平河天満宮 / 東京都千代田区

神社情報

平河天満宮(ひらかわてんまんぐう)

御祭神:菅原朝臣道眞公
相殿神:誉田別命・徳川家康公
社格等:村社
例大祭:4月25日
所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
最寄駅:半蔵門駅・麹町駅
公式サイト:http://hirakawatenjin.or.jp/

御由緒

江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明十年(1478年)江戸の守護神として創祀された。(梅花無尽蔵に依る)
慶長十二年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に拝謁できる格式の待遇を受けていた。
また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/02/08

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※社名部分は墨書きではなく印判によるもの。
※季節に応じてスタンプが違う限定御朱印あり。
※午の日のみ境内社「平河稲荷神社」の御朱印も拝受できる。

(梅の季節限定)

御朱印帳

初穂料:1,500円(オリジナル)・1,300円(東京梅風会)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
表面に梅と菅原道真公をしらったもので、ピンクと白の2種類を用意。
東京の天神信仰の一部神社で頒布している東京梅風会の御朱印帳も用意。
何れも御朱印代込。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

授与品・頒布品

撤饌(煎餅)
初穂料:─
社務所にて。

※御朱印を拝受すると一緒に頂ける。

スポンサーリンク

歴史考察

平河天神・平河町の天神さま

東京都千代田区平河町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、平河町の鎮守。
創建の地は江戸城内に鎮座しており、江戸城の拡張と共に遷座し、徳川将軍家や紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家等の祈願所として崇敬を集めた。
氏子崇敬者からは「平河天神」と呼ばれる事も多く、境内には天神信仰らしい神牛像(撫牛・石牛)が多く奉納されているのが特徴的で、縁結びの梅も人気。
現在は東都七天神の一社となっている。

江戸城を築城した太田道灌による勧請

社伝によると、文明十年(1478)に太田道灌が創建したと伝えられる。

太田道灌は文明十年(1478)に江戸城を築城した人物。

菅原道真公の夢を見た道灌が、翌朝に道真公直筆とされる書を贈られたため、これを霊夢として江戸城内(現在の平川門内)に自ら創建したとされている。

道真公と飛梅の伝説から、当社の周囲に多くの梅の木を植えたため、当地周辺を梅林坂と呼ぶようになった。

今も皇居東御苑・梅林坂として残っており、梅の名所として知られる。

江戸城の拡張と大改造により遷座

天正十八年(1590)、関東移封によって江戸入りした徳川家康は、江戸城を居城とする。
平川門内の江戸城内にあった当社は、江戸城の拡張工事を受け平川門外に遷座。

第二代将軍・徳川秀忠の代になると、天下普請によって江戸城の大改造が行われる。
慶長十二年(1607)、その影響を受け社地を江戸城外の貝塚と呼ばれていた現在地に遷座。

江戸城内にあったため庶民の参拝が許されていなかったが、城外に遷座した事で庶民の参拝もできるようにする意図もあったと思われる。

創建の地は江戸城の平川門内であったため、「平川天神」と称された。
当地周辺も「平河町」という名前となり、現在の平河町は当社に由来している。
平河町は町奉行所の管轄となり、町家や武家屋敷が並び栄えた。

以後、徳川将軍家を始め、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の祈願所となり、新年の賀礼には、宮司が将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていたと云う。

学問の神として塙保己一など学者からの崇敬

江戸時代中期には『群書類従』を編纂した国学者・塙保己一(はなわほきいち)が当社を熱心に信仰した。

塙保己一は、7歳の頃に失明し盲目のまま国学を学んだ人物として知られる。
代表作となる『群書類従』は、古書の散逸を危惧した保己一が、古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種も収めたもの。

塙保己一は、学問の神であるとされた菅原道真公を崇敬しており、『群書類従』を編纂する際も、京都の「北野天満宮」に刊行を誓ったとされる。

江戸においては、同じく道真公を祀る当社を熱心に信仰しており、『群書類従』を完成させた。

渋谷区東2丁目に「塙保己一史料館(温故学会)」がある。
これは明治四十二年(1909)に渋沢栄一らが塙保己一の偉業を顕彰に設立したもの。
温故学会は塙保己一の偉業顕彰の目的から1910年に設立された。重文指定の『群書類従』版木の保管や各種啓発事業に努力している。

この他、江戸後期の医者であり蘭学者である高野長英も当社を崇敬したと伝わる。

高野長英は、幕府の異国船打払令を批判して開国を説いたものの、蛮社の獄にて弾圧を受け死去した人物。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(外桜田永田町絵図)

こちらは江戸後期の桜田門外の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は中央左に描かれている。

(外桜田永田町絵図)

当社周辺を拡大したものが上図になる。
「平川天神」と記され、現在よりも広い社地を有していた事が伺える。
多くの武家屋敷、町家として発展した一角であった。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「平川天満宮」として、見開きで描かれている。
現在よりも規模の大きい境内となっているのが分かる。
社殿も大変立派なものであり、境内には不動堂、地蔵堂、薬師堂、庚申塔など神仏習合の様子も伝わる。

境内右手には楊弓(ようきゅう)と記された一角があり、これは楊弓という小さな弓を使った的当ての遊戯場であり、境内が大いに栄えていた様子が伝わってくる。

楊弓場には、矢を拾ったり客の応対をしたりする美人の「矢取り女」と呼ばれる女がおり、客の人気を集め、裏では娼婦の役目を果たす女が多かった。

隣接する本殿裏手に別当寺「龍眼寺」も描かれている。

明治以降の歩み・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列し、「平河神社」と改称。
宮城(皇居)から一番近い神社として多くの崇敬を集めた。

大正十二年(1923)、関東大震災によって多大な被害を受け、社殿も焼失。
その後再建されている。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によってまたしても社殿を焼失。
戦後はしばらく仮殿の状態が続いた。

昭和四十四年(1969)、先に本殿が再建となる。
昭和四十八年(1973)、拝殿と幣殿も再建され現在の社殿となっている。

その後も境内整備や多くの奉納がされ、現在に至る。
現在は東都七天神の一社となっている。

境内案内

江戸時代の銅製鳥居や戦後に再建された社殿

最寄駅は半蔵門駅か麹町駅で徒歩数分の距離で、オフィスビルや飲食店が多く並ぶ一角に鎮座。
ビルに囲まれた境内であるが、社頭は広く取られておりかつての姿を偲ばせる。

石段を上ると関東大震災や東京大空襲の被害を免れた銅鳥居が立つ。
梅の神紋が施された銅鳥居で、天保十五年(1844)に造られたもの。
現在は千代田区指定有形文化財となっている。

鳥居を潜ると参道に多くの神牛像が並び、参道左手に手水舎。
梅をデザインしたてぬぐいや掛けられていて心遣いが有り難い。

社殿は昭和四十八年(1973)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造の社殿で、色彩も中々に豊か。
本殿は昭和四十八年(1973)に再建されており、この中に置かれているのだろう。

戦後、資金難で長い間再建する事ができなかったため、昭和四十五年(1970)に社地の一部をマンション用地として賃貸とし、財源を確保して社殿の再建や境内整備が行われた。

境内社の平河稲荷神社と三殿宮

境内社は参道の左手に平河稲荷神社。
奉納鳥居が連なり、この奥に社が置かれる。
鳥居や旗の数からも崇敬の篤さが伝わる一角。

稲荷信仰の縁日である午の日限定で、この平河稲荷神社の御朱印も拝受できる。

平河稲荷神社の社手前には嘉永五年(1852)に奉納された筆塚。
その隣には千代田区指定有名民俗文化財の力石。
天龍石と彫られており、力石にしてはかなりの大きさになっている。

他にも嘉永五年(1852)に奉納された百度石も参道途中に置かれている。
同年は菅原道真公950年遠忌であった。

銅鳥居のすぐ右手には三殿宮。
大鷲神社・塩神社・浅間神社が祀られている。
この日は既に梅が咲いており、梅の香りを感じる事ができる一角であった。

江戸時代の狛犬や撫牛(石牛)など・縁結びの梅

社殿の手前にある一対の狛犬は江戸時代に奉納された古いもの。
中々に個性的な表情をしている狛犬で、嘉永五年(1852)に奉納された。
菅原道真公950年遠忌に合わせて奉納されたものとなり、千代田区指定民俗文化財となっている。

他にも銅鳥居を潜ってすぐ右手にある常夜灯も嘉永五年(1852)に奉納されたもの。
左右一対で奉納されたものだが、現在は片方のみ現存している。

当社の境内には5基もの神牛像(石牛)が置かれているのが特徴。
この神牛像が最も古いもので、こちらも嘉永五年(1852)に奉納されたもの。
奉納時は一対であったというが、現在は1基のみ現存している。
撫牛として信仰も集めたようで、多くの人に撫でられ御利益を授けたのであろう。
それぞれの神牛像に奉納者の名前が記してあり、長年多くの人に崇敬されたのが伝わる。
こうした神牛像は天神信仰を深く伝えてくれる。

菅原道真公は乙丑の生まれで、牛を大層可愛がった事から、天神信仰の神使は牛とされている。

境内の右手には布袋尊像も置かれる。
近くに紀尾井町キャンパスがある城西大学からの奉納。

2つペアで実がなる縁結びの梅

社務所手前には、縁結びの梅と呼ばれる梅の木。
この梅の木の実は、2つペアで梅の実がなる珍種で、この事から「縁結び」「恋愛成就」の御利益があると知られている。

菅原道真公は梅の木を愛でた事で知られ、飛梅伝説なども残る。
政争に敗れて京から太宰府(九州)に左遷された際に以下の歌を詠んでいる。

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな

現代語訳:東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。

このように天神信仰と梅は関わりが大変深く、神紋は梅となっている。
こうした「縁結びの梅」も信仰を考えると素敵な事であろう。

天神信仰が伝わる御朱印帳・限定御朱印

御朱印は社務所にて。
御朱印帳もこちらに置かれている。

御朱印帳は天神信仰を伝える当社らしいデザイン。
表には菅原道真公や梅がデザインされ、裏には鷽(ウソ)や神牛がデザインされており、いずれも天神信仰と関わりの深い意匠。

鷽(ウソ)は天神様縁の鳥として知られ、初天神の1月25日には、この鷽を木彫りにした「鷽」を新しい「鷽」と取り替えるという「鷽替え神事」が行われる。

御朱印をお受けした際には神饌(煎餅)も頂いた。
また挟み紙にも梅のスタンプが押されていたりと凝っている。

御朱印は季節や行事に合わせた限定御朱印を用意しており、スタンプの種類が変わる。
いずれも天神信仰を伝えるスタンプとなっているものが多い。
また12日に1度訪れる「午の日」のみ、境内社「平河稲荷神社」の御朱印も拝受できる。
詳しくは下記公式サイトを参照頂きたい。

所感

江戸城内の天神さまとして崇敬を集めた当社。
江戸城の拡張と共に現在地に遷され、平河町という町名は当社が由来となっている。
学問の神である道真公を祀る当社は古くから学者などの崇敬を集め、道真公950年遠忌であった嘉永五年(1852)には、撫牛・狛犬・筆塚・常夜灯・百度石など現存する多くのも物が奉納されており、江戸時代から大いに崇敬を集めた事が伝わる。
明治以降も「宮城(皇居)に一番近い神社」として崇敬を集めており、幾度も震災・戦災などで焼失しながらもこうして維持されているのも、そうした崇敬によるものであろう。
現在は、学問特に医学や芸能、商売繁盛等の祈願者が多く、縁結びで訪れる方も多い。
境内には多くの神牛像(撫牛)や梅など、天神信仰を伝えるものが多く、御朱印や御朱印帳もそうした一環となっている事が伺え、天神さまらしい神社となっている。

スポンサーリンク

神社画像

[ 社号碑・銅鳥居 ]


[ 銅鳥居 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]



[ 平河稲荷神社 ]


[ 百度石 ]


[ 力石(天龍石) ]


[ 筆塚 ]

[ 三殿宮 ]


[ 梅 ]

[ 常夜灯 ]


[ 撫牛(石牛) ]


[ 石牛 ]




[ 布袋尊像 ]

[ 社務所 ]

[ 縁結びの梅 ]

[ 参集殿 ]

[ 案内板 ]

Google Maps