末裔による諸国行脚

社伝によると、寛文元年(1661)に創建と伝わる。

正保年間(1644年-1647年)、菅原道真の末裔で筑前国「太宰府天満宮」の神官・菅原大鳥居信祐は、霊夢を受けた事で、道真公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、諸国を巡った。

「太宰府天満宮」(福岡県太宰府市)は、菅原道真が左遷された大宰府に創建された天満宮で、京都「北野天満宮」と共に「三天神」として、古くから崇敬を集めた一社。
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は福岡県太宰府市にある、天神さま(菅原道真公)をお祀りする神社です。 2011年12月にリニューアル。おみくじと合わせて季節ごとに色が変化するサイトカラーや、道真公や鷽鳥など太宰府天満宮にまつわるイラストで太宰府天満宮の魅力をお伝えします。 境内のご案内や太宰府天満宮の歴史、お祭...

遠くは盛岡や日光まで巡ったと伝わるが、心に叶う地が見つからなかったと云う。

寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村に辿り着く。
この地にはそれ以前より天神様をお祀りした小祠があり、そこへ菅原道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉斎したのが始まりとされる。

現在の鎮座地より東に鎮座していたとされる。

太宰府天満宮に倣い境内を造営

寛文二年(1662)、当社を本所の鎮守と定め、四代将軍・徳川家綱が現社地を寄進。
地形・社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋など「太宰府天満宮」に倣って境内が造営。
例祭も「太宰府天満宮」に倣って行われた。

当時の江戸は、明暦三年(1657)に発生した「明暦の大火」(別名:振袖火事)と云う、当時の江戸の大半を消失するに至った江戸時代最大の大火災からの復興途上であり、復興開発事業の地として本所や深川といった地域を新興居住区域としており、本所鎮守として当社が定められ寄進を受けた。

「太宰府天満宮」に対し、当社は東の宰府という意味で「東宰府天満宮」と呼ばれた。
また地名から「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」とも称され、幕府や江戸庶民から崇敬を集めた。

寛文九年(1669)、菅原大鳥居信祐は上京して、当社の図を後水尾法皇に奉り、法皇より菅神尊号の宸筆を賜った。

別当寺は菅原大鳥居信祐が開山した「東安楽寺」が担っていた。

享和二年(1802)、徳川将軍家よりの下賜金で壮麗な社殿が造営。
このように江戸きっての天神さまの一社として徳川将軍家・幕府から庇護された。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(本所絵図)

こちらは江戸後期の本所周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当社は図の右に描かれている。

(本所絵図)

当社周辺を拡大したものが上図になる。
「亀戸天満宮」と記され、現在とあまり変わらない配置だった事が伺える。
当社の周辺が亀戸町となっており、亀戸は当社を中心に当社の門前町として発展した事が分かる。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(亀戸村)
天神社
東宰府天満宮と號す。配祀二座、一は天保日命、一は祭神詳ならず。社記を閲するに當社造営の来由は太宰府の神職菅原善昇十八世の孫、大鳥居信祐と云者常に天満宮を崇信する「浅からす或夜の夢に、かうたちて栄ふる梅の若枝かな」と云連歌の發句を得たり。又別當職信兼も同じ夜に霊夢を蒙り同じ發句を神託有りしか夢寐の間、宮殿のもとに坐しけると覚へ御簾のうちより直垂の御袖あらはれて、かの發句にいへるかうたちての五文字は、十立をと書へしとの御告ありしと見て夢は覚たりとそ、是正保三年の事なりとそ信祐此夢に威し頓て、満宮の愛し賜ひし飛梅を以て神體を彫刻し社を建立して遷座し奉らんとの志願を起し、諸國を巡歴して天満宮の社を造立し、或は荒廃せる社を再建してかの霊夢に依て彫刻せし神體を鎮坐しへしと思ひしかと、神慮にかなはさるゆへにや造立せり社も多かりけれど、とかくして其意に満りと思う地もあらざりけり。其後終に江戸へ下りて此村の中程に有し天満宮の小祠を修造して、かの神體を遷せり。時に寛文元年八月二十三日なり。是を元宮天神と號す。其地は今の社地より東の方へ六七丁隔たりたる所なり。今は社もなくてその跡は僅かの除地なり。これを天神蓊地と號せり。然るに彼元宮天神遷座の後同じ年の内にたま々々台命ありて、本所方一里の地を開かれ武家町家に賜はりて居住の地とせしめたまへり。其時築地の奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門なりしかは、信祐ありつることともを彼二人へうつたへしに、翌二年二月十九日松平伊豆守信綱久世大和守廣之指揮ありしは、此社新地の鬼門にも當りたるは、何の幸かしかんや此後當所の鎮守と定へしとて、今の社地を賜ひしにより、同三年新田以下反橋心字の池などに至るまで悉く大宰府の社に擬して作りなせり。此年八月祭禮の儀式行はれしも又大宰府の例にならひて神輿をわたせり。同九年六月信祐上京して前大納言菅原豊長卿につきて、當社の圖を後水尾法皇に奉りしかば時の帝の観覧も有しとそ、頓て法皇より菅原尊號の宸筆を賜はれり。同七月十八日信祐新院へ参りて御簾近く候して當社の縁起をよみて叡聞に達せしかば御威斜ならず官女出羽局に勅有て御冠服を賜へり。其後元禄十年九月二十五日豊長卿命を傳へて仙洞よりの御免状を下されける。(以下略)

大変長々と記されているため、以下は省略とさせて頂いた。

亀戸村の「天神社」と記されているのが当社。
4ページに渡り境内図つきで記載されており、当社についての御由緒も記載。
菅原大鳥居信祐についての話は、より詳しく記されているが、基本的には現在伝えられている御由緒と変わらず、江戸時代から変わらぬ御由緒であった事が伺える。
基本的には当社の御由緒を補完する史料とも云え、詳細を知る事ができる貴重な史料となっている。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

「亀戸宰府天満宮」として、3ページに渡り描かれている。
徳川将軍家によって寄進された境内であり、当時から広大な社地を有していた。
現在は戦後に再建されたものであるが、当時と配置などはあまり変わっていない。

現在はない回廊や随身門の姿を見る事ができるので、当時はさらに壮麗だったのだろう。
「太宰府天満宮」を模して造られた太鼓橋も当時からその姿を見る事ができる。

社殿の右手奥には別当寺も見る事ができる。
これは「東安楽寺」(現在は廃寺)で仏堂なども境内にあり神仏習合の時代を見て取れる。

参道には多くの茶屋が描かれ、そのうちの一つが文化二年(1805)創業の「船橋屋」であろう。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

こちらは「二月二十五日菜種神事」と記された一枚。
2月25日は菅原道真公の命日にあたる。
そのため、神前に菜の花をお供えし、御霊を宥める神事が古くから行われていて、これは現在も「菜種御供(なたねごく)」として続けられている。

「菜種(なたね)」が「宥め(なだめ)」に通じる事から菜種が使われたとされる。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

こちらは当社の例祭時の神輿渡御の様子。
4ページに渡り描かれており、当社の賑わいとその規模が伝わる。
現在も4年に1度、大祭が行われ、御鳳輦が氏子町内を巡行し、全ての町神輿が連なって宮入する連合渡御が行われており、こうした賑わいの一幕を見る事ができる。

北斎や広重の浮世絵に描かれた当社

江戸の名所であった当社は浮世絵にも多く描かれている。

(葛飾北斎・諸国名橋奇覧)

葛飾北斎が『諸国名橋奇覧』で描いた「かめゐど天神たいこはし」。
かなり誇張して描かれたようにも思えるが、当時の太鼓橋は実際に上るのに苦労し、女性は手助けが必要な場合もあったと伝わっている。
北斎ブルーの良さが出た作品。

(歌川広重・江戸名所)

歌川広重による『江戸名所』内の「亀井戸天神ふし」。
当時の参道を真正面から見る事ができる。
境内には茶店が出て藤の季節になると、風情を楽しむ庶民が多かった。

(歌川広重・銀世界東十二景)

同じく広重による『銀世界東十二景』の「亀井戸天満宮境内一覧」。
見事な雪景色と、現在の境内にも通ずる見事な境内。
「太宰府天満宮」に倣った当時の境内がよく分かる貴重な一枚。
太鼓橋の先に現在は存在しない立派な楼門があり、今以上に立派な境内だった事が伝わる。

(一立斎広重・東都名所)

広重が後年に使用した一立斎広重の号による『東都名所』から「亀戸天満宮境内全図」。
こちらは当時の当社の境内マップのように境内全てをカラーで描いていてとても貴重。
境内の配置が大変よく分かる3枚綴の作品で、鳥居があり神門、その先に心字池と太鼓橋(男橋・平橋・女橋)と続き、立派な楼門、そして社殿となっている。
この社殿は享和二年(1802)、徳川将軍家よりの下賜金で造営された立派なもの。
基本的には現在の配置と変わらない部分が多いものの、やはり江戸時代は更に素晴らしい境内だったのが伝わる。

このように当社は江戸の名所であり、庶民からの人気も大変高かった。

明治以降の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。

明治三年(1870)、准勅祭社は廃止となる。
明治六年(1973)、府社に列し、「亀戸神社」に改称。

昭和十一年(1936)、「亀戸天神社」に改称。
「亀戸天神」と称され崇敬を集めた。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって神庫を除いた境内の殆どを焼失。
壮麗な社殿や美しい境内は焼け野原になってしまったと云う。

昭和二十二年(1947)、前田元伯爵家寄贈の社殿を仮本殿として再建。
昭和三十六年(1961)、鎮座三百年祭として拝殿・幣殿を再建。
昭和五十四年(1979)、本殿を再建し、現在の社殿となった。

その後も境内整備が進み現在に至っている。

美しい心字池と太鼓橋・三世一念の理

亀戸駅から北に徒歩数分歩くと亀戸天神通り沿いに参道。
参道に入る前の亀戸天神通り沿いには、文化二年(1805)創業と古くから当社の参道にある「船橋屋」があり、元祖くず餅は当社に詣でた後の定番となっている。

船橋屋のくず餅は江戸から伝わる元祖発酵和菓子です。元祖くず餅船橋屋は江戸文化二年(1805年)に亀戸天神参道に創業致した発酵和菓子「くず餅・あんみつ」の老舗です。くずもちひとすじ二百十年。

参道を進むと朱色の鳥居。
江戸時代の頃はこの位置に総門が建っていたようだが、現在は立派な鳥居で再建されている。

鳥居を潜ると最初の太鼓橋である男橋。
心字池と3つの橋は「太宰府天満宮」の境内に倣って造営されたもので、戦後の再建でも立派に再建された。

心字池(しんじいけ)とは、「心」の字をかたどった池のこと。

男橋に上ると境内がよく見える。
続く平らの橋は平橋(ひらばし)と呼ばれる。

平橋を渡ると再び太鼓橋があり女橋と呼ぶ。
江戸時代には女橋の先に、立派な楼門が建っていたが、現在はその先が社殿となる。

心字池と、男橋・平橋・女橋。
池と橋を人の人生に見立てた「三世一念の理」に基づき造営されている。
鳥居を潜って最初の男橋は生きてきた過去を表し、中央の平橋は現在を、そして社殿に近い女橋は希望の未来を表している。
3つの橋を渡ることによって心が清められ、神前へ進むようになる仕組みで、「太宰府天満宮」に倣って造営された。

女橋を渡ると右手に手水舎。
亀戸の地名・社号から亀が口から水を出しているのが特徴的。

スカイツリーとの対比が美しい社殿・神牛像など

社殿は戦後に再建されたもの。
拝殿・幣殿は昭和三十六年(1961)に再建され、本殿は昭和五十四年(1979)に再建。
徳川将軍家よりの下賜金で造営された旧社殿は壮麗だったと伝わるが、現社殿もとても立派。
現在は東京スカイツリーとの対比も美しく、撮影用のスペースなども用意されている。

社殿の手前左手には、天神信仰らしい神牛像(撫で牛)。
天神信仰の神使は牛であり、牛を大切にしている。
神牛像に振れる事によって病を治し、知恵を授かると云われ、多くの参拝者が撫でていく。

菅原道真公は乙丑の生まれで、牛を大層可愛がった事から、天神信仰の神使は牛とされている。

社殿の向いやや左には五歳菅公像。
昭和五十二年(1977)に奉納されたもので、道真公が5歳の時に詠まれたという和歌を刻んでいる。

美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある

太助灯籠や道真公と繋がり深い境内社

境内社は心字池の周辺に配置されている。

境内右手に「御嶽神社」。
道真公の学問の師である13世天台座主・法性坊尊意僧正を祀り、「卯の神」とされる。
近くに置かれた灯籠は太助灯籠と呼ばれ、天明元年(1781)に塩原太助が奉納したもの。

塩原太助は、裸一貫から身を起こし一代で富を築いた豪商で、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの大成功を収めた人物であり、その私財を庶民の生活のために投じた事から義人として評判が高かった。明治に入ると落語家・三遊亭円朝が太助をモデルとした『塩原多助一代記』を創作し更に人気が出たため、戦前には教科書にも登場する程であった。

その向い近くに「花園社」。
吉祥女(道真公の北の方)とその子を祀る事から、安産・子宝・育児などの御神徳で信仰される。

北の方とは、公卿・大名など身分の高い人の正妻の敬称。

境内の左手には「紅梅殿」。
寛文二年(1662)に「太宰府天満宮」の御神木・飛梅の実生を勧請し、社殿前に奉斎したのを機嫌としており、昭和六十三年(1988)に再建された。

心字池の参道途中には「弁天社」。
「太宰府天満宮」に倣い心字池に鎮座する「志賀社」を勧請したものであるが、池にある事から文人などが「弁天社」と呼ぶようになり現在に至っている。

梅まつり・藤まつりなどが美しい「花の天神様」

当社の境内は古くから花の名所として知られている。
江戸時代の浮世絵にも藤が描かれているように、江戸の名所であった。

(歌川広重・名所江戸百景)

歌川広重による『名所江戸百景』の「亀戸天神境内」。
現在も藤の名所と知られる境内は、江戸時代の頃から変わらず。
太鼓橋と藤の組み合わせは江戸時代の頃から大変人気で、江戸の名所であった。

戦後に再建された境内であるが、今もその美しさは変わらない。
特に梅まつり・藤まつりの時は、境内がより素晴らしいものになる。

梅まつりは2月上旬から3月上旬に行われる。
こちらは2017年の梅まつりの様子。
3月の梅まつり終了近くであったため、見頃は過ぎているが、美しい境内と東京スカイツリーの対比を楽しめる。

菅原道真公は梅の木を愛でた事で知られ、飛梅伝説なども残る。
政争に敗れて京から太宰府(九州)に左遷された際に以下の歌を詠んでいる。

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな

現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。

4月下旬からは藤まつりが開催。
こちらは2015年の藤まつりの様子。
境内に多くある藤棚が咲き誇り、江戸時代から名所として知られ、現在も「東京一の藤の名所」と云う事ができるだろう。

他にも菊まつりが行われたりと、当社は「花の天神様」として親しまれる。

こうした美しい心字池には、多くの亀の姿を見る事ができる。
この亀は神社側が飼育しているものではなく、参拝者が勝手に放流していったもの。

亀戸という地名から、参拝者が(天神さまなので受験生などが多い)お礼参りの際に、池に亀を放流していく事で増えていったものであり、当社ではそういう決まりがあった訳ではなく、亀戸という地名から連想させた参拝者の間で自然に広まった風習となっている。

神事としては「鷽替(うそかえ)神事」も知られる。
1月24・25日に行われ、神職の手作りの鷽(うそ)の木彫りが頒布される。

鷽は幸運を招く鳥と云われ、毎年新しい鷽に替えるとこれまでの悪いことが「嘘」になり、開運・幸運を得るとして信仰され、毎年1月24・25日に鷽替が行われる。

御朱印は授与所にて。
初天神、梅まつり、藤まつり、例大祭の開催中は、押印や筆書きが追加される。
オリジナルの御朱印帳も用意している。

所感

江戸時代に菅原道真の末裔によって創建された当社。
本所鎮守として徳川将軍家より庇護され、「太宰府天満宮」を倣った境内は、江戸の名所として庶民からの人気を集め、大いに賑わい崇敬された事が伝わる。
東京大空襲によって境内は悉く焼失してしまい、現在の境内は殆どが戦後に再建されたものとなっているが、「太宰府天満宮」に倣った心字池・太鼓橋などは今も美しく、社殿も立派に再建され、往時の姿にかなり近い境内となっている。
現在ではその美しさに加え、下町の新たなシンボルとなっている東京スカイツリーとの対比を楽しむ事ができ、景観の美しい神社であり、梅まつり・藤まつりの季節は特にその美しさが際立つ。
学問の神様としての崇敬、そして観光地としても人気を博している当社。
東京十社の中でも見所の多い良社であり、東京を代表する天神さまである。

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神社画像

[ 参道・社号碑 ]

[ 鳥居 ]


[ 太鼓橋(男橋) ]


[ 参道 ]

[ 平橋 ]

[ 太鼓橋(女橋) ]

[ 社殿 ]


[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 神牛像(撫で牛) ]



[ 五歳管公像 ]

[ 鷽像 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 御籤掛 ]

[ 石碑 ]

[ 授与所 ]

[ 社務所 ]

[ 神楽殿 ]

[ 御嶽神社 ]



[ 太助灯籠 ]

[ 藤棚・心字池 ]



[ 心字池の亀 ]

[ 花園社 ]

[ 弁天社 ]

[ 紅梅殿 ]


[ 石碑 ]

[ 筆塚 ]

[ 石碑 ]


[ 倉庫 ]

[ 神輿庫 ]

[ 境内の梅 ]



[ 案内板 ]

Google Maps